第2幕「Audition!」
【5】
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123号室。 最上級生の部屋が並ぶ高校寮の1階、悟の部屋。 ちょっと躊躇ったけど『オールクリア』と言ってにっこり笑った昇の言葉を信じて、僕は初めて尋ねるそのドアを、小さくノックしてみる。 そのノックの音が、それこそまだ消えてないんじゃ…ってくらい、驚くほど素早く、内側へドアは開いて…。 けれど、ドアがそれほども開ききらないうちに、僕の腕は伸びてきた手に掴まれて、中へ引っぱり込まれた。 「葵…っ」 いきなり顔を埋めるようなカッコになってしまったのは、見なくてもわかる……もちろん悟の暖かい胸。 後ろで微かにドアの閉まる音がすると、僕はホッとして、身体全部をその腕の中に預けてしまう。 「悟…」 深く息を吸い込むと、鼻から体中を満たす、大好きな悟の匂い。 香りのするものなんて何もつけていないはずなのに、ふわっと甘い香りが燻ってるような気がするんだ。 一度、そのことを守に言ってみたら、守は『そりゃきっと、俺には感じられないよ』って笑った。 『好きな人にだけわかる、好きな人の匂いなんだ』って。 「こら、葵…」 頭の上から笑いを含んだ声が落ちてきた。 必死でしがみついて悟の胸に顔を埋めたまま動こうとしない僕を、悟が引き剥がそうとしている。 「葵……顔見せて」 耳に直接そんな囁きを送り込まれると、体中の神経がキュッと縮んでしまうような気がする。 言われて僕は、腕を悟の身体に懸命に回したまま、顔だけ上げる。 そこにあるのは、優しい……けれど熱い眼差し。 そして、すぐに降ってくる暖かいキス。 僕は夢中でその暖かさに縋って、もっともっと強くしがみつく。 悟は、それよりももっと強く抱き返してくれて…。 ふと腕の力が緩んだのはきっと、僕の息が上がってしまっているから? 「葵…会いたかった」 「僕も…会いたかった、悟」 ドアにもたれるようにして抱き合っていた僕たちは、そのあまりの余裕の無さに、ふと可笑しくなって、おでこを合わせたままクスクスと笑ってしまう。 「おいで」 悟が僕の手を引いて、そっと座らせてくれたのはもちろん、悟のベッド。 去年と同じ、ドアから向かって左側。 向かいのベッドは綺麗に整えられたままだ。 「悟…、横山先輩は?」 もう一人の部屋の主が気になって、僕は悟を見上げた。 「大貴は昇の部屋に行ってる」 「昇の?」 「そう。あっちはあっちで何か企みがあるようだから、葵は何も心配しなくていいよ」 企み事? 僕が僅かに首を傾げたのがわかったのか、悟はふわっと笑って、また説明をくれる。 「大貴と真路…えっと、生徒会長の…」 「浦河先輩?」 昇の同室は、去年と同じ、生徒会長の浦河先輩なんだ。 「うん、そう。 とりあえず、今は大貴が昇と真路の部屋に行っていて、昇は守のところに避難しているはずなんだ」 避難って…。 「生徒会…、何か揉めてるの?」 僕が少し眉をひそめると、悟はそれは可笑しそうにククッて笑った。 「…まあ、揉めごと……ではあるな。ただし、あくまでも個人的な話だけれどね」 個人的な事って…と、僕が考えを巡らせようとすると、悟は『もうこの話はおしまい』とばかりに僕の頭を抱いて、ギュッと抱き寄せた。 「とにかく、大貴が戻ってくる前に、昇が知らせてくれることになっているから」 「…なんだかものすごく手回しいいね」 「ああ、計画はばっちり。葵と浅井の部屋にもちゃんと手が打ってあっただろう?」 …え? もしかしてそれって…。 「まさか、祐介にアニーを差し向けたのは…」 だって、タイミングよすぎだもんね。あれは。 「昇の差し金。…もっともアニーも浅井と二人になるチャンスを狙っていたみたいだから、『渡りに船』ってところかな」 な、なんだか水面下で色々動きがある…? しかも『チャンスを狙って』って…。 始まったばかりの新しい1年に、期待と言うにはあまりにも多い不確定要素を感じて、僕はほんのちょっと戸惑う。 「だから、葵は何にも心配しなくていいんだって」 上機嫌の悟は、今度は僕の脇の下に手を入れて、ひょいっと……いとも簡単に、僕を膝の上に横抱きにしてしまった。 「相変わらず軽いな、葵。ちゃんと食べてる? 練習に根を詰めてるんじゃないか?」 それを言うなら…。 「悟こそ、どうなの? 今年は審査に入るんでしょ? 佐伯先輩が、下準備で大変なんだから、悟の邪魔するなよ…って」 「…あいつ、そんなこと言ったのか?」 眉をひそめる悟。 「でも…」 僕はそっと悟の肩に頭を乗せる。 「佐伯先輩がいてくれて、助かってるでしょ? 悟」 「…すごくね」 ちょっと肩を竦めて、でも素直に認めちゃうところがなんだか可愛い。 可愛いなんて言ったら、きっと怒るけどね、悟は。 「フルートパートには悪いと思うんだけど、佐伯の気持ちもよくわかるし、何より僕自身がすごく助かるし…。」 「佐伯先輩の気持ち?」 それって、もしかして『悟を助けたい』って言うだけじゃないってこと? 悟は少し頷いて、『理由はいろいろと複雑に絡んでいるんだと思うけど』って前置きしてから、静かに話し始めた。 「あいつ、来年自分が卒業したあとの事も考えてるんだ。あいつがオーディションから抜けることで、今年のフルートの序列は、葵の首席は変わらないとして、次席には浅井か藤原が来る。 もちろん、あいつがオーディションに臨んだとしてもそう言う結果になるかもしれないが、あいつにしてみれば、オーディションに参加する限りは手を抜くわけにもいかないし、かといって真面目に挑んで後輩に抜かれるのも気分のいいものじゃない。 けれど、あいつはどうしても藤原に次席か第三席を渡したいんだ」 「藤原くんに?」 「藤原には今すぐにでも次席に座れる実力がある。浅井とはほぼ互角といっていいと思う。もしかしたら、今年。今年はなくても来年、次席になるかもしれないし、卒業まで浅井が逃げ切ったとしても、藤原は次の年には首席になる」 …悟の中では、僕が卒業まで首席だってのは、確定してるみたい…。 「けれど、藤原はもともと引っ込み思案な上に、上級生に囲まれるとすぐ萎縮してしまうだろう?」 「うん、確かに」 「佐伯は、そんな藤原を伸び伸びと演奏できるようにしてやりたいと思ってるんだ。余計な不安を取り除いてやって、出来るだけ早くから、メインメンバーにより近い状況を経験させて、自信と度胸をつけさせたい…って」 佐伯先輩……そんなこと考えてたんだ。普段はオヤジなセクハラしかしないクセに。 「…なんか、感動…」 僕が呟くと、悟は『内緒だぞ。あいつ、そういう“いいかっこ”は嫌いだからな』って、また僕の身体をギュッと抱きしめて言った。 「うん…」 僕らは、本当に『先輩』に恵まれてるんだな…。 それから、『昇が迎えにくるまで』は1時間ほどしかなかったんだけれど、でも、僕たちは入寮日以来、久しぶりに言葉を交わし、色々な話をして、ほんのちょっとだけれど、お互いの身体の温もりも感じて、幸せな――でも、かなり名残惜しい気分で別れた。 ☆ .。.:*・゜ 非常灯しか灯っていない、寮の階段。 昇と一緒に123号室に現れた守が、僕を3階まで送ってくれた。 『大丈夫だよ、一人で戻れるよ』って言ったんだけど、『バカ、途中でどこかの部屋に引きずり込まれたらどうする気だ』な〜んて真顔で言うんだもん、笑っちゃったよ。 「あ〜、でも助かったぜ」 3階への踊り場で守が言った。 「助かった?」 「ああ、悟のヤツ、葵に会えないもんで煮詰まっちゃってさ。オーディションの楽譜を見ても、全然頭に入らなくて苛々してたんだ。おかげでこっちまでとばっちり食らってさ〜」 「とばっちり?」 「たまたま悟がいる部屋で練習してたらさ、あいつ、『今の音は八分の一上擦ってる』とか、『さっきの音は一六分の一下がってた』だとか、難癖つけてきやがんの〜。普段そんなこと一言も言わねぇし、思ってもいないくせにさ」 ……だよね。 だって、弦楽器の、その程度の音程の揺れって、守や昇の実力なら『音楽の流れの中の揺れ』として、綺麗に処理出来る範囲だから。 「でさ、昇のヤツも同じ被害に遭ってて、『こりゃヤバイ、何とかしなきゃ』ってことになったんだ」 うーん、悟も結構『困ったちゃん』なんだ。 なんかやっぱり、可愛い。 「で、今夜の段取りになったってわけ?」 「そういうこと。 だってさ、『そんなに会いたきゃ、会おうって言えばいいじゃん』って言ったら、あいつ、『葵もオーディション前で、ただでさえ大変な時期なのに、パート全体の面倒まで見ることになってそれどころじゃないはずだ』…な〜んて、物わかりのいい振りしちゃってさ〜」 悟…。僕の事なんて、気にしなくていいのに。 「ま、健康のため、溜めすぎには注意しましょう…だ」 た、溜めすぎって…。 「すっきりしたか? ん?」 …ちょっと、その聞き方、佐伯先輩的セクハラちっくなんだけど。 僕は、小さな声で『バカ…』って返してから、守をそっと見上げた。 そこにあるのは、これでもかって言うくらい、優しい眼差し。胸が急に熱くなる。 「守、ありがと…」 小さな声でそう言うと、守は僕の頭をくちゃっとかき混ぜてやっぱり小さく笑った。 「いや、こういうお節介ならいくらでもやってやるけどさ、お前たちって…」 ふと真顔になって僕を見つめる守。 「相手の都合とか気持ちとかばっかり優先させずにさ、もうちょっとお互いに甘えるって事もしていいんじゃないか? 『自分はこうしたい』ってことを伝えた方がいいと思うぞ。そうでないと、すれ違うばっかりだぜ」 …確かにそうなのかもしれない。でも、悟は悟で『いまやるべきこと』を懸命にこなしていて…。 僕はこの1年でわかったんだ。 悟は確かにみんなの憧れで、ヒーローだけれど、みんなが思っているようなスーパーマンじゃない。 悟は僕たちと同じ高校生だけど、僕たちよりずっとずっと努力していて、その積み重ねで今の悟がある。そして、それはきっとこれからも変わらない。 僕はそんな悟の重荷にはなりたくない。 「うん、そうだね…」 ポツンと呟いた僕の頭を、守は今度はギュッと抱き寄せて『がんばれよ』って囁いてくれた。 そして、そんな守のありがたい忠告の意味を、心底思い知らされる時がくるとは、その時の僕には知る由もなかった。 |
【6】へ続く |