幕間「祐介クンは今年も憂鬱」
【1】
![]() |
聖陵生活も5年目に突入。 中等部の頃はさておき、高等部に入ってからの浅井祐介の学校生活は充実していると言っていいだろう。 それは高校2年になった今年もきっと同じ――いや、もっといい1年にしたいと心底思っている。 相変わらず葵とは四六時中一緒にいられるし、最も懸念された不確定要素である新学年のオーディションでも、彰久の猛追はあったものの、次席という誰にも譲れないポジションは死守できたし、何もかもが順風満帆な滑り出しを見せている…と言っていいと、自分でも思っている。 思っている…のだが。 「ゆーすけ〜!」 「あおいちゃ〜ん!」 ここに、計算外の不確定要素が二つ。 アニーと司。 この二人、単に気があっているのか、はたまた利害の一致でもみたか、いつ見てもつるんでいる。 聖陵でも一、二を争うであろう長身で、しっかりした体躯――しかも昇と違って生粋の異国人であるアニーと、特に小さいわけではないものの、細身で美人の司のコンビは、普通に歩いているだけでも十分に目立つと言うのに、この二人は人目も憚らずに葵と祐介にじゃれつくのだ。 もちろん人前では『先輩』と呼ぶのだが、葵と二人きりでいるときには、こんな風に甘ったるい声で名前を呼んでくる。 そりゃあもちろん、嫌われるよりは懐かれる方がいいに決まっているのだが、この二人の『懐き方』は尋常ではない。 司はそれこそ遠慮なく葵にベタベタと触りまくるし、腕に絡みつくだの抱きつくだのと言う行為は日常茶飯事だ。 だが、『二人は幼なじみ』という事実がすでに聖陵生たちの間にすっかり浸透していて、このスキンシップはちょっとばかり過剰であっても何となく許されている。 美人同士…という麗しい見た目にも助けられてはいるのだが。 しかし…。 「あさいせんぱ〜い」 アニーは…。 「…だからアニー、やめろって、それ」 ついさっきは『ゆーすけ〜』などと呼んでいたクセに…と、思ってはみるが言葉にはしない方がいいだろう。 なぜなら…。 「どうして?ぼくは 一ねんせいで、きみは 二ねんせい。だから『せんぱい』だろ?」 アニーは絶対面白がってやっているに違いないからだ。 あさいせんぱい…そう呼ぶたびに、祐介が頬を染めるのが楽しいのだ。 「そんなこと言ったって実際アニーは僕より早く生まれているし、それに僕らは友達として仲良くなったんだから」 その言葉に、アーネストはチッチッチ、とお得意のポーズで人差し指を軽く振った。 日本人がやるとお笑いになってしまいそうなその仕草も、さすがにサマになるので嫌みはない。 「日本のがっこうは、どこよりも上下かんけいがはげしいんだ。だから、たとえ、としがいっしょでも、がくねんがちがえば、せんぱい…だろ?」 真っ向から正論で攻めてくるアニーに、さすがの元生徒会長も押され気味だ。 「そりゃ、そうだけど…」 それでも何か言おうとする祐介に、アニーはだめ押しをする。 「だめだめ。『GOにいってはGOにしたがえ』…ってね?」 一瞬何のことかわからなかった葵と司だが…。 「アニー、難しい言葉知ってるんだね。さすがだよ」 見上げて笑う葵に、アニーは見下ろしながら首を傾げる。 用法は間違っていないはずだ。 「あれ? つかいかた、おかしかった?」 「ううん、完璧。 ね、司」 「うん。ばっちりだよ、アニー。ただ…」 葵と司が顔を見合わせる。 「ただ?」 「発音が良すぎて…」 「…ぷっ」 祐介が吹き出したことが嬉しくて、アーネストの表情もさらに緩む。 こんな風に、とにかくアーネストは祐介にべったりだ。 もちろん、遠い異国の地で知り合って築いたせっかくの関係を、祐介としても『これっきり』にしたかったわけではないのだから、こうしてアーネストが追いかけてきてくれたことに、感謝しているし、とてもとても、嬉しく思っていたりもする。 ただ、現在のところの祐介の危惧は『度をすぎるアニーのスキンシップ』だけではなく、他のところにもあった。 だいたい上級生である自分たちにばかり引っ付いていていいのか。 一年生の間で浮いてしまっていたりはしないのか。 なによりそれが心配になった。 だが、それとなく同じフルートパートの高1である紺野昌生に尋ねてみた結果はこう。 『あの二人は面倒見もいいし、明るくて楽しいムードメーカーだし、何より実力的に指導的立場にあるから、みんな全面的に信頼をおいていますよ』 こんな風に、こともなげに言い切られてしまうと、もうどうしようもない。 そうなると次に腹立たしいのは、あっという間に管弦楽部どころか全校規模にまで膨れ上がりつつある妙な噂話…だ。 『浅井祐介がアーネスト・ハースに落とされるのはいつか?』 どうして自分が『落とされ』なくてはならないのだ。 だいたい、『浅井祐介と奈月葵はデキている』というのがこの学校の定説だったはずだ。 それに、こんな噂が流れ出し、しかもこれ見よがしにアーネストがじゃれてくる状況の下、どうも気になる行動をしてくれる下級生がいるのだ。 彼のことは今までとても可愛がってきたし、あちらも自分に懐いてくれていたはずなのに、なぜか新学年になってからこっち、側へ寄ってこなくなった。 パート練習の時にはもちろん同じ部屋にいるのだが、そちらへ視線を持っていくと、さりげなく視線が外されてしまうし、立ち位置もそれとなく距離も取られてしまっているような気がするのだ。 嫌われるような事をした覚えもないし、傷つけるような事を言った記憶もない。 それに、何が一番気になると言えば、『元気がない』ということだ。 もし、自分に非があるのなら正さなくてはいけないけれど、それにしてもあの元気の無さはちょっと心配で、あまりに萎れているので声も掛けにくい。 当然そのことに葵が気付いていないはずはないと思って話をしてみたけれど、『そう?』と、軽くいなされて、それっきりになってしまったし。 それに、まだ気になることがある。 中1の初瀬英彦だ。 彼が特に祐介に何かをしたとか何かを言ったとか、そんなことは…全くない。 むしろ、いったいどんな家庭で育ったのかと聞いてみたくなるほど、堅苦しいくらいに礼儀正しくて、そう言う意味ではこちらも声が掛けにくい存在ではあるのだが、その堅苦しいくらい礼儀正しい英彦が、どうも――何となくいつも――彰久の側にいるような気がするのだ。 特に会話が弾んでいるわけではない。 それどころか、フルートの事しか話題がないのか、その他の話題で会話をしているところなど見たことがない。 だが、なぜか気がついたときには必ず、彰久の側に英彦がいる。 そして、彰久が楽譜を落とせばサッとかがんで拾い上げ、小さな声で『ありがとう』と言われれば『いいえ』と落ち着いた声で答え、ついでなのか何なのか、ご丁寧にも落ちた楽譜からササッと埃を払うという仕草までして、しかもわざわざ表紙を上に、彰久の方に向けて両手でその楽譜を差し出すと言う有様だ。 こんな風に――新学期が始まってからまだ半月ほどしか経っていないと言うのに――いつの間にか祐介と彰久の距離は空き始めていて、反対に彰久と英彦の距離は縮み始めているのだ。 (あんなに怯えていたクセに…) 入学当日の初顔合わせから、一目でわかるほど彰久は英彦を避けていた。 それは単に『大きくて取っつきにくそうな後輩』にいつもの彰久らしい人見知りが出ていただけで、決して嫌いだとか言う負の感情が支配していたわけではないのだろうが、それにしてもあれだけ懐いてくれていた自分との距離がこうで、あいつとの距離が着実に近づいているこの状況はいったいなんなのだ…と祐介は知らず眉間に皺を寄せてしまう。 そう言えば、昨日も部活のあと、二人は肩を並べて――正確に言うと、英彦が半歩遅れて――中学寮への坂道を上がっていった。 歩幅があれだけ違うのだから、彰久の半歩後ろに従うのはかなり大変なことではないかと思うのだが、それでも英彦はそれを気づかせない程度には上手く歩いているようだ。 けれど、なんだかそれも気に入らない。 もちろんいつでもそのことを考えているわけではないのだが、ふと思い出すたび、それは喉に刺さった小魚の骨のように、身体の敏感な部分をチクチクと刺激しているようで気持ちが悪い。 今もちょうど思い出してしまい、知らずため息を漏らしてしまったところで……。 「…そうだ」 何を思い出したのか、葵が目をぱっちりと開け司を見つめたおかげで、祐介は小魚の骨の刺激から立ち直る。 「何? 葵ちゃん」 「昇…先輩たちに司のこと紹介しなきゃ」 側にいるアニーを意識してか、葵は兄に『先輩』という尊称をつける。 もしアニーが葵と悟たちの関係を知らないのだとしたら、そもそも『紹介する』という行為そのものが不自然であるのだが、回転のいい葵の頭の中も、こと兄たちのこととなるとそうもいかないようだ。 だがアニーは何も言わず、ただニコニコと聞いている。 話の内容は、当然理解できているはずであるが…。 「ああ、それ、もういいよ」 にっこりと返す司に、葵は『え?』と問い返す。 「オーディションの結果が出てすぐに、昇先輩のところに挨拶に行ったんだ」 その言葉に葵はあっさりと納得した。 司は次席奏者として、この1年、昇の隣で弾くのだから。 「で、その時ついでに自己紹介してきたよ。もちろん、あのことも」 あのこと…とは当然、兄弟関係のことだろう。 司もまた、何も知らないであろう、アニーへの配慮を見せたようだ。 「そうなんや…。ごめん、ちゃんと紹介しようと思ってたのに」 「いいって、そんなん」 屈託なく微笑み返してくる司に、葵はもう一度小さく『ほんまにごめん』と呟く。 途端に司がニヤリと微笑みを変えた。 「んじゃ、お詫びのキス!」 「「うわぁっ!」」 声を上げたのは、葵と…そして、祐介だった。 |
【2】へ続く |