幕間「祐介クンは今年も憂鬱」

【2】





 校舎から音楽ホールへ向かう並木道。

 司は相変わらず葵にじゃれるように話を続ける。


「それにしても、隣で弾けば弾くほど昇先輩ってすごいなぁ…って思う。あれでまだ高校3年なんやもんな〜。僕が2年後にどこまで弾けるようになってるかなって思うと、ちょっと落ち込んじゃう」

 はぁぁ…とため息をつく司に、アーネストが笑いながら同意する。

「そうだね。さすがにマエストロの血をひくだけのことはある…とおもうよ。あの、かんせいのするどさは、もって生まれたのうりょくのいちぶ…だろうね」

「うん、そう思う。それに守先輩! あの人もすごいよね。正面で弾かせてもらってすごく勉強になる。だって、てっきり自分の演奏に没頭してるもんだと思いこんでたら、とんでもなかった」


 自分の言葉にしきりと納得している様子の司に、今度は祐介が言葉をかける。


「指揮者、コンマス、各楽器のトップ…それぞれに対して守先輩が払う注意力…だろ?」

「そうなんです! まるで自分だけの世界にいるように見せてるのに、実は体中をアンテナにして、そこら中の音や動きを瞬間的にキャッチしてるんですよね、守先輩って」

 指を組んでうっとり視線をあげる司は、まるで恋する乙女の風情だ。


「たしかに、きょうだいそろって あんなふうにさいのうにあふれているっていうのは、けう…なことだよね」

「…へぇ〜、アニーってば難しい言葉知ってるね」


 自分もその兄弟の一人なのだとアーネストに知られているわけでもないのだが、大好きな兄たちがすでにプロデビューしているアーネストに手放しで誉められるのを聞き、葵はなんだか嬉しくて照れくさい。



「え? そう?」

「うん、今の『希有』なんて言葉、そうだよ。学校では習うけど、実際ちゃんと日常に使える子って、少ないもん」


 そう言われてアーネストは、もしかすると来日から受験までの間、24時間べったりついていてくれた日本語の家庭教師が年輩だったせいだろうかと思うのだが、とにかく誉められたのだからいいとしよう。


「ん〜、でも、日本ごは むづかしい…。とくに かんじばっかりでいみを作るのって すごくたいへん」

「ああ、四字熟語なんて大変だろうな。日本人でも苦手なヤツ多いから」

 普段はきりっとした眉を、弱り切ったように下げるアーネストに、祐介も心底同情するように肩をポンポンと叩いた。

「そう、すごく ちんぷんかんぷん」

 いいながら、アーネストは肩に触れた祐介の手を取りギュッと握りしめた。

 そして、その手を慌てて外す祐介を、葵も可笑しそうに眺める。


「あはは、その『ちんぷんかんぷん』っての、ちゃんと使い方あってるよ」
「うん。 あ、あと…『酒池肉林』っていうのわかる」


 一瞬固まってしまう3人。
 今聞いた言葉はいったい何だ?


「おいっ、誰がアニーにそんな言葉教えたっ!」

 真っ先に我に返ったのは祐介。

 だが、アーネストはいったい祐介がどうして声を荒げているのかわからないような顔で見つめ返してくる。

「えっと、のぼるせんぱい」
「だ〜!」

 ベタベタの『関西ノリ』でコケているのは司。

「あ〜、昇…先輩って外見裏切って現代文だの漢文だのが得意だからな〜」

 葵が腕組みすると、祐介もまた同じポーズで応える。

「そうそう、どう見ても『外国語ならなんでもこい』みたいな外見なのに、実際英語なんてめっちゃ苦手って話だしな」

 横ではそんな情報を司が興味深げに聞いている。

「それにしても酒池肉林はないんじゃないか」

 祐介が感心してる場合じゃない…とばかりに言うと、アーネストがまた爆弾を落とした。


「あと、『焼肉定食』とか」

「「「はぃ〜?」」」

 食堂のメニューの話だろうかと思う3人組。
 しかし…。

「えっと、ほら、このもんだい…」

 アーネストが肩からぶら下げている大きなカバンから取り出したのはその名もズバリ『四字熟語辞典』。

「これ、わからなくてこまってたら、まもるせんぱいが、『これは焼肉定食が正解だ』って」

 アーネストが長くてしっかりとした指先でさしたそこには、虫食い問題が。

『○肉○食』

 一同、目が点。


「…これは弱肉強食っ」

 今度も真っ先に我に返ったのは祐介だ。

「あ。そうなんだ」

 どういう意味…? と問いかけてくるアーネストに祐介が正しい意味を教えている。


「葵ちゃん、守先輩ってワルだね〜」
「ほんっと、酷い先輩だよね、まったく」

 横では、弱肉強食の意味を理解したアーネストが『かたじけない!』と、今時どんな日本人でも使わないであろう言葉を叫んで祐介に抱きついているのだが…。


 ふと真顔になって言った。

「そうそう、それと『魑魅魍魎』もわかるよ」

 またしても一同、目が点。

「…浅井先輩…書けます?」
「…いや、パス。…葵は?」
「えっと…かろうじて魅と魍…くらい」
「それだけわかったら十分だと思うけど…」
「…まあ、書けてもしょうがないしね。…それにしてもアニー、これは誰に教わったの?」


 見上げてくる葵に、アーネストはにっこりと笑った。

「さとるせんぱい」

 一同、無言。

 そんな3人に、アーネストは無邪気に笑ってみせる。

「一ばんむずかしいかんじ って どんなのですか?ってきいたら、『これかなぁ?』って」

 確かに難しいが……。

「せ、せんぱい、意味わかってて教えてんのかな?」

 思わず言葉につまる祐介。

「…そりゃ『聖陵の頭脳』…だからねぇ」

 あの悟が意味を知らないはずはない。

 そう思った葵にアーネストはまたしてもにっこりと笑った。
 次はどんな爆弾が落ちるのか。


「ついでに『跳梁跋扈』っていうのも おしえてくれた」
「げ。絶対書けない」

 呟く司。

「葵、書ける?」
「んと…跳と梁と跋は、多分。最後のはちょっと…一番上に横棒が要ったかどうか、自信ない」

 げ、書けるのかよ…と、今度は祐介が呟く。

「でもさ、アニー、意味は聞いた?」

 そう、問題はそれだ。

「うん、『魑魅魍魎が跳梁跋扈する管弦楽部』…って つかいかたが ただしいって」


 確かに大外れとは言い難い。
 だが、どちらかというと『百鬼夜行』の方がぴったりではないだろうかと思いつつ…。

「悟先輩って、そんな人だったんだ…」

 ボソッと言った祐介に葵はちょっと肩を竦めて見せた。

「…そうみたい」


「でもさ、昇先輩も守先輩も成績がよくて演奏が上手いだけの人じゃないってところが魅力的だよね」

 またしてもうっとりと司が言う。

「ノリがよくて楽しくて、ほんっとスゴイ先輩だよね、二人とも」 

 その言葉を笑って聞いている祐介とアーネスト。

 ではこの言い様のない違和感を感じているのは自分だけなのか。

 葵は無意識に司の瞳を見つめてしまう。

 しかし、司もまたその視線を捉えると幸せそうに微笑み返してくる。


「ああ、僕ほんとにここに来てよかった〜。あんなスゴイ先輩と一緒に演奏できるんだもん。あ、もちろん浅井先輩もアニーも」

「こら、付け足しくさいぞ」

「きゃ〜、ごめんなさい〜」


 祐介が笑いながら司の頭をかき回すと、司もまた嬉しそうにはしゃいで、大きなアーネストの後ろに隠れようとする。

 4人で話していると、こんな風に会話から笑いが絶えない。

 だが、葵もまた、祐介とは違う意味で身体の嫌な部分をチクチクと刺激されているような不快感を覚えてしまう。





「じゃあ」

 音楽ホールに到着して、まずアーネストがオーボエのパート練習に向かって行った。

「ああ、また合奏で」

 手を振り返す祐介に、投げキスで応えるアーネスト。

 そんな面白い――しかし祐介にとっては脱力ものの――光景を目にしながら、どんなにいい方向へ持っていこうとしても、どうしても残ってしまうこの不快感。


 これをどう処理すればいいのか。

 葵の思考がループに入りかかったとき、司が突然それを口にした。


「ああ、そうや、葵ちゃん。悟先輩から伝言」
「…悟…から?」

 今までその存在を認識していないのではないだろうかと思われた司の口から、漸く漏れた、悟の…名。

 しかも、何か言づてを持ってきたのだという。

 だがそれは予想もしないことだった。



「今夜9時の約束、キャンセルしてくれへんかって」
「…え?」



 今夜の約束。それは3日前に結んだ約束。
『午後9時。部屋で待っているから』…と。


「なんや、急に用事が出来たみたいやで。管弦楽部長ともなれば大変やね、ほんまに」

「あ、うん、そうやな…」

「そんなに気ぃ落とさんと。また悟先輩の方から連絡するから、待っとって…って」


 もちろん気落ちもしているが、それ以上に、咄嗟に言葉が出なかったのだ。

 だが、にこっと微笑む司に、葵は約束のキャンセルで少なからず落ち込んだ気持ちを少し浮上させる。

 悟は忙しい。それはよくよくわかっていること。

 そして、その悟の邪魔は絶対にしないと決めているのだから、こんな事でいちいちくよくよはしていられない。

 それに、今の会話で、司が悟の話を全くしないことに対する妙な不安は綺麗に消えた。

 伝言を頼むほどなのだ。自分の知らないところで二人はきっと親しく話しているに違いない。

 司は人懐こいし、悟は優しいのだから。

 だから、それだけでもよしとしよう…。

 葵は何度か自分にそう言い聞かせた。





「葵…」

 司がヴァイオリンパートの練習に向かい、二人きりになった練習室。

 やはり気落ちはしているのだろうか。
 祐介が心配そうに声をかける。


「ん? なに? 祐介」
「…そんなにがっかりするなって。きっと今回だけだから…さ」

 少なくとも今まではキャンセルなど一度もなかった。
 遅れてしまうことはあっても、それでも必ず悟は約束を守った。

 だから、きっと、祐介が言ってくれた通り、今回だけ。

 それも、自分で伝える暇もないくらい忙しいのだ……きっと。


「…うん、そうだね」

 誰よりも自分自身に聞かせるように言い、そして安心させるように無理な笑顔を作る葵を見て、祐介の気持ちもまた落ちていく。

 それでも、これが自分の役割なのだ。

「大丈夫、大丈夫だから…葵」
「…うん」

 だから、ちょっと抱きしめるくらいのことは許してもらおう…。

 そんな風に、心の中で言い訳しながら祐介は、その腕の力をちょっとだけ、強めた。



                    ☆ .。.:*・゜



 その前夜の音楽ホール。

 弦楽器ミーティングのあと、司が自分の兄たちと親しく話をしていたことを、もちろん葵は知らない。



『僕、全部教えてもらっています。先輩方が葵ちゃんのお兄さんだっていうこと』

 オーディション結果発表の直後。すべてを知っていると、にこやかに告げた司に、昇と守は手放しで喜んだ。

 また一人、真実を知る人間が増えた。

 それは、ことを公にしないと決めた葵にとっては、喜ばしいこと。
 そしてまた、自分たちにとっても同じこと。

 葵と兄弟であることの喜びを語ることのできる相手がいる。
 それがどんなに嬉しいことか、きっと他人にはわからない。

 だから、彼ら兄弟と司が一気に親しくなっていくのは当然の成り行きであったろう。




『でも、いくら忙しいからって、デートが3日に一回あるかないか…なんてね』
『え? そうなんですか』
『ああ、同じ校内にいるのにさ、ほとんどニアミスばっかだからな。いい加減可哀相だよな』
『へぇ…』
『なんとかしてやりたいんだけどさ〜』
『悟も葵も、なかなか頑固だからな』
『それって…』
『お互いの邪魔にはなりたくないんだとさ』
『僕にはただのやせ我慢にしか見えないけどね』
『だよな〜』
『…で、二人は今度いつ会えるんですか』
『ええっと……確か』
『明日の9時って言ってたぜ、悟のヤツ。指折り数えてるんなら、我慢なんてしなきゃいいのにさ』
『ほんとほんと』




『明日の9時…』

 小さく司が繰り返したことに、昇と守は気づかなかった。



幕間「祐介クンは今年も憂鬱」 END

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