第4幕への間奏曲「珠生クンと初瀬くんの事情」

【1】
珠生クンの「これと言って特に複雑ではない事情」





『ハジメマシテ、コンニチハ』


 初めて聞いたそれは、今の彼からは想像もつかないほどぎこちないものだった。

 けれど、今日、生まれて初めて日本の土を踏んだという彼の、その日本語での挨拶は、彼の意気込みを伝えるには十分なものだった。




 アニーは17歳。

 僕と同じ高校一年生だけれど、でも、日本で言うと…本当は高校3年生の歳なんだ。

 アニーがやって来たのは、暑さも漸くおさまってきた10月の始め頃。

 その2週間前には、パパから『今度一人預かることになったからな』って言われてたから、僕は今度はどんな人が来るんだろうと思っていた。


 うちのパパの職業は指揮者。
 1年の3分の2を日本で、残りを外国で過ごしてる。

 そんなパパが日本にいる間、お客さんはとても多い。

 もちろん日本人の方が多いけど、外国からのお客さんも結構いる。

 そう言う人は、だいたい日本へツアーに来ている演奏家の人で、1泊だけして帰っちゃう人もいれば、2週間ほど泊まっていく人もいる。

 だから、僕は初めてアニーにあったときも、来日公演中のオーボエ奏者だと思ってたんだ。

 でも、まず始めに驚いたのは、挨拶が日本語だったこと。

 うちへ来る外国のお客さんで、日本語を話す人っていない。

 みんなだいたい英語を話す。それは、どこの国の人でもそうみたい。

 世界中で仕事をする演奏家には、一番無難な言葉だから。

 そして、次に驚いたのは、アニーが留学してきたんだって聞いたこと。

 その反対ならいっぱい見てきた。
 パパの教え子さんたちは、だいたいみんなヨーロッパやアメリカへ留学する。

 でも、外国からわざわざ、日本に留学してくる人なんて、初めて。

 だって、クラシック音楽は、西洋音楽なんだもん。

 これが、琴や三味線なんていう邦楽を勉強しに来たって言うならともかく、どうしてドイツの人が、しかもオーボエ奏者の人がわざわざ日本なんかに来るのか、僕には全然わからなかった。


 しかも、アニーは――どこかで見たことがあると思ったら、音楽雑誌に載ったデビューコンサートの記事だった――すでに本場でプロになってる人だったんだもん。

 さらにびっくりしたことに、アニーの留学先は普通科の高校。おまけにすでに留学が決まってるんじゃなくて、入試を受けるっていうんだ。

 もちろん僕は、アニーが日本に…僕の家にやってきた初日から、彼を質問責めにした。

 ご飯の時、寝る前、起きてから…。

 だって不思議な事ばかりだったんだもん。

 しつこく尋ねる僕に、最初は苦笑して誤魔化していたアニーだけど、しばらく経って、根負けしちゃったのか、『ナイショ、だよ』と言って教えてくれたんだ。


『あいたいひとが、いるんだ』って。


「会いたい人がいる」

 それだけのためにはるばる日本までやって来たアニー。

 あとからパパに聞いた話なんだけど、向こうの音楽院を退学してまで日本に行きたいと言ったアニーに、彼のパパとママは、それはそれは反対したらしい。

 まあ、それって普通の反応だよね?

 けれどアニーは、うちのパパや赤坂先生の力を借りずに、自力でご両親を説得してやって来た。

 …あ、赤坂先生っていうのは、有名な指揮者でパパの友達。
 パパの初恋の人が赤坂先生と結婚しちゃったんで、パパは先生のことになるとぶつくさ文句ばっかり言うんだけれど、でも本当は仲良しなの、僕知ってるんだ。


 そうそう、アニーのことも、赤坂先生からの紹介らしい。

 こうしてアニーは日本で、僕の家で生活を始め、受験に備え始めた。

 24時間日本語の先生が付きっきりで言葉を教えて、その他に高校の受験科目の先生も毎日来た。


 で、とばっちりを受けちゃったのが僕。

 本当は都内の音楽高校に進学する予定だったのに、パパが『どうせだからお前もアニーと一緒に聖陵へ行け』なんて言い出したんだ。


 ママはもう、猛反対。

 一人っきりの息子を、何でわざわざ寮なんかに入れなきゃいけないの…ってそりゃあ、怒っちゃって。

 でも、パパは珍しく――普段はママのお尻に敷かれてるんだけど――譲らなかった。

 一人っ子でボケボケに育っちゃった僕――まあ、僕にもちょっと自覚はあるけれど――を、この際寮生活に放り込んで鍛え直す…って言い張ったんだ。

 結局ママは、パパの『音楽高校より聖陵の管弦楽部の方がレベルが高いぞ』って言った一言が決め手になって、渋々僕を聖陵に入れることを承知した。

 ママには僕を叔父さん以上の音楽家にする…って野望があるみたいだから。

 で、僕は聖陵を受けることになったんだけど、ほんとに困っちゃった。

 だって、まともな受験勉強してなかったんだもん。

 音楽高校は独特の受験システムだから、普通科高校へ行くような受験勉強は必要なかったんだ。まあ、普通に中学校の勉強が出来てたらOKだった。

 それなのに、たったの半年で普通科高校…しかもあの、超難関校って言われて、専用の受験塾まである聖陵学院を受けろだなんて、無茶もいいとこだった。

 別に勉強は嫌いじゃないんだけど、あまりにやることが多すぎて、僕には絶対間に合わないと思ったんだ。



 けど…。

 毎日毎日必死でがんばるアニー。

 その姿をすぐ側で見て、なんだかちょっと自分が恥ずかしくなった。

 日本語が話せる分、僕の方がアニーより有利なはずなのに、アニーに負けてしまうなんて、何だか悔しかった。

 だから…僕もやれるところまではやってみようと思ったんだ。

 そして、半年後、僕らは晴れて合格通知を手にした。


 でも、いざ入学が決まってみると、やっぱり寮生活は不安だった。

 だって、高校生なんてきっと体が大きくて、声も大きくて、乱暴なんじゃないかと思って。
 近所にそんな高校生いるし。

 ほら、漫画や小説なんかでもあるじゃない。寮の先輩に苛められて…とか。

 そんな不安をポツッと漏らした僕に、アニーはにっこり笑ってこう言ってくれた。


『だいじょうぶ。ぼくがいるじゃないか』


 アニーの会いたい人がいったい誰なのか、僕はまだ教えてもらっていないけれど、でもきっと、アニーは僕のこともきっと見ていてくれる。

 だって、『ぼくとたまきは しんゆうだもんね』って言ってくれたんだから。



 そうして入学した聖陵学院高等学校。

 入学して最初に話した先輩は、桐生悟先輩だった。

 管弦楽部長さんで、パパの初恋の人と赤坂先生の息子さん。

 僕とたった二つしか違わないのに、すっっごく大人っぽくて優しくてかっこいい人。

 僕の不安は、悟先輩に会った瞬間に全部消えていった。

 こんな素敵な人がいるなんて…。

 もちろん、光安先生もかっこよくて優しいし、あと昇先輩とか守先輩とか…奈月先輩とか浅井先輩とか…そうそう、佐伯先輩も、みんなみんな素敵な人たちだけど、特に悟先輩はいつまでもずっと見ていたいほど、素敵なんだ。



 
 入学して1週間ちょっと。僕はホルンパートの首席になった。

 パートの先輩も、後輩もみんな優しくて僕は毎日幸せ。

 今日も部活にがんばろうと……あ!悟先輩だ!


「悟せんぱ〜い!」


 おっきな声で呼んだら、先輩は振り返ってニコッと笑ってくれた! 



                   ☆ .。.:*・゜



「悟せんぱ〜い!」

 大きな声で呼ばれて振り返ってみれば、そこにいるのは1年生。

 例年にない倍率をくぐり抜けてやってきた、精鋭中の精鋭であるはずの宮階珠生の姿があった。

『1年生』と言われれば、中1かと思ってしまうほど小柄で可愛らしい容姿の後輩が一生懸命手を振ってる姿に、悟は思わず笑みを漏らす。



 珠生は先日のオーディションでホルンパートの首席になった。

 確かに、音質・音程・音量・技術…共に申し分の無いできだった。

 一緒に審査に当たっていた外部講師たちも、この年齢でこの楽器をここまで扱える子は見たことがないと絶賛していた。

 だから、本来ならば全員一致で首席に推されるはずなのだが…。

 だが、蓋を開けてみれば、実際『珠生を首席に』と言ったのは光安だけであった。

 悟も、そして外部講師たちも『首席に』とは言わなかったのである。

 ある講師は『確かに器ではあるが、現時点で実際に首席が務まるかどうかは疑問』との見解を示した。

 意見を求められた悟も『首席にするにはもう1年待ってみてもいいのではないでしょうか』と述べたのだ。


 確かにホルンパートは人材に苦慮している。

 だからといって、先を急いだ配置にして効果があるとも思えない。

 鳴り物入りで入学した期待の新入生ではあるが、ここは一つグッと我慢をして、次席あたりで合奏に馴染む訓練をしてから首席に上がらせてもいいのではないかと思ったのだ。



 実は悟は同じ思いを1年前に葵にも持っていた。

 申し分の無い演奏。何もかもを完璧にこなす葵に、若干の危惧があったのだ。

『ソロとしては完璧だが、合奏に入ったときにそれが邪魔にはならないだろうか』…と。

 が、その危惧は初合奏の時に綺麗に消え去った。
 葵は悟の想像を遙かに越える才能を持っていたのだ。

 だが、同じ事を珠生に求めてもいいのだろうか。

 葵と同じように、自分の想像を遙かに越えてくれているといいのだけれど…。



 そして、その思いは初めての合奏練習の時に、敢えなく散ってしまった。

 珠生の演奏は、合奏に入ってもソロの時と全く変わらない。

 音程やテンポはさすがに訓練されているので、周囲とかけ離れたことにはならないのだが、いつどんな場面でも「自分の音色」で吹き通すのだ。

 それは確かに美しい音色ではあるのだが…。



 音というのは、同じ音程でも暗く吹けば暗く、明るく吹けば明るい音色になる。

 そして、それはもちろん、音楽の色々な場面で使い分けなければならない。

 だが、珠生はいつも同じ、ただ美しいだけの音色で吹いてしまうのだ。

 そこには『綺麗』しかない。

 音楽がそこに内包する「哀しみ」や「喜び」――そんな日々の感情がどこにもない。



 管弦楽部長として、そんな重大な色々に考えを巡らせていたある日、悟は光安からある課題を突きつけられた。


『珠生の面倒をみてやれ』


 フルートの課題曲といい、オーディションの結果といい――生徒たちはやはり、最初から何もかも計算尽くの、顧問の掌の上にいたようだ。


【2】初瀬くんの事情へ続く

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