第4幕への間奏曲「珠生クンと初瀬くんの事情」

【2】
初瀬くんの「ちょっとばかりナーバスな事情」





『そう、そうだよ。うん、上手! …大丈夫、ちょっと持ちにくいけど、僕が支えていてあげるから…。あ、ほら、出た出た! 綺麗だよ、すっごく綺麗な音!』



 -------- 弓彦 ----------!



 閉じているはずの目のあたりに、なんとも言えない不快感を感じ、初瀬英彦は目を覚ました。

 目の前には茶色いっぽい木目の板が迫っている…。
 一瞬ここがどこなのか、判断がつかない。

 だが。


 …そうだ、ここは聖陵学院の中学寮。四人部屋の、二段ベッドの下。

 入学からまだ日は浅い。だから、ふとした弾みの覚醒には、この環境の変化はついてきてくれない。

 そして不快感の元凶は、自覚無く流している涙。

 目尻を流れているのはもちろん、目頭のあたりにまで洪水を起こし、まさに『ぐちゃぐちゃ』といった状態だ。

 それをパジャマの袖でギュッと拭いて、英彦は口元を引き結ぶ。

 夢の中で弓彦はそれは楽しそうに笑っていた。
 フルートのレッスンを始めたばかりの頃…。



                   ☆ .。.:*・゜



 今日もHRでの終礼を終えると同時に英彦は楽器と楽譜を抱え、音楽ホールへと向かう。

 先輩たちが来る前に、少しでも個人練習をしておかなければいけない。

 見た目が大人っぽくて、しかもその外見を裏切らない寡黙さのためか、同じクラスの連中は、あまり英彦には近よってこない。

 だから、彼の居場所は放課後だけでなく、昼休みももっぱら音楽ホールの練習室だ。

 けれど、クラスに居場所がないことなどはどうでもいい。
 この学校へ、友達を作りに来たわけではないのだから。

 あの人たちの側で、ただ、フルートが吹ければよかった。
 そして、自分があの家から消えてしまえれば、それでよかった。


 …弓彦…会いたいよ…。


 小さく声にしてみる。






 今日の部活は中高合同のパート練習が中心だ。

 末席フルーティストの英彦としては、先輩たちが来る前に少しでも音出しをしておかなければならない。

 それに、首席である奈月葵はいつもかなり早く練習室に現れるので、上手くいけば全員が揃う前に個人練習を見てもらえるのだ。



『聖陵に入りたい』


 そう思ってからは必ずコンサートを聴きに来た。

 そして、聴くたびに強く惹かれた憧れの奏者。

 そんな彼に直接教えてもらえるなんて、幸せ以外の何物でもない。


 オーディションの曲が発表になったとき、英彦は正直な感想として『聖陵のオーディションはレベルが高いと聞いていたのに』と思った。

 それほど、課題曲は簡単な曲だったのだ。

 だが実際に練習に入ってみて、そしてオーディション本番のステージを踏んでみて、英彦はその考えを改めざるを得なかった。

 曲は簡単でも、『演奏する』と言うことは、いずれにしても大変な行為なのだと。

 だがそれを、目の前で奈月葵は易々とやってのける。

 そして、激しい次席争いを演じた浅井祐介と、そして――僅か一つ年上なだけの、藤原彰久。

 彼らもまた、英彦から見れば類い希な才能を備えて楽器を操っている。

 さらに、メインメンバーではない高1の紺野も中3の谷川も、彼ら3人と一緒にいるから目立たないだけで、もし彼らが他の学校のブラスバンドやオーケストラに居たとしたら、押しも押されもしない首席奏者になれるであろうことは、経験の浅い英彦の目にも明らかだった。


 だから、自分が末席なのは仕方がないのだが、それならそれで、迷惑を掛けないようにしなくてはいけない。

 自分の努力で補えるところまではやっておかねばならないのだ。

 そんな、かなり気負った思いで今日もまた、英彦は教則本を開く。

 そして、暫く音を出した頃…。


『ガチャ』


 重い防音扉のロックが外れ、ゆっくりとドアが開く。

 そこに現れるのはたいがい奈月葵なのだが…。



「あ…」

 もっと華奢で小さい姿を認め、英彦は一瞬凝視してしまってから慌てて視線を外す。

 そして、何と声を掛けていいか、咄嗟にでてこなかったので仕方なく無言のまま頭を下げて挨拶の代わりにしてしまう。


「は、初瀬くん、早いね…」
「…はい」

 それっきり会話が途切れる。

 1年先輩の藤原彰久は、少し英彦と距離を取りながら――練習室の壁際を伝うようにおずおずと――中へ入ってきて、小さなテーブルに楽器ケースを置いた。


「えと…僕も音出し、していい?」

 曲がりなりにも先輩であるのだから、許可を求める必要はどこにもないのに、彼はいつもこんな風に英彦に接してくる。

「あ…、もちろん…です」

 それでも、まだ声を掛けてくれるようになっただけマシなのだ。

 最初の頃は、怯えきった様子で返事すら蚊の鳴くような声でしか返してもらえなかったのだから。
 ましてや、視線など合わせてもらえようはずもなく。


 やはり、最初の出会いがまずかったのか。


 入学式後のオリエンテーション。

 あらかじめ新1年生には『2年生が教室まで迎えに行くから待機しているように』という連絡が入っていた。

 そして、英彦を迎えに来たのが同じパートの2年生、藤原彰久だったのだ。

 彼はきっと、小学校を出たばかりの小さな後輩を想像していたのだろう。

 初めて向かい合った英彦の姿をみて驚いたようだった。


『…あ、あの…初瀬くん…って、きみ?』


 そして、英彦もちゃんと挨拶をしようと思っていたのだ。

 まして、怖がらせてしまうなどと、考えもしていなかったのだ。

 しかし、彰久と向き合った瞬間、英彦の頭の中は真っ白になってしまった。


 -------- 弓彦 ----------!


 だから、掛けられた声に、暫く返事ができなかったのだ。



 今思うに、やっぱりあれがまずかったのだ。

 返事もしてもらえず、この面構えでジッと凝視されてしまったのでは怯えられても仕方がない。

 そうでなくても藤原彰久という小さな可愛い先輩が、かなり人見知りをする人間なのだと聞いたのはその日の放課後だ。 

 けれどもちろん、それは英彦の本意ではない。

 もともと誰に対してでも穏やかに接するタイプなのだ。

 それを単なる『無愛想』ととる人間もいるが、それは大概の場合初対面からそう時間を置かない間だけで、日が経つに連れ、ほとんどの人間が英彦のことを『無愛想』なのではなく単に『物静か』なだけなのだと考え直すようになる。



「…すみません」
「え?」


 突然の英彦の謝罪に、楽器ケースを開けていた彰久が顔を上げる。

 視線が絡むだけでも嬉しい。

「あの…いつも僕が早く来てしまうから…」

 だから先輩に要らない気遣いをさせてしまったのだ……とまでは口にしないが。


「そ、そんなこと! いつも早く来て練習してるから感心だなぁって思ってるんだよっ」



 そして皆、その『物静か』の裏側に隠れている『細やかな気配り』にやがて気づくようになる。
 それはまさしく、彼自身の生い立ちに起因するものではあるのだが。


「あの、ほんとに気にしなくていいからねっ」

 必死で言い募る彰久が…。

『大丈夫、英彦が気にする事じゃないんだから』 

 弓彦の面影に重なる。

 自分は何故弓彦を助けることができなかったのか。

 何故…。




「…初瀬…くん?」

 見開いた、彰久のこぼれ落ちそうな瞳を正面から捉え、英彦の手が震えた。

 …今、自分は何をしようとしていた…?
 この手が、その頬に触れようと…。


「…あ…、す、すみませんっ」

 慌てて引いた手が譜面台にあたり、英彦の楽譜が音を立てて散らばる。


「うわっ」

 咄嗟に受け止めようとして、机の脚に蹴躓く彰久。

「先輩っ」

 そして、もちろん楽譜はそっちのけで彰久を両腕で受け止めたのは、英彦。

 だが、小さいとは言え勢いのついた身体を受け止めるのは思いの外大変なことで…。

 鈍い音を立てて、英彦は彰久を抱えたまま、尻餅を付いた。

 その音に、防音扉のロックが外れる音が重なる。



「…何やってるんだ…?」

 穏やかでない声色で尋ねてきたのは、パートリーダーにして次席奏者。次期管弦楽部長はこの人しかいない…と言われている浅井祐介。


「あ〜。これはまた派手にやっちゃったね〜。譜面台ひっくり返したんだろ?」

 反対にクスクス笑いながらのぞき込んできたのは押しも押されもしない偉大なる首席、奈月葵。 


「二人とも怪我はない?」 

 葵に笑顔でそう尋ねられて、二人は慌てて返事を返す。

 そして…。

「大丈夫か? 藤原」

 祐介は不機嫌な声のまま膝を折り、そう言って、英彦に抱えられたままの小さな身体を抱き起こそうとした…のだが。

 あろうことか、その小さな身体はびくっと震えたかと思うと慌てて英彦の後ろへ隠れてしまったのだ。

 残されたのは、抱き起こそうと差し出された手。


「あ、あのっ、ごめんなさいっ」

 その言葉すら、英彦の肩越しに聞こえてきて。

「…ま、怪我がないならそれでいいけど」

 その声はさらに不機嫌な色になる。

 このところ、ただでさえ側に寄ってきてくれなくなった小さくて可愛い後輩。

 こんな風に『避けられる』なんて、まったく思い当たる節がなく、祐介の戸惑いは深くなる。


(いったい、何だって言うんだ…)


 もちろん英彦も面食らっていた。

 優しい先輩の手から逃れるように自分の後ろに隠れてしまった、小さくて可愛い先輩。

 いつも避けられていたのは自分のはずなのに。

 そして、その様子を見ていた学院一のアイドルは、その白くて細い手をそっと彰久に差し伸べた。

 ついでに安心させるようにニコッと笑ってみる。


「さ、練習始めようか」

 その柔らかい一言で、妙に張りつめてしまった部屋の空気は一気に和む。


「ほら、初瀬も…」

 そう言って祐介は、小さな後輩には拒まれてしまった手を、今度は大きな後輩に差し出す。

「…すみません」

 体つきに似合わない小さな声で応え、英彦は先輩の、自分より更に大きな掌につかまる。


 そうこうしているうちにあと二人も現れて、いつもと同じ、フルートパートの練習が始まった。




 小さな可愛い後輩が思わず身を隠してしまったその原因。 

 それが『祐介の不機嫌そうな声』にあるのだと気づいていたのは、葵だけ。

 そして、祐介が不機嫌な声になってしまった原因に気がついているのもまた、葵だけ…であった。

 だが、葵もまだ知らない。

 英彦が彰久を見つめてしまう、本当の『わけ』を。


第4幕への間奏曲「珠生クンと初瀬くんの事情」END

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