第4幕「Concert」
【2】
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「すまないな、葵」 そう言われてしまって、僕に返す言葉はない。 「悟はレッスンを続けたいと言い張ったんだが、やはりどう考えても時間的に無理があってな」 それは、先生のいう通りだ。 「でも、悟は今年、コンチェルトもやって入試の準備もやって…。僕の方から今年は代えてもらおうかと思ってたくらいですから」 けれど、本音をいうとそうなんだ。 だって、些細な時間すら惜しいはず。 ピアニストは一日中だってピアノを弾いてるんだから。香奈子先生だってそう。 「そうか、そう言ってくれると助かる。お前たちが会える時間が減るのは可哀相だと思ったんだが、悟にとっても大切な1年だからな。まあ、悟に限って、レッスンの1つや2つでどうってことはないんだろうが。」 うん、確かにそれもそう。 悟にとっては僕程度のレッスンの一つや二つ、どうってことはないと思うんだけど…。 でも、問題はレッスンの相手が僕だって事。 悟はいつも僕のレッスンのあとには何も予定を入れていない。 それは、僕のレッスンが長引いてもいいようにという配慮と、それから…。 「そうですね。でも、自分が自由に練習に使える時間はいくらあってもたりないですから」 レッスンのあとくらいしか、なかなかゆっくりと話すことの出来ない、僕らの大切な時間のためで……。 「そうだな。あいつには随分助けてもらった。このあたりで解放してやらないとな。…とは言っても悟にはまだやってもらわなければならんことはあるんだが」 「え? コンチェルト以外にですか?」 もしかして、また本番で指揮するんだろうか? 「ああ、今後の悟にとっては糧になることだと思う」 「…聞いちゃだめですか?」 「特に内緒にしておく必要はないんだが…。悟がどれだけがんばるか、何も知らずに見守って欲しいと言う気もするな」 …そっか。先生がそういうのなら、きっとその方がいいんだろう。 「はい、わかりました」 聞き分けよく僕が返事をすると…。 「そうだ、葵」 急に先生の声が悪戯っぽくなった。 僕が見上げると…。 「お前だけに言っておくけど、悟が中3の時からやってくれていた個人レッスンな、あれ、無報酬じゃないんだ」 「え? そうなんですか? 悟はボランティアだよっていってましたけど」 先生はニッと笑って話を続ける。 「ああ、悟はそう思っているが、学校からはちゃんと外部講師と同じ規定で講師料が出てるんだ」 「じゃあ、もしかして悟は知らないんですか?」 「言ってないからな。まあ、理由はいろいろだ。始めの頃は様子見だったんだ。 なにしろ校内で生徒に個人レッスンを頼むだなんて前代未聞だったからな。 だが院長や理事会の方でも、悟が外部講師と変わりない働きをしてくれるのなら講師料を予算に計上するのは異存なし…ってことだったし」 うん、それなら異存なしだよ。だって悟の教え方はわかりやすいって、レッスン受けたことのあるヤツはみんなそう言うもん。 「まあ、その点がOKだったのは今更言うまでもないがな。 なにしろ教え方の評判はいいし、自分の理由で休んだことも一度もない。 かえって外部講師の方が、リサイタルが近いから休ませろだの海外へ行くから1ヶ月休ませろだの勝手なことを言うからな」 悟ってそう言うところ、すごく真面目なんだ。 「あとは、そうだな。多分悟は報酬が出ると言ったらやらなかったと思うし」 「は? どうしてですか?」 いずれ悟はピアニストとして生計を立てるのに。 もしかして学生だから…なのかな? 「悟にとっては、生徒会長をやるのもピアノの個人レッスンをやるのも同列扱いなんだ。 聖陵の学生として当然のことをやっているだけだと思っているらしい」 …なんだか悟らしいや。 「悟らしいだろう?」 やっぱり先生も同じ事考えてる。 僕が嬉しそうに頷くと、先生は僕の頭をポンポンと撫でて…。 「ということだ。卒業時には結構まとまった額が悟に渡るはずだから、葵、せいぜいチョコパでも何でも奢ってもらえ……って、お前の方が稼ぎはいいか」 そういって先生は珍しく大笑いした。 ☆ .。.:*・゜ それから数日間、パート毎の基礎練習期間があって、その後メインメンバーは夏のコンサートのメインとなる、ヴァイオリンコンチェルトの練習に入った。 とは言っても、恒例の『黄金週間耐久新入生歓迎合宿』までは管楽器だけの分奏。 で、そこで僕は異変に気づいた。 ホルンパートに、宮階くんの姿がないんだ。 代わりに首席の場所に座っているのは、本来は次席である3年の先輩。そして、その先輩の本来の席には、第3席である僕の同級生が座っていた。 「えっと、宮階くんは?」 休みなんだろうか? でも、そんな場合でもあらかじめ管楽器のセクションリーダーである僕には連絡があって当然なんだけど…。 尋ねた僕に、先輩と同級生は首を傾げた。 「もしかして奈月、何にも聞いてないのか?」 そう言ったのは先輩。 「はい、何も」 僕の答えに、ホルンを抱えたままの二人は少し慌てたようだ。 「あ、それはすまん。悟から連絡がいってるはずだと思いこんでた。悪い」 「悟先輩から? 何かあったんですか」 何だろう? 前回の「キャンセル」以来、なぜか連絡が上手く取れなくて、僕と悟はすれ違ったままで1週間を過ごしていたから、何も聞いていない。 ううん。管弦楽部の用事なら、夜の約束の時でなくても、堂々と話が出きるはずなんだけど…。 「いや、それがな…」 先輩はポリポリと頬を掻くと、バツが悪そうに語り始めた。 「珠生のヤツ、ほら、1回目の合奏の時に周囲に上手く合わせられなくて浮いちまっただろ? で、本来ならああいう場面の対処法とか、合奏での心構えとかはパートの先輩である俺たちが教えてやらなくちゃなんないとこなんだけど、何せあいつの方が技術的には遥かに上だろ? だから…」 先輩は先を言い淀んで、隣に座る僕の同級生を見た。 視線を受けた彼は慌てて頷いて…。先輩はまた、僕に視線を戻した。 「でさ、光安先生が悟に任せてみたらどうだ…みたいに言ってくれたんで…」 ああ、もしかしてそれがこの前佐伯先輩が言ってた『マンツーマンで指導してる』ってことなのか…。 「じゃあ、宮階くんだけ分奏から抜けて、個人指導中っていうことになるんですか?」 …う、ちょっと棘のあるいい方だったかな……。反省…。 「すまん、俺たちが不甲斐ないばっかりに…」 …いや、そんなことを責めてるんじゃなくて…。 「合奏に入れる状態になり次第、こっちに戻ってくる事になってる。それまでは申し訳ないが、俺たちが代奏ってことで…」 「あ、それは、よろしくお願いします」 僕がそう言うと、先輩たちはまた、重ねて『ほんとにすまん』って頭を掻いてた。 そりゃあ僕だって、宮階くんがあのままで合奏に参加し続けても、回りも大変だし本人も辛いだろうと思うけど…。 でも、悟、どうしてそんな大切なことを、僕に――ううん、「管楽器セクションリーダー」にきちんと伝えてくれないんだろう。 なんだか、悟が見えない…。 それから数日間、何度か音楽ホールで悟の姿を見かけたんだけれど、悟の側には必ずと言っていいほど宮階くんの姿があって、しかも僕の側にも祐介と――それから司――もれなくアニーがくっついていて、声を掛けることが出来なかった。 でも、そんなある日、僕は偶然光安先生の部屋を出たところで悟に鉢合わせをした。 悟も僕も、一人。 そして廊下には誰もいない。 「葵!」 「悟!」 その時の悟の笑顔は、それまでの僕の不安を一掃してもまだお釣りが来るくらい、鮮やかで、優しいものだった。 そして、僕らは名前を呼び合ったまま、見つめ合ったまま、黙ってしまい…。 だって、何を言っていいか…、何から話して、何から聞けばいいのかわからないくらい色んな言葉が頭の中を巡っていて、でも、僕はこうして悟の優しい微笑みを見ているだけでもう、自己完結なんかしちゃって…。 「葵、ごめんな。なかなか時間がとれなくて」 誰もいないとはいえ、まさか廊下のど真ん中で抱き合うわけにもいかず、悟は僕の肩にそっと触れただけで、心底すまなそうに言った。 「ううん、平気」 笑おうと思っても泣きそうになっちゃうけど。 「そうか? 僕は全然平気じゃないけれど」 ちょっと寂しそうに笑う悟に、僕も慌てて言い直す。 「平気じゃないっ。平気じゃないけど、……平気」 そう言うと、悟は唇を噛んだ。そして…。 「…葵、明日の夜、時間ある?」 「ある!」 即答した僕に、また微笑んでくれて…。 「実は、今抱えてる問題が片づくまで一人で頑張ってみようと思ってたんだけど、やっぱり葵の顔を見たら、ダメだな。いろんなこと、聞いて欲しくなった」 それは、僕にとって、とんでもなく嬉しい言葉。 「僕でよければ、いくらでも」 僕もやっと笑えた。 「何言ってるんだ。葵だから…じゃないか」 悟もまた、緊張を解いた笑顔を向けてくれる。 そして、悟の長い指先が僕の頬にそっと触れたとき、階段を上がってくる足音が廊下に響いた。 「じゃあ、葵。 明日の9時、いつもの場所で」 「うん、明日の9時、いつもの場所で」 言葉だけでなく、心の中でも何度も繰り返し、僕の手はほんの一瞬だけ悟の手に触れて、離れた。 そして、先生の部屋へ入っていった悟と入れ替わるように廊下に姿を見せたのは、司だった。 「あれ? 葵ちゃん」 「司、先生に用事?」 「うん、昇先輩がちょっと手が放せないから、僕が代わりに……って、もしかして今入っていったの悟先輩?」 「うん、そう」 「…そっか」 ドアを一瞬見つめてから、司は僕に向き直ってにっこりと笑った。 「話できた?」 「…うん」 「よかったやん」 いつもの人懐っこい笑顔。 「デートの約束出来た?」 「…うん」 「もしかして、いつもの『21時の密会』?」 茶化したように聞いてくる司に、僕も安心して頷いて…。 ☆ .。.:*・゜ そして、翌日の放課後、僕はまたしても『どうしても時間がとれなくなった。またこっちから連絡するから』という悟からの伝言を司から聞くこととなり、心底気の毒そうな顔をする司にかなり長い時間慰められたのだった。 仕方がない…。 忙しい悟の、少しでも負担にならないようにすることが、今の僕に出来るただ一つの事なんだから…。 |
【3】へ続く |