第4幕「Concert」
【3】
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またしても会えなかった日の翌日、放課後、部活の時間。 音楽ホールのロビーで僕は、宮階くんと一緒にいる悟を見つけた。 いつもなら、僕もその姿だけを目に焼き付けてその場を離れるんだけれど、その時はどうしても目が離せなくて、思わずジッと見つめてしまったんだ。 すると、ふと悟の視線が動いて…僕を捉えた。 そんなとき、いつもならそっと微笑んでくれる…はずなのに。 僕は自分の目を疑った。 だって、悟は僕からスッと視線を外してしまったのだから。 瞬間、胸を突き破りそうなほど痛い鼓動を一つ、僕は感じて…。 そして、悟は外した視線をそのまま伏せて、宮階くんを促して、練習室のある2階への階段へ姿を消してしまった。 …どういうこと? もしかして、僕のこと、見えてなかった? 最後に僕の耳に残ったのは、『悟先輩』…と、ちょっと舌足らずの可愛い声で悟を呼ぶ、宮階くんの声。 「葵〜!」 同級生の声が僕を呼ぶまで、僕は階段の方を見つめていたらしい…。 昨日見た悟のくつろいだ笑顔と、今見た悟の全く読めない表情とのあまりのギャップに、僕は呆然としたままで…。 ☆ .。.:*・゜ 「葵、どうした? 顔色悪いぞ」 心配げにのぞき込んでくるのは祐介。 練習が終わってから、僕たち二人はそのまま練習室に残って、ゴールデンウィーク中の木管楽器の練習スケジュールを組んでいたんだけれど、時折止まってしまう僕の手と思考が、祐介にこんな心配顔をさせてしまって…。 「あ、ううん、なんでもない、大丈夫…」 悟とはあれ以来一度も話をしていない。 話どころか、視線すら合わせていない。 あ…、視線すら…っていうのは間違いかもしれないな。 だって、僕はあれ以来悟の姿をまともに見ていないんだ。 もちろん、同じ音楽ホール内にいるはずなんだけれど、悟は相変わらず宮階くんにつきっきりらしく、合奏にも分奏にも顔を見せない。 「…悟先輩と、会えてないんだろ…」 僕から外した視線をスケジュール表に戻した祐介が……さりげない口調で核心をついてきた。 「うん、まあね…」 「先輩から連絡は?」 表に書き込みをしながらの、それはとても事務的な口調。でもきっと、僕の不安を殊更煽らないための、祐介なりの配慮なんだろう。 「ん、ないよ」 でも、悟は『こっちから連絡する』って言ったんだから――正確には司からそう「聞いた」だけなんだけど――僕は待つしかない。 「全然?」 「うん、全然」 即答した僕に、祐介は堪りかねたように顔を上げた。 「なんだよ、それ」 うって変わって、感情を露わに…しかも僅かに怒りの色を含んだ声に、僕は少したじろぐ。 「二人していったい何やってるんだよっ」 「…祐介…」 「お前、今自分がどんなに不安そうな顔してるかわかってるのかっ?」 それは…。 「僕はそんな顔をさせるために諦めたわけじゃないんだぞっ」 静かに、それでも確かに激昂している祐介の眼差しが…痛い。 そして、僕にはまったく返す言葉がなくて…。 まるで、身体ごと水の底に沈められてしまったように息詰まる時間が、いったいどれだけ流れたんだろうか。 「…ごめん」 ポツンと呟いて、忘れていた呼吸を取り戻すきっかけを作ったのは、やっぱり祐介だった。 「こんなこと、言うつもりじゃなかったんだけど…」 ため息をついて肩を落とす祐介を見て、僕もやっと言葉を取り戻した。 「…ううん、僕の方こそ、心配かけてごめん」 「…何かあったのか? 先輩と」 また静かに、でも今度は事務的な口調でもなんでもなく、柔らかい声色で尋ねられた。 「…ううん、なんにもないよ」 本当に、なんにもない。 「本当に?」 「うん。まったく心当たりないんだ」 ないんだ、なんにも、本当に…。 だって、連絡も何もないから、会うことすらできないんだ。喧嘩のしようもないじゃないか。 僕たちは、それっきり黙り込んでしまった。 そして、今日はこれ以上作業をしても効率が悪いと感じた僕たちは、のろのろと練習室をあとにした。 ☆ .。.:*・゜ 「な、お前も見たよな」 「うん、見た見た」 「え〜。何をだよ〜。もったいぶらずに教えろよ〜」 僕たちが『練習室15』のある2階から1階へ、階段を辿っていたとき、3階の踊り場から賑やかな声が降ってきた。 ――この声は、中学のチェロパートの子たち――だ。 そして、随分遅くまでパート練習をしてるんだな…とぼんやり思った僕の耳に、呆けている神経を叩き起こすような言葉が飛び込んできた。 「悟先輩と宮階先輩だよ」 …悟と、宮階くん…。 僕に背を向けて去っていく二人の背中がぼんやりと浮かんできた。 「え? なに、その取り合わせ」 「最近悟先輩って、中学の練習見に来てくれないじゃん」 悟、中学の練習に行ってないんだ…。あれだけ力を入れていたのに。 「おう、実はそれ、気になってたんだ」 「俺も〜」 「あれってさ、宮階先輩の練習につきっきりだからなんだってさ」 「え? マジ?」 「それがさぁ、練習室に籠もってずっと練習してるのかと思ったらそうでもないんだな、これが」 え? なにそれ。 「おい、どういうことだよ」 「オーディオルームの一つのブースに二人っきりで何時間も籠もってたり…」 それは、音楽の訓練は楽器を操ることだけじゃなくて、耳の訓練も大切だからであって…。 「うわ〜」 「日が暮れた屋上で二人っきりでずっと話し込んでたり…」 「おいおい」 「この前の日曜なんて、昼前に外出して帰ってきたの消灯直前だってよ」 …それで、いなかったんだ。どこにも…。ちょっと探したんだけどな…。 「とにかく、練習室以外でも二人はずっと一緒ってことなんだよ」 ふぅん…。 「…悟先輩って、宮階先輩みたいなのが好みだったんだ…」 「まあなぁ、宮階先輩、確かに可愛いもんなぁ」 「でもさ、悟先輩ってさ、奈月先輩がお気に入りだったんだろ?」 そうだよ。悟のお気に入りは、僕。 僕だけ、の…はず。 「お前なぁ、いくらお気に入ったところで、奈月先輩は浅井先輩のもんだろうが」 「あ、そうか」 「じゃあ悟先輩も最終学年になって、やっと本命に出会ったって感じかな?」 …なんか、言葉が、よくわかんない…。本命って何? どういう意味だったっけ…。 「ちぇ〜っ、僕ちょっと狙ってたのにな。悟先輩のこと」 「あははっ、そりゃあまりにも高望みだぜ」 「え〜、ひど〜い」 声は少しずつ遠くなり、やがて聞こえなくなった。 けれど、僕はその場を動くことができなくて。 遠ざかった声の代わりに、頭の中で誰かが思いっきり太鼓を叩きはじめた。 うるさくて…痛い…。 あれ? なんだか、指先が冷たくなってきた。 「あおい…」 おかしいな…身体は寒いのに、なぜか背中を流れるのは汗で…。 ああ、汗も冷たいんだ…。 「葵っ」 いきなり肩を掴まれて揺さぶられて…。 ぼんやりと見上げたところには、祐介の顔。 「いちいちあんなうわさ話、気にするんじゃないっ」 「あ、うん。そうだね」 そうだ、あんなのただのうわさ話だ。 なんにも知らないヤツらがネタにしてるだけだ。 だって、悟は僕の恋人だもん。僕だけのもの、だもん。 だから…。 「…僕、一度宮階くんに話を聞いてみる」 そう言うと、祐介は途方もなく不安そうな顔をしたけれど。 「…大丈夫か? なんだったらついて行くぞ」 「ううん、平気だよ。…その、悟の事を抜きにしても、気にはなってたんだ。管楽器のリーダーとしてもホルンの首席の様子がどうなってるのか、把握しておく責任はあるからね」 苦し紛れの行き当たりばったりで口にしてみたことが意外にも的を得ていて、僕は自分自身に強くそれを言い聞かせる。 管楽器のセクションリーダーとして、ホルンの首席に話を聞く。 うん、何も問題ないよね。 ところが。 悟に会えないのと同様、宮階くんもなかなか掴まらない。 それは二人が今、管弦楽部から完全に別行動を取っているということを僕に思い知らせる結果となった。 そして、いつの間にか悟と宮階くんの『うわさ話』は管弦楽部中の話題となっていて、僕はまた、聞きたくない話を耳にしてしまうことになった。 「ああ、ちょうどよかった。葵、ちょっとこっち来い」 「あ、はい、なんでしょう」 それは練習が始まる直前の生徒準備室。 みんなはすでにそれぞれ管楽器と弦楽器に別れて分奏室に入っていて、僕は急遽必要になった管楽器用の分奏練習譜をとりに一人でここへやって来た。 そして、そこにいたのは佐伯先輩とコントラバスの首席、篠山先輩だった。 「お前、悟が珠生の練習についてるのは知ってるよな?」 篠山先輩が言う。 「はい。知ってます」 どんな練習をしてるのかは知らないけど。 「実はな、悟のヤツあまりにも珠生にかかりっきりで、中学の練習に穴が開いてるんだ」 そう言えば、この前中学生たちが言ってたっけ、そんなこと。 でも、僕にそんなこと言われても…。 そう思ったとき、佐伯先輩がギュッと組んでいた腕組みを解いた。 「悟に言ってみたんだ。中学の方にも時間は取れないかって。そうしたら…」 そうしたら? 「とにかく、もう少し二人でいさせてくれって言うんだ」 …へぇ…。 「俺としても、珠生が今の状態を克服してくれるためなら全面的に悟に協力しようとは思ってる。中学の練習も、俺やアニーでなんとかカバーしてみるつもりだ。ただ…」 先輩はそこで言い淀んだ。 「ただ、どうも様子が変なんだ」 「…変? 誰の…ですか?」 僕がジッと見上げると、先輩は待たしても言いにくそうに一つ、咳払いをしてから口を開いた。 「悟だよ。珠生は『大好きな悟先輩と一緒にいられる』ってはしゃぎまくってるだけからな。だが悟は…」 そう言ってから、佐伯先輩は篠山先輩をちらっと見た。 篠山先輩は、そんな佐伯先輩の視線を受けて、頷く。 「一見落ち着いているように見えるんだが…」 そしてまた、佐伯先輩が言った。 「珠生に集中することで、他の何かから必死で目を逸らそうとしている……そんな感じがするんだ」 …痛っ……。 僕は、知らず鳩尾に手を当てていた。 |
【4】へ続く |