第4幕「Concert」
【4】
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『何かから必死で目を逸らそうとしている』 その言葉を聞いたあと、僕は自分がどんな言葉を返したのか、あんまり覚えていない。 確か『何か心当たりはないか?』って聞かれて、『ない』と答えたような気がする。 だって、『ない』ものは『ない』んだから『ある』とはどうあっても答えられないし。 そのあと、昇や守の名前もでたような気がしたけど、それも定かじゃない。 ただ、胸の少し下あたりから、ジクジクと熱っぽい何かがこみ上げてくるのだけは、なぜか鮮明に感じられて。 『何かから必死で目を逸らそうとしている』 悟……何から目を逸らしたいの? もしかして…。 僕の頭の隅を、あの時の…視線を外した悟の様子が、よぎった。 ☆ .。.:*・゜ それからほんの数日で、僕たち管弦楽部は『黄金週間新入生歓迎耐久校内合宿』に入った。 初日、朝からもちろんハードなスケジュールが組まれているのだけれど、僕は何をするにも集中できなくて、やっぱり祐介を随分と心配させていた。 そして僕はその日の夕方、ちょっとした偶然から見てしまったんだ。 宮階くんに向けた、悟の優しい微笑みを。 そして、その唇が親しげに…『たまき』と動いたのを。 悟が後輩を名前で呼ぶことなんて、なかったのに…。 僕、以外は……。 もしかして、僕は今の居場所から追われてしまうんだろうか。 きっと歪んでしまっているだろう自分の顔を誰にも見られたくなくて、僕は、日が暮れて非常灯の明かりだけになってしまった裏山の片隅に一人で座り込んでいた。 黙って姿を消したから、きっと祐介は心配してるだろう。 でも、自分自身の考えをまとめてからでないと、今の僕は何を口走るかわからないから…。 ぼんやりと星を見上げると、僅かな風に触れあう笹の葉の音だけが聞こえてきて、その静寂はまた、僕に余計なものを回想させてしまう。 そう、宮階くんに向けられた、悟の微笑み。 そして、その微笑みを受けて、それは嬉しそうに屈託なく笑う、可愛らしい、彼。 僕とは違って、その背後にはどんな些細な影もなくて、ただ、明るい光だけが満ちていて。 僕とは違って、その身体にはきっと傷なんてなくて。 僕とは違って、弟なんかじゃなくて…。 悟、もしかして気づいてしまったのかな? 弟とこんなコトしてちゃいけない…ってことに。 そう思った瞬間、また鳩尾に刺すような痛みが走った。 これは、覚えのある痛み。あの時も、最初のうちはこんな感じの痛み方だった。 このまま放っておくと、いずれ僕はまた…。 そして、また大勢の人に心配を掛けて…。 …そんなこと、していいわけがない。 『去年の秋』の二の舞なんて、ごめんだ。 僕は勢いよく立ち上がると、昇と守に会うために寮へと急いだ。 ☆ .。.:*・゜ ゴールデンウィーク。 幸い…といっては申し訳ないのだけれど、昇の同室である生徒会長の浦河先輩は今朝から帰省をしていて、僕たち3人は周りを気にすることなく、消灯後に集まることができた。 本当は光安先生のところに行きたかったんじゃないかなって心配したんだけど、昇ってば『いいのいいの、あの人校内ではどうせキス止まりだから、眠いの我慢してわざわざ夜中に忍び込んでいくメリットなんてないだよね』なんて、心にもないことを言い放ってくれて、僕は赤面と同時にちょっと肩の力を抜くことが出来た。 「…まあ、いずれにしても、なんとかしないとな。…ったく、あのバカ」 けれど、守の声はいつになく固くて。 「うん、その通り。…っとに、頑固なんだから」 それを受けて、昇の声も固くなる。 僕は昇と守に、悟への橋渡しを頼んだんだ。 もし、悟が『目を逸らそうとしている』のが本当なら。 そして、その対象が僕であるなら。 悟とはこれからも連絡が取れないままになると思ったから。 だから『会いたい。とにかく今すぐに』と伝えてもらおうと。 「確かに、佐伯とか篠山からは聞いてたんだ。悟の様子が変だってのはな」 「でも、僕がコンチェルトに掛かりきりだったり、守が麻生に掛かりきりになってるのと同じだと思って、悟も宮階に掛かりきってることに違和感を感じなかったんだ」 「ごめんな、葵。気づいてやれなくて」 「まさか、悟とそんなことになってると思ってなかった。ほんと、ごめん」 心底申し訳なさそうな目をする二人に、僕は慌てて首を振った。 「ううん、そんなんじゃないって。昇と守が忙しいのはわかってたし、それに悟だって『何をした』ってわけじゃないんだから」 そう、これは多分、僕が僕の立つ場所に自信がもてないばっかりに滲み出してきた不安。 「僕の方こそごめん。余計な心配かけて」 そういうと二人は怒ったような顔をした。 「何言ってんだよ、可愛い弟のことだぜ? 気にならない方がどうかしてる」 「その通り。要らない気遣いしたら、怒るよ? 葵」 二人の優しくて暖かい手が、今の僕には嬉しくて…。 「…そうだ、葵」 「…なに?」 「伝言なんてまどろっこしいこといわずにさ…」 守がそう言った途端、昇も『ああ!』って手を打った。 「ちょうど大貴もいないんだ。葵、今これから悟のところにいけばいいんだよ!」 え…。 「それが一番手っ取り早いぞ、葵。行って悟ときっちり話つけてこい」 ジッと見つめてくる蒼と茶の瞳を、僕は暫く見つめ返して…。 そして、頷いた。 もうこれ以上憶測とうわさ話でに振り回されるのはごめんだから。 悟の思うことを、ちゃんと話してもらおう。 悟の言うことなら、僕はどんなことでもきっと、受け止められるはずだから。 「…僕、行ってくる」 そう言って立ち上がった僕を、守がギュッと抱きしめてくれる。 「葵、何かあったらすぐ俺たちに言うんだぞ?」 「いい? どんな些細なことでも…だよ?」 昇がそっと頬を撫でてくれた。 「絶対に一人で抱え込むなよ?」 念を押すような守の口調に、僕は去年の秋、どれほど心配をかけてしまったのか、また思い知る。 「うん。頼りにしてるよ、お兄ちゃんたち」 出来るだけ明るく言ってみると、漸く二人は笑ってくれた。 そして、僕は悟の123号室へ向かった。 ☆ .。.:*・゜ なるべく軽く、ノックしてみる。 廊下には僕一人。 でも、きっとあの廊下の角では昇と守が様子を伺っていると思う。 大丈夫だよ…と、僕は言ったんだけど、無事に僕が部屋に入るところを見届けてくれるつもりなんだろう。 悟、もう寝たのかな…? ここまで来て引き返す気なんて、もう全然なかった僕は、もう一度ノックをしてみようと右手を挙げた。 その時。 「…はい?」 中から聞こえてきたのは間違いなく悟の声。 「…開けて」 そう呟いた瞬間、ドアがそっと内へ開いた。 「…葵…」 そして、心底驚いたような表情で、悟はそこに立っていた。 「葵…」 僕を見つめる悟の瞳に、困惑だけでない、何か熱っぽいものを感じるのは、僕の都合のいい思いこみだろうか。 でも、暫く見ることの出来なかった悟のこの瞳に見つめられただけで、それがどんな色を湛えていようが、僕は身体の芯から暖かくなる。 「急に来て、ごめん。…でも、どうしても悟に会いたかったんだ。悟と話がしたかったんだっ」 耐えきれなくなって、ぶつかるように悟にしがみついてしまった僕。 もしかして、引き剥がされるかもしれないという不安も、あったんだけれど。 でも…。 「…ごめん、葵」 降ってきたのは辛そうに掠れた声。そして、触れてきたのは暖かい腕。 「ごめん、葵…ごめん」 壊れたCDのように同じ言葉を繰り返す悟に、僕は張りつめていたものを少しだけ解く。 「…葵」 そして、遠慮がちに触れあっていた身体が少し密着して、その大きくて暖かい掌がそっと僕の背に降りてきて…。 そのまま抱きしめられる予感に、僕が悟へと体重を預けようとしたときだった。 「…っ」 鋭く息をのむ音と当時に、優しい手つきで僕の背中を辿っていた悟の掌が硬直した。 「…さとる?」 何事が起こったのかわからないままに、僕がそうっと見上げると。 そこには目を大きく見開いて、身体と同じように、その表情を固めてしまった悟がいた。 「さとる?」 僕はもう一度、悟を呼んだ。 悟、どうしたの? 悟…。 「……あ、おい」 漸く絞り出すようにでてきた僕の名前。 「…ごめん、ちょっと…やっておかなくちゃいけないことを、思い…だした」 悟は僕の肩を掴んで、僕の身体を引き離した。 長い指が僕の肩に食い込む。 いつもは壊れ物を扱うように、僕に触れてくる悟の指が…。 けれど、その場所に痛みを感じている余裕はなかった。 もっと別の場所が、泣きたくなるほど痛み始めたから。 そして、僕はもうその名を呼ぶことすら出来なくて、ただ、その瞳の中から少しでも何かを見つけだそうと、縋るように見つめるだけで…。 「…また、連絡する、から…」 悲しいのか、微笑もうとしているのか、どちらにも取れる表情で、悟は目を伏せてしまった。 「…あと少し…時間が、欲しいんだ」 長い睫に隠されてしまった瞳からは、僕はもう何も見ることができないけれど。 「頼む、葵…」 「…うん。…わかった。悟の言うとおりに、する」 そう、僕はすべて悟の言うとおりにする。 僕という『重い存在』が、少しでも悟の負担にならないように。 今はそれだけを考えていれば、いい。 |
【5】へ続く |