第4幕「Concert」

【5】





「おーい、葵〜」

 校内合宿2日目。
 ちょうど午前のパート練習が終わって部屋を出たところで僕は同級生に呼び止められた。


「佐伯先輩から伝言! 首席ミーティングに15分遅刻。すまないけど待っててくれってさ」

「あ、ありがと」


 そう答えた僕に、同級生はキョロキョロっと辺りを見回して、祐介たちフルートパートがまだ部屋の中から出てきていないのを確かめると、僕にコソッとすり寄ってきて耳元で囁いた。


「な、宮階って昨夜何かあったのか?」
「え?」

 宮階くんがどうしたって? それも、昨夜…。

「何かって、何?」
「あ〜、葵も知らねぇか。んじゃ、いいわ」
「あ、ちょっと…!」

 声を掛けたのに、彼はまだ伝言を伝えて回らないといけないのか、後ろ手を振ると、あっという間にいなくなってしまった。

「葵…? 何かあったのか?」

 祐介が部屋から顔を出した。

「あ、ううん、なんでもないよ。ごめん、僕、ミーティングに行ってくるからっ」 

「ああ、ご苦労さん」

 まだ少し不審そうな顔をしている祐介を残して、僕はミーティングが行われる『練習室20』へ向かった。





 15分遅れ…という伝言が行き届いたのか、『練習室20』にいたのは司一人だった。

「葵ちゃん!」

 司もここのところ『コンマス修行』と称して先輩たちに連日しごかれていて、あんまり言葉を交わしていない。

「司…」
「ミーティングは15分遅れやって」
「あ、うん、知ってる」

 知ってるんだけど、ここへ来れば、誰かが何か情報を持ってるんじゃないかと思ったんだ。

「知ってるんだけど…。ね、司」
「なに?」

 無条件に向けられてくるいつもの笑顔。
 でも、それにホッとする余裕なんて僕には全然なくて。

「宮階くん、昨夜何かあったって聞いたんだけど、なんか知ってる?」

 言った途端、司はさっきまでの笑顔をスッと曇らせた。

 …何か知ってるんだ。


「ええと」 

 言い淀む司。

「実は昨夜、珠生のヤツ、ちょっと体力余ってる運動部の先輩方にちょっかい掛けられちゃって…」

「なんだって?!」

 なんてことを…!

「うわっ、びっくりするやん、いきなり大きな声で」
「だってだって! それで宮階くんは大丈夫だったの?」
「あ、うん。ちょうど悟先輩の部屋へ行くところだったらしくて」


 …なん……、


「約束の時間に珠生が来ないから、先輩が心配になって探しにきたらしい。それで…」


 …だって……?


「悟先輩が一晩中抱きしめてくれてたらしいから、今朝は随分落ち着いてたって、佐伯先輩は言ってたよ」


 悟…昨夜約束してたん…だ?



『…ごめん、ちょっと…やっておかなくちゃいけないことを、思い…だした』



 昨夜のあの言葉は、そう言うことだったんだ…。



「あ、怪我とかしてないから、珠生…」

 司の言葉が遠くなる。

 本当なら、宮階くんに怪我がなかったことを喜んであげなくちゃいけないのに、僕は…。


「葵ちゃん?」

 僕は……!

「葵ちゃんっ、ちょっとっ、葵ちゃんっ?!」


 僕を揺すってるのは誰?

 ……やめて、揺すらないで…気持ち、悪くなる…。


「葵っ? …どうしたんだ、佐倉っ」
「あ、浅井先輩! 葵ちゃん、様子がおかしいんですっ」
「…っ。なんか様子が変だと思って追っかけてきたんだけど…」


 ああ、もう、耳元でごちゃごちゃ言わないでっ!


「佐倉、あとを頼む。僕は葵を保健室に連れて行くから」
「はい、あとのことは僕がちゃんとやっておきますから」 

 ふと、目の前が暗くなった…。



                    ☆ .。.:*・゜



『そう言えば、階段落ちをやらかしたのも去年の今頃だったよなぁ』
『あ、そうでしたね』
『ところで奈月、ちゃんと食ってるか? 痩せたような気がするんだが』
『…ここのところちょっと…』
『だろうな。浅井、お前しっかり見ててやれよ。こいつは根を詰めたらとことん…ってところがあるからな』
『はい。気をつけます』
『何かあったら夜中でもなんでもすぐ連絡してこいよ』
『わかりました』


 遠くに、そんな会話を聞きながら、僕は夢を見ていたらしい。



 背後からいきなり口を塞がれたときの恐怖。
 体中を何かで覆われ、真っ暗な中、どれほどの時間聞いていたのか定かでない車のエンジン音。
 窓のない、湿った部屋。
 背中一面を覆い尽くす激痛と、身体を二つに引き裂かれるような衝撃。
 そして、長い長い…暗闇……。




 そして、急に差し込んできた光に僕はぼんやりと目を開けた。

 そこは、白いカーテンに覆われた保健室のベッドの中。

 でも、去年のように、目を開けた自分がいったいどこにいて何をしているのか、わからなくなるようなことはなかった。

 妙に冴え冴えとした目覚め。

 そして、僕が久しぶりに見た悪夢は、一つの方向を指していた。







 悟は、僕と出会い、そして、好きになってくれはじめた頃にはまだ、僕が乱暴された過去を持つことや、弟であることなんて知らなかった。

 昇と守が受けた虐待の事実が、悟の心を何年も塞いでしまったように、僕の背中の傷も、悟の重荷になっているのかも知れない。

 だとしたら、悟が今、なんの負い目もなく接することができる宮階くんに惹かれるのも仕方がないことなのかもしれない…。

 でも、そうなったとき、僕はどうすればいい?
 もしも悟に『さようなら』を言われてしまったら、僕は、僕はどうしたらいい?
 


 ああ、でも、悟の心は僕のものじゃないから、僕にはどうすることもできないんだ。

 人の心が永遠だとは言えない。
 それは悟も同じ。

 でも、僕は違う。

 もしも悟の心が離れたとしても、僕は、僕の心は、彼を思い続ける。

 僕の心は、永遠に悟…あなたのもとにある…。

 けれど…。

 悟のその瞳が、僕を見つめたあの情熱の色を、他の誰かに向けるなんて。

 悟の心が離れるだなんて。

 あの暖かい腕がもう僕を抱きしめないだなんて。

 今さら『弟』に戻れだなんて。


 そんなの…耐えられない…。






 結局僕はそのあと、午後の練習を休んでしまって寮の部屋でぼんやりと天井を眺めていた。

 そして、色々なことを考えた。これから僕はどうすればいいんだろうか…と。


 頭に浮かんでは消える、『そんなはずはない』と笑う楽観論の僕と、『もうダメなんだ』と嘆く悲観論の僕。

 けれど、どんな筋道を通ったところで、行き着く先は一つだった。

 僕は悟が好き。今も、これからもずっと。

 だから、悟の負担にならないようにするのが一番だと。

 悟が今、僕を見ていたくないのなら、僕もまた、悟の視界に入らないように気をつけるのがいいんだ。

 それはとても辛いことだけれど、母さんだってずっとそうしてきたんだ。

 僕に出来ないはずはない。

 そして、今以上に部活をがんばって、せめて奏者としては認めてもらえる存在でいたい。


 …そうだ、僕はここのところずっと、自分の事ばかり考えていて、周囲に気を配る余裕がなかった。

 祐介はパートリーダーとしてフルート全員の面倒を一生懸命みていて、佐伯先輩は奏者の立場を降りてまで管弦楽部の為に尽くして、昇は、夏まではソリストなのに、それでも時間を作っては後輩の練習を見て、守は弦楽器全体のまとめ役としてがんばっていて…。


 そして、悟は……宮階くんのために一生懸命で…。


 なのに、僕は管楽器のリーダーという立場もそっちのけで、自分の事ばかりを考えていた。

 こんな僕、悟だけじゃなくて、今にきっとみんなからも愛想を尽かされる。

 それだけは、ダメだ。

 僕は管弦楽部に居場所をなくしたら、本当にもう、どこへも行くところがないんだから…。





 時計を見ると、まだ練習終了まで1時間あった。

 僕は、なんだかふにゃふにゃと頼りない首筋を軽く叩いて、ベッドから起き出した。

 行こう、練習に…!





 僕が308号室をでて、一番近くの階段を下り始めると、頭の上から小さくスリッパの音が響いてきた。

 この時間、寮はほとんど無人に近い。

 部活のない生徒はみんな帰省しているし、部活のある生徒はみんな校内合宿中だから。

 誰かな…とは思ったんだけど、上の階ということは後輩だから、知らない顔のはず…と決め込んで、僕はそのまま――相変わらずしゃきっとしてくれない身体を励ましつつ――階段を下りていたんだけれど…。


「奈月先輩!」

 それは、とても聞き覚えのある、ちょっと舌足らずの可愛い声。

「…宮階、くん」

 振り向いたそこには、ついさっき無理矢理奮い立たせたばかりの『気合い』が音もなく崩れ落ちそうなほど、可愛らしい笑顔…。

 大丈夫なんだろうか、昨夜のこと…。


「先輩、どうされたんですか? こんな時間に」

 君こそ…と、言いそうになって僕は慌てて口をつぐんだ。

 だって、宮階くんは昨夜のショックで休んでいたんだから…。


「あ、うん、ちょっと、貧血」
「え? 大丈夫ですかっ?」

 とても心配そうな顔。

「うん、平気。もうよくなったから、ちょっとでも顔だそうと思って」
「それならいいんですけど…。先輩いつもお忙しそうですから、気をつけて下さいね?」

 屈託なく優しいその表情。

「ありがとう、気をつけるよ」

 きっと宮階くんには、僕のようなドロドロとした汚い感情はないんだろうな…。


「僕もこれからホールに行くんです」
「じゃあ、…一緒に行こう」


 …悟の姿は…ない。
 一緒にいなくていいのかな…。


「はい!」

 元気よく返事をしてくれた宮階くんの小振りな頭を、僕は思わず撫でていた。

 悟にとって大切な人。

 それなら、僕も大切にしなくちゃいけない。


 これ以上、悟に疎まれたくないから……。



第3幕「Concert」 END

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