第5幕への間奏曲「それでも僕は、君だけを想う」

【1】





 それはゴールデンウィークの初日――つまり、合宿初日の深夜のことだった。

 消灯を過ぎてどれほど経った頃だろうか。

 同室の大貴が帰省しているため、一人部屋となっている123号室のベッドの中、悟は何度も寝返りを打っていた。

 明日もやらなくてはいけないことは山積みだ。
 だから早く眠らないといけないのに、意識はずっと葵のことを追っていて、眠くなるどころか醒める一方だ。 


『許さないっ』


 それならばせめて葵の笑顔を浮かべようとするのだが、取って代わるのは司の怒声とその頬を伝う幾筋もの涙。


 この手はもう、葵を抱きしめることは許されないのだろうか…。


 あまりにも陰鬱な吐息を一つ、枕に落としたとき、微かにドアを叩く音がした。

 恐らく、熟睡していたら気がつかなかっただろう、本当に微かな…。


(誰か…来た?)

 悟はそっとベッドを抜けて、ドアに立つ。

「…はい?」

 誰かいるのか…いやもしかしたら空耳かも知れないが、廊下に向けて尋ねてみる。

 そして、帰ってきたのは思いもかけない声だった。


『…開けて』

 …葵!

 絶対に聞き間違えるはずなどない、愛しい人の声。

 信じられない思いでドアを引くと、そこには…。


「…葵…」

 やっぱり葵だ。会いたくて、見つめたくて、そして…。

「葵…」

 もう一度呼んで確かめなければならないほどに、目の前に立つその存在が信じられなくて…。

 一時も目を離したくない。

 悟は、これ以上ないほどの熱を込めて葵の姿をその目に焼き付ける。

 その瞳を捉えて、葵の瞳もまた一気に潤んだ。そして…。


「急に来て、ごめん。…でも、どうしても悟に会いたかったんだ。悟と話がしたかったんだっ」

 言葉の終わり、耐えきれなくなったかのように、葵がぶつかるようにしがみついてきた。


「…ごめん、葵」

 心の底から吐く言葉が掠れている。

「ごめん、葵…ごめん」

 何も話せないまま、説明すら出来ないままに、距離を置いてしまったのは自分の弱さ故。

 当然葵は知らないのだろう。自分と司の間に何があったかなどと…。



「…葵」

 もう、耐えきれなくて、悟はその手をそっと葵の背に回した。

 夢に見るほど、抱きしめたかったその身体。

 僅かに体重を預けてくる葵が嬉しくて、そのまま強く抱きしめようと、背中に触れた掌に力を込め、そして、薄いシャツ越しに葵の体温が触れ…。



『酷い火傷のあとをなんの手当もないまま、家の前にまるでゴミみたいに捨てられて』



「…っ」

 悟の掌が硬直した。



『その汚れた手で葵ちゃんに触るなんて、許さないっ』



「…さとる?」

 何事が起こったのかわからないままに、葵が伺うように見上げてくる。

 けれど、それを見つめ返すなんてことは、到底出来なくて。

「さとる?」

 もう一度、呼ばれた。



「……あ、おい」

 どうにか絞り出した葵の名前。けれど、本当にいいたい言葉はもう、悟の喉を通らない。

「…ごめん、ちょっと…やっておかなくちゃいけないことを、思い…だした」

 口からこぼれ落ちる『言い訳』だけが、未練を残す自分の腕から葵を解放しようと必死になる。

 この手が触れることの許されない、葵の綺麗な心。

 いつもならそっと扱うその華奢な身体を、まったく余裕なく引き剥がしてしまったのは、少しでも自分から遠ざけなければ、葵まで汚してしまうような気がしたからだろうか。

 初めて葵の背中に触れたときには、この傷ごと、自分は葵を守るのだと決めていたのに。

 けれど今触れたその傷は、まったく葵の心の傷、そのものに思えて…。

 そしてその傷を付けたのは…。



 葵がジッと見つめているのを痛いほど感じる。

 けれど悟には、瞼を伏せて、心を隠す他に手だてがない。


「…また、連絡する、から…」

 今はまだ、葵に向き合えない。

「…あと少し…時間が、欲しいんだ」

 けれど、絶対に諦める事なんてできない。

「頼む、葵…」

 だから、一歩でも葵がいる「高み」に近づくために。
 今度こそ、何もかもを包み込める人間になるために。


「…うん。…わかった。悟の言うとおりに、する」

 肩を落として帰っていく葵の後ろ姿は…到底見送ることなど出来なかった。







 焦れば焦るほど、事態は悪い方へ向かう。

 そのことはよくわかっているつもりだった。

 だがこの焦りは、すでに自身を省みることの出来ないほど、悟を追いつめていた。

 自分たちが音楽の世界にいなければ、こんなにも苦しまずにすんだのに。

 そして、自分さえいなければ、葵が――葵だけではない、昇も、守も――傷つけられることなどなかったのに。


 少しでも葵に追いつくことを目標にしていたはずの6年目の聖陵生活は、思いもかけない出来事によって悟をがんじがらめにしていた。





『おい…っ、悟っ、開けてくれ…っ』

 葵が去って、どれほど経っただろうか。
 密やかに、だがせっぱ詰まった様子で部屋をノックされて、悟はビクッと肩を揺らして抱えていた頭を上げた。

『悟…っ。起きてくれっ』

 その尋常でない様子に、悟は慌てて立ち上がり、ドアを大きく開いた。

「佐伯…どうし……、珠生っ?!」

 ドアの向こうにいたのは、悟の片腕――副部長の佐伯。そしてその腕の中には珠生がいた。

 そして、悟が事態を把握する前に、佐伯は珠生を抱えたまま、部屋へ入ってきた。

「悪いけど、珠生のこと、頼む」

 悟のベッドに座らされた珠生の頬には、涙の跡が。
 さらに、よくよく見れば、佐伯には怒り色がありありと浮かぶ。

「どうしたんだ、二人とも…いったい」

「柔道部のバカ共が、珠生にちょっかいかけたんだ」

「なんだってっ」

 吐き捨てるように告げた佐伯の言葉に、悟も夜中だと言うことを忘れて答えてしまう。

「大丈夫かっ、何をされた? 怪我はっ?」

 床に膝をついて珠生の腕を掴み、矢継ぎ早に尋ねると、珠生はプルプルと首を横に振った。

「だ、大丈夫です。からかわれただけなんですけど、取り囲まれちゃったら急に怖くなって…」

 その言葉に、ほんの僅か安堵するものの、珠生の恐怖を思うとこのままではおけない。
 柔道部の猛者共は一人でも威圧感があるというのに、こんなに小さな子がそんな連中に取り囲まれたときの恐怖など、冗談ではすまされない。


「佐伯、そいつらはどこにいる?」

 可愛い後輩をそんな目に遭わせるなんて、絶対に許さない。

 だが、出ていこうとする悟の肩を佐伯が止めた。

「悟、お前が出ていく必要はない」

「おい…?」

「俺がきっちりカタを付けてきてやる。だから、今夜は珠生のこと、頼む」

「…ああ、それはもちろんだけど…」

 珠生を怪我もなく保護できた以上、悟にとって次に心配なのは、佐伯が何かやらかすのではないかということだ。

 だがその思いも、佐伯はあっさりと汲み取った。

「心配するな。無茶はしない。ただし、懲りてはもらうがな」

 ニヤッと笑うその表情は、「策も勝算もある」と雄弁に語っている。

 確かに、こんな風に佐伯を怒らせると、ただのお礼参りではすまないだろう。それは6年目に入ったつき合いの中でよくよく承知している。

「…じゃあ、お前を信じて任せるが…」

「おう、そうしてくれ」

「それにしても…」

 一度立ち上がっていた悟は、また膝をついて珠生を見上げた。そして、怯えさせないように優しい声で問う。


「でも、どうしてこんな夜中に寮内を…」

 だが、赤くなって顔を伏せた珠生に代わって、佐伯が答えた。

「それをお前が聞くなって」
「…佐伯…」
「珠生は…」
「いいんですっ、佐伯先輩…言わないで…」


 慌てて佐伯を止めに入った珠生に、佐伯はらしくもなく切なげな吐息を漏らしてから頷いた。


「…わかった…。じゃあ、珠生、今夜はここでゆっくり休ませてもらえ。悟が付いていたら安心だからな。明日また、元気に出てこい」

「…はい。佐伯先輩、ほんとにありがとうございました」

 深く下げられた珠生の頭を、佐伯は元気づけるようにポンポンと叩いて、踵を返し、ドアノブに手をかけた。

 そして振り返る。

「悟……。珠生のことに必死になってくれるのはありがたいけどさ、あんまり行きすぎた教育するなよな。珠生のためにも、葵のためにも…さ」

 悟の耳にしか入らないような、囁き。

 そして、その表情はいつものように余裕がありそうだったが、瞳はマジだった。

「佐伯…お前……」

 葵とのことは、もちろん話してはいない。

 知っているのは、弟たちと、祐介だけ…のはずなのに。

 驚愕する悟に、酷く真剣な眼差しのまま、佐伯は言った。

「あのな、舐めるなよ。俺も相応の覚悟でお前の片腕やってるんだ。いいか、葵との事を信じてるから、今夜珠生をお前に預けるんだからな」

 そういいざま、部屋の奥で俯いている珠生にちらっと視線を飛ばしてから、佐伯は部屋を出ていった。





『…佐伯先輩!』

 閉じられたドアの外で声がする。

「…司だ…」

 ポツッと珠生が漏らした声に、悟は全身を強張らせる。

『珠生が取り囲まれてるって聞いて…っ』

 慌てたその声は、同期を思いやる気持ちに満ちていて…。

『ああ、大丈夫だ。怪我はない。今夜は悟に任せておこう』
『え…悟先輩…ですか?』
『あいつなら間違いないからな』


 遠ざかっていく二人の会話を、悟はぼんやりと聞き流していた。


 
【2】へ続く

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