第5幕への間奏曲「それでも僕は、君だけを想う」

【2】





「葵、もう終わりか?」
「うん、なんだかお腹いっぱいで…」

 そんなはずは絶対ない。

「祐介、たべる?」
「…いや、いいよ」


 祐介は、葵の前に並ぶほとんど手つかずの夕食を見て、わからないように表情を曇らせる。

 今夜のメニューは寮食でも5本の指に入る人気の「エビフライ」だ。
 葵も大好きだったはず。

 普段から男子高校生にしては小食な葵だが、出されたものは綺麗に食べる。それこそ、親の躾の厳しさが伺われるほどに。


「ね、祐介、練習に行かない?」
「え? これからか?」
「うんっ」



 黄金週間耐久新入生歓迎合宿が終わって3日。

 だが今日もこってりと絞られた管弦楽部。なのに、葵はまだ練習しようというのだ。

 しかし、にっこりと微笑まれてしまっては、祐介にはもう逆らうことなどできはしない。


「…じゃあ、行くか」
「うん!」



 ここ数日、ほとんど食事をしていないと言うのに、葵はやたらと元気だ。

 HRでも部活でも、普通ならニコニコと眺めているだけだろうという場面でも、葵は何故か率先して輪の中に入って騒いでいる。

 周囲は活発な葵を歓迎して更に盛り上がっているが、その違和感に祐介が気がつかないはずはない。


 そして、祐介を不安にさせていることがもう一つ。

 日中それほどまでにはしゃいでいるというのに、夜、眠っている様子がないのだ。

 4人部屋の時も、誰よりも早く爆睡を始めて、朝は起こされるまで寝ていた葵が。

 一晩中寝返りを繰り返す様子は、昼間の奇妙なはしゃぎっぷりと重なって、痛々しい。


「祐介〜、早く〜」
「こら、慌てるなってば」


 そんなに急かさなくても練習室は空いているに決まっている。
 あと1週間もすれば中間テストの準備期間に入り、部活も中断される時期なのだから。



 そんな言葉を心の内に閉じこめて、祐介はもう一度、葵が片づけようとしているトレーを見る。

 今夜葵が口にしたのは、エビフライ一囓りと、くし切りのトマト一切れ。コーンスープは半分ほどに減っていたが、ほかほかに炊きあがっていた白飯には結局手を付けずだった。

 それらを祐介は記憶にしっかりと閉じこめて、葵のあとを追った。



 そろそろ、限界かも知れない…。

 多分、明日か明後日あたり、呼び出されるだろう。いや、本音を言うと、今すぐにでも呼び出して欲しいところなのだが。


 このままでは…。


 葵はそんな祐介の思いなど、まったく気がつかない風で、その夜も消灯間際まで練習室ではしゃいでいた。



                    ☆ .。.:*・゜



「朝…、卵焼き一切れ、ほうれん草一口。昼、きつねうどん4分の1、…夜が、ハンバーグ一口にブロッコリー一房……主食は口にせず……か」


 分かり易くまとめられたレポートにざっと目を通し、高校寮の寮長にして保健体育の教師である斉藤雅樹は一つ嘆息してから内線電話に手を伸ばした。

 僅かなコールで目的の相手は電話を取った。6時間目が「空き」であることは知っていた。


「…ああ、翼。俺だ」

 いつになく深刻な声色に、電話の相手――数学準備室にいた2−Aの担任教師――松山翼もまた、緊張の色を含んだ声で返事をする。何の話か、すでに予想がついているのだ。


「終礼がすんだら、そのまま連れてきてくれ。部活は休ませる。直人にはこちらから連絡を入れておくから。ああ、頼む。…いや、浅井はいい。そのまま部活に行かせてやってくれ」


 受話器を置くと、斉藤はもう一度レポートを見直し、そして保健室内のベッドではなく、病室扱いになる個室の準備を始めた。



 それからしばらくの後、校舎のあちこちが放課後の騒がしさに包まれ始めた頃、松山に伴われて葵が保健室にやって来た。

「よう、奈月」

 電話の声とはうって変わり、斉藤は明るい声と笑顔で葵を迎える。

「斉藤先生、こんにちは〜」

 葵もまた、人懐こい笑顔を向けるのだが…。

「体調はどうだ?」

 白さを通り越し、蒼くさえあるその覇気のない作った笑顔に、斉藤の表情が微かに曇る。

「ばっちりですけど…」

 そう言いながら微笑みはするのだが、すでにそれすら痛々しい。

 周囲の生徒たちは、きっとその笑顔に騙されているのだろう。

 だが、子供は騙せても、大人は騙されはしない。

 ましてや斉藤は、聖陵に勤めて12年間、多くの生徒の親代わりをしてきたのだ。

 どんな生徒の変調も、一目で見抜く自信がある。


「そうか、それならそれに越したことはないが、だが少し痩せすぎのような気がするぞ。ちゃんと食ってるか?」

 腕を引き、椅子に座らせながらそういうと、葵はちょっと困ったような顔をみせた。

 その背後では、心配そうな表情で松山がジッと見つめている。


「浅井が心配していたぞ。奈月があんまり食わないってな」

 だが、斉藤の口から祐介の名前が出た途端、葵はまた、スッと笑顔に戻る。

「祐介はちょっと過保護なんです」

「そうかな? 浅井でなくても心配するぞ。その顔色じゃあな」


 そう言うと、葵はキュッと表情を引き締めた。

 悟られまいとしてきたことを簡単に指摘され、動揺したのが手に取るようにわかる。

「だからな、少し栄養をつけよう。簡単な点滴だから2、3時間で済む」
「でも、僕、部活が…」
「そっちは浅井に任せておけ。あいつは頼りになるパートナーだろう?」
「でも…っ」
「そんな顔色で出ても、みんなに心配掛けるだけだぞ?」


 さらに言い募ろうとした葵に、その一言は効いたのだろう。葵は見開いた目を伏せて、観念したように、小さく「はい」と返事をした。


「奈月、心配するな。浅井にも光安先生にも、ちゃんと話をしておくから」

 松山が明るい声で葵の肩を叩く。

 不安そうな顔で振り返った葵は、その顔を見て僅かに微笑み、そして「お願いします」と消え入りそうな声で言った。



                    ☆ .。.:*・゜



「すまんな、雅樹」

「何言ってるんだ、奈月も俺の大事な子供だよ。ましてや俺はこれが仕事だ。同じ校内にいても、直人には直人にしかできない仕事があるだろう。それと同じだ」

「…ああ、そうだな…」


 ――あまり病室臭いのは好ましくない。

 斉藤のその意見で、病室扱いの個室の内部は真っ白ではなくて、暖かい色調のアイボリーで統一されている。

 ここで静養する生徒は、大概はインフルエンザなどの伝染性の病気のためで、長期で使用することはあまりない。

 特に今は初夏のため、その類の病気もなく、心臓疾患を抱える生徒のために一部屋を常にスタンバイさせている他はすべて空き室状態だ。

 もちろん生徒の立ち入りも禁止されているから、恐ろしいほど静かで、交わす言葉も自然小さくなる。

 だから、葵の規則正しい静かな呼吸も耳に入ってくる。

 そして、光安はその安らいだ寝息に僅かに安堵する。


「ここ数日はほとんど寝ていないらしいから、眠剤も投与してもらった。多分今夜中は寝てくれるだろう」

「翼の見たところ、朝礼の時も終礼の時も…授業中も、普段以上に明るく振る舞っていたらしいからな。相当気を張っているんだろう」

 光安の言葉に、斉藤が軽く肩を竦める。

「いつ、ぶち切れるかと冷や冷やだったがな」

「だが今回は浅井のおかげで助かったな」

「ああ、見事なレポートだったぞ。奈月の24時間が克明に記録されていたからな」

「ってことは…」

「そう、浅井も寝ていないってことだ。奈月がほとんど眠っていないことを知ってるんだからな」


 光安が深いため息をついた。

「じゃあ、今夜はゆっくり休ませてやらないと…」

「そういうことだ。奈月は明日までここで預かる。俺がずっとついてるから心配はいらん。だから浅井にもそう伝えて安心させてやってくれ」

「…わかった」

 そうして一旦会話が途切れたのだが…。




「で、原因はなんだ」

 斉藤のそれは、堪りかねたような口調だった。

 だが、何かを知っているだろうと思われた光安は、首を横に振った。

「…おい、まさかまったく把握してないのか?」

 その責めるような口調に、光安はもう一度同じ仕草をしてみせる。

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだが…」

 言葉が途切れる。

 葵は正しい呼吸で眠りについているが、その表情にいつもの愛くるしさはない。

 この苦しげな様子に、早く終止符を打たせてやりたい。


 だが…。


「今手を出すと、何もかも水の泡になる」

 今、大きなステップを一つ登ろうとしている、悟の苦しみが…。

 光安は、悟が今後、ピアニストになるにしても指揮者になるにしても、珠生を育てるということで、さらに確かな指導力を身につけ、たくさんの経験を積んでくれればと願い、この困難な課題を与えたのだ。


「…直人…」
「…今は何もしてやれないんだ」


 それきり何も言おうとしない光安に、斉藤は降参のポーズを取った。人一倍頑固なところがあるのは、9年目になろうかというつき合いの中で重々承知している。


「…まあ、お前が把握しているというのなら、何も聞かないでいてやるよ」

「…すまない」

「奈月の身体のことは任せておけ。俺が責任持って、維持してみせる」

 その頼もしい言葉に、光安は漸く緊張を解いた。

「頼りにしてる」
「当たり前だ」



 個人レッスンを離れたことで、減ってしまった二人の逢瀬の時。

 そして、珠生の面倒を悟に一任してしまった事に起因するのであろう、二人の誤解…もしくはすれ違い。

 いずれもよかれと思ってしたことだったのだが、こんな風に恐ろしいほど裏目に出るとは思わなかった。

 だが…、それにしても何かがおかしい。

 これは、一つや二つの歯車の狂いではないような気がする。


 注意深く検証する光安だったが、答えは出なかった。

 しかしそれは無理からぬことだろう。

『佐倉司』という要因は予想外であるのだから。

 そして、いま彼らが背負っているものが『大人たちから受けた大きな傷を、自らの力で真正面から克服する』という、あまりにも重い荷物であることに、まだ気がついてはいなかった。


【3】へ続く

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