第5幕への間奏曲「それでも僕は、君だけを想う」

【3】





 第一の綻びは、ピアノの個人レッスンを外されたことだった。


 今まで以上になるであろう、最終学年での『多忙』を見越しての光安の配慮は確かにありがたいのだが、悟にはそれ以上に大切なものなのだ。

 葵と過ごせる時間は。

 ただでさえおおっぴらに出来ない関係を二重に――恋人であり、兄弟でもあり――背負っていて、その緊張からか、人前では何気ない会話ですら妙に気を遣ってしまう。

 言葉の端から何か気づかれてしまわないか…。
 この態度は馴れ馴れしすぎないだろうか…などなど…。


 だから、大手を振って二人きりになれる――しかも防音室という密室で――個人レッスンの時間は、何物にも代え難い重要な時間だったのに。

 悟はレッスンを続けたいと光安に訴えたのだが、もちろん受け入れてはもらえなかった。

 その配慮を少し恨んでみたりもしたのだが、冷静になってみるとそれもいたしかたのないことなのだ。

 2年が終わる時点で悟が抱えていた個人レッスンの生徒は葵を含めて全部で4人。

 もちろん全員が音大への進学を希望している生徒だから、そう言う意味で悟の責任は重い。

 しかも、一人当たり1時間を越えるレッスン時間を割いているのだから、時間的な負担も大きい。

 そして、何といっても悟自身がまだ生徒で、しかも受験生で、冬の定期演奏会ではコンチェルトのソロも抱えていて……やらなくてはならないことは山ほどある。

 かといって、3人のレッスンをやめて、葵だけを残すと言うのは恐らく許されないだろう。それこそ『二人の仲』が勘ぐられてしまう発端になってしまうかもしれない。

 何かいい理由が付けられればいいのだが、それはそれで、自分の中での不自然さが拭えないだろうと思うともう、八方塞がりになった。


 4月からの葵のレッスンは、悟の母・香奈子が大学で教えている学生に代わった。

 聖陵にしては珍しく、女性の講師を迎えたわけなのだが、かえって中途半端な年齢の男性講師でなくてよかったかも…などと安心したのも束の間、その女子大生が数年前、ほんの一ヶ月ほどだったがつき合ったことのある女性だったので、悟はまた頭を抱えたりする羽目になった。


 何事も起こらなければいいが…。

 この件に関しては消極的に見守るしかなさそうだった。






 第二の綻びは、誰憚ることなく、葵の姿をこの視界の中に入れておくことの出来る唯一の時間――部活動を、珠生のマンツーマンに裂かなくてはいけなくなったことだった。

 ホルン奏者としては、20年ぶりに高校からの入学となった今年の新入生・宮階珠生は、入学初日から、人懐っこい性格とその可愛らしい外見やちょっと舌足らずな話し方から、学年の上下に関わりなく誰からも可愛がられる存在だった。

 大概の生徒が、学校生活に慣れるまではそうそう先輩連中に親しく接することなど出来ないと言うのに、葵や守などの取っつきやすい上級生はもちろん、悟や祐介にも屈託なく甘えることが出来て、それがまったく不自然でないのだ。

 そして、有名な音楽家の息子で、演奏技術はぴかいち。


 だが、その評価は最初の合奏以降、鳴りを潜めた。

 それは、珠生の演奏が音楽的協調性に欠けているからだった。

 美しいのに、周囲に全く溶け込めない音。そして機械のように正確なリズムは寸分の揺れも起こさず、ただ淡々と楽譜をなぞるだけ。

 生徒たちの誰もがうらやみ、講師陣が舌を巻くほどの技術を持ちながら、珠生は一人、合奏の中で浮いてしまっていた。

 だが、珠生には何がいけなくてみんなと同じように楽しめないのかわからない。

 正しく吹いているのに。楽譜通りなのに。きれいな音なのに。



                    ☆ .。.:*・゜



「はぁぁぁ…」

 やっぱりなんだかよくわからない。

 珠生は一人、練習室の中でホルンを抱えたまま肩を落とす。

 フレージングもアーティキュレーションもダイナミクスも問題はない…と思う。

 けれど、大好きな悟は『もう少し、自分なりに考えて吹いてみてごらん』と言い残して全校の部長会議に行ってしまった。

 会議が終わったら戻ってきてくれると言っていた。
 だからそれまでに、自分なりの結果を出したかったのに、その出口はおろか、糸口すら全く見えてこない。


 目の前におかれている楽譜は、ホルン奏者なら誰でも知っている、シューマンの『Adagio und Allegro』。情緒的な序奏部分と華やかに展開する後半部分の対比が美しい名曲だ。

 2年ほど前の春休み。父親に連れられて行った何かの集まりで、珠生は守がこの曲を弾くのを聞いた。

 もともとホルンのために書かれたこの曲をチェロで演奏するのはかなり難しいとされているのだが、守は見事に弾ききって、周囲の大人たちが『さすがに血は争えない』と手放しで賞賛していたのを良く覚えている。

 そして、その興奮さめやらぬままの帰り道、父親にねだって楽譜を買ってもらい、それ以来『あんな風に演奏してみたい』と憧れ、練習し続けてきた曲だ。

 だから、もう、いつでもどこでも、暗譜で演奏できるほどに身体の中に入っている。


 それを今回、それを『課題』として与えられた。
『課題』としてクリア出来たその先には『発表』が待っている。

『夏のコンサート』にこの曲で出るようにと言い渡されているのだ。

 もちろん伴奏は悟。


 去年のコンサートでソロに抜擢されたのは葵だったと聞き、その時の録画があるというので悟に頼んで見せてもらったのだが、さすがにコンクールを獲っているだけあって、圧巻だった。

 たった一学年上なだけ…というのが信じられなくて、オーディオルームに――悟もまた食い入るように見つめていたから――二人して何時間も籠もってしまった。

 何度見ても、何度聞いても、とても高校1年生が演奏しているとは思えない。

 葵の音は、まるで言葉を語っているようだった。聞いている自分たちに、何かを話しかけてくる。そして、演奏後も何か暖かいものを残す…。

 どうしたらあんな風に演奏できるんだろう。

 ちょっと音を変えてみたりもした。リズムをわざと揺すってみたりもした。

 でも、違う。全然違う。


 自分だって音楽家の息子なのに。小さいときから訓練されて、誰よりも上手に吹けるように頑張ってきたのに。

 どうして自分は先輩たちのように演奏できないのだろう。

 どうして葵のように…。





「奈月先輩…」

 ふと珠生の意識のうちに、目が合うといつも優しく笑いかけてくれる少女のように綺麗な顔が浮かんだ。

 入学して4日目、部長である悟と管楽器のリーダーである葵が、準備室でうち合わせをしているのを見かけた。

 ふと顔を上げた悟が、これ以上ないほど優しい微笑みで葵を見つめたのが忘れられない。

 僕もあんな風に…。




「どうした、珠生」

 いきなりかかった声に、珠生は危うくホルンを落としそうになる。

「わっ」

 だが、ホルンごと、暖かい腕に抱えられて…。

「悟先輩…」

 重い防音扉が開いたことにも気がつかなかった。

「危ないぞ、ぼんやりして。疲れた? ちょっと休憩するか?」

 覗き込んでくる柔らかい瞳。

 葵を見つめていた瞳とはちょっと違うけれど、でも、それでも十分なほど甘くて優しくて…。


(やっぱり僕、悟先輩のこと…)


 今までのように、大きな声で『大好き!』と言ってはいけないような、ちょっと甘くてすっぱい気持ち。

 認めてしまうと、途端に胸がツキンと痛んだ。



                    ☆ .。.:*・゜



「珠生…?」

 潤んだ瞳で見上げられ、悟は僅かに…至近距離の珠生にすら悟られない程度に表情を曇らせる。

 顧問から直々に『珠生を頼む』と言われ、その真意が『珠生や管弦楽部のため』だけでなく、『自分自身のため』でもあることに気がついた時から、悟はこの可愛い後輩の指導に全力を傾けてきた。 


 誰よりも愛おしい恋人の葵は、同じ音楽を目指すものとして遥かに自分の先を行く。

 その葵に少しでも近づくためには、自分自身を磨くしか方法がない。

 けれど、自分がそうしてあがいている間にも、葵はさらに前へ行く。

 恋人として、いつまでも葵の側にあるために、自分は何がなんでも葵に追いつかなくてはいけない。

 出来るだけ多くの課題を自分に課し、それをクリアしていく。

 だから、どんな一瞬でも気を抜いてはいけない。

 自分が一息つく間にも、葵は……。




「悟先輩…」

 ホルンを持つ手が微かに震えている。

 その原因に、思い当たるような、当たらないような…いや、もしかすると目を逸らしているだけなのかも知れないが、とりあえず悟は、ゆっくりと珠生を椅子に座らせた。

「ほら、珠生、落ち着いて」

 背をさすってやると、珠生は小さく深呼吸をした。

 葵以外の後輩を名前で呼んだりはしない悟が、「珠生」と呼ぶのは、もともとは珠生の緊張を解すためだった。

 普段はあれだけ屈託なく接してくる珠生が、何故かマンツーマンの状態で楽器を構えると、途端に酷く緊張してしまうのだ。

 その理由がわからなくて、悟はある日曜日に招かれて行った宮階邸でのパーティの席上、珠生の父親である宮階幸夫氏にそれとなく尋ねてみた。

 すると、宮階氏は『一人息子を溺愛してしまった親バカが招いた大失敗だよ』と苦い顔をして見せた。

 珠生は今までに、指揮者である父親とホルン奏者である叔父の二人からしかレッスンを受けたことがないというのだ。だから、楽器を持った状態で他人と一対一になると、まったくリラックスの出来ない状態に陥ってしまうのだと。

 それ以来、悟は珠生と二人きりになるとまず、『珠生』と優しい声で呼ぶようになった。

 多少のリスクは覚悟の上だった。

 自分のそう言う態度がどういう影響を及ぼすのかも、ある程度の自覚はあった。

 だが、それを利用してでも珠生の演奏を変えて見せるつもりでもあった。


 珠生に足りないのは『感情』。

 純真無垢なだけでは表せない表現の色々は、言葉で説明できるものではない。

 自身が心に受けた『何か』を、自分の力で音に変えていかなくてはいけないのだ。

 珠生はその『何か』を『音に変える力』はすでに持っている。

 ならば、あとはその心に変化をもたらさない限り、『何か』は生まれてこない。

 そして、彼の演奏はこのままで終わってしまう。

 これだけの演奏技術をもった子を、このままにはしておけない。
 珠生が『何か』を掴めば、きっと葵のようになれるはず。


 珠生を少しでも葵に近づけること。


 それがきっと、自分自身をも葵に近づけてくれることになるに違いない。

 悟はそう信じた。




「落ち着いたら、もう一度聞かせてくれるか?」

 優しく問うてみると、珠生は頬を染めて頷いた。

 だが、もう一度深呼吸してから楽器を構え、漸く吹き始めた音は、今までの珠生では考えられないほどに乱れ、震えていた。


 ――珠生がその殻を自分の手で壊した瞬間だった。


 そして、それを目の当たりにした悟もまた、喜ぶ余裕などまるでなく、ただ、緊張を全身に感じていた。

 愛することはできなくても、珠生は大切で可愛い後輩。

 傷つけてしまうような真似だけはできない。

 こうして悟はまた、次の段階――珠生が自分の手で、また新しく音の世界を積み上げていくこと――に向けて、極度の緊張を自らに強いていくのだった。 


【4】へ続く

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