第5幕への間奏曲「それでも僕は、君だけを想う」
【5】
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「その汚れた手で葵ちゃんに触るなんて、許さないっ」 「…なっ」 正面からぶつけられ、悟がたじろぐ。話が見えなくなりそうで。 「中1の秋、葵ちゃんが誘拐されたのはあなたも知ってるはずだけど」 「…あ、ああ…」 肯定はしたものの、葵から直接聞いた内容が、悟が持つほとんどの情報だから、全体像が把握できているとは言い難い。 ただ、関与していたのは自分の祖母で…。 だが、葵の育ての親・栗山からは『この件については二度と蒸し返さないこと』と厳重に釘を刺されていたので自分の中でもぴったりと蓋を閉じて封印をしていたのだ。 「3日間も体中に乱暴を受けた葵ちゃんは、帰ってきたとき泥だらけだった」 その時のことを思い出したのか、司は微かに震える自分自身を抱きしめる。 「かなり気温の下がった明け方に、裸の葵ちゃんをくるんでいたのは、血がこびりついたシーツ、たった1枚だった。酷い火傷のあとをなんの手当もないまま、家の前にまるでゴミみたいに捨てられて、あと少し発見が遅れていたら、助からなかったってお医者さんは言ってた」 悟が息をのむ。 怪我は確かに酷く、その心にも大きな傷を残したが、命に障るものではなかったと聞いていたからだ。 「犯人たちは、自分の手では殺さなかったけど、死んでもかまわないと思って放置したんだっ」 「そ…んな…」 では、去年の今頃、栗山から聞いた話は…あれは…。 『傷の具合から見て、殺さない程度に傷を付けるのが目的だったのではないかという医師の所見でした』 あの言葉を鵜呑みにしていた自分の愚かさが、悔しい。 「それをやらせたのは…」 「わかってるっ!」 悟はそう叫ぶなり、耳を塞いで膝をついた。 「わかってる…。わかってるんだ……っ」 だが、司もまた悟の側に膝をつき、その手首を強引に掴むと、現れた耳にさらに言葉を継いだ。 「僕は今でも時々夢に見る。葵ちゃんが集中治療室で、背中一面をガーゼに覆われて俯せに寝てるんだ。火傷の傷からは菌が入って化膿してしまって、なかなか傷口が塞がらなくて、ガーゼを取り替えるたびに皮膚が剥がれて、葵ちゃんは涙を流すんだ。 他の何にも…お母さんの声にすら反応しないってのに、その時だけ……、痛くて痛くて…声も上げずに…泣くんだ……」 司が声を詰まらせる。 「…あなたに、…その時の葵ちゃんを…見せて、やりたかった…よ」 言葉に嗚咽が交じる。 「…知らなかった…。葵は、何も…言わなかったから…」 「当たり前だろっ。葵ちゃんは誰が自分をこんな目に遭わせたのか知ってるんだっ。知ってて言えるはずがないだろうっ」 その通りだと、悟は意識の奥の方で自覚していた。 命じたのは祖母。血の繋がった自分の…。 それを知っている葵が、本当のことを自分に話すわけがない。 「これでもうわかったでしょう? あなたには、葵ちゃんを抱きしめる資格なんて、無い」 そう告げると、司は拳で涙を拭い、楽器を抱えて出ていった。 どこをどう歩いたのだろう。 それでも5年を越える習慣のせいか、悟はいつの間にか――それも消灯点呼前に――自室に戻っていた。 大貴が何か声をかけてきたようだったが、それも定かではない。 いつ眠ったのか、いつ起きたのか、それすらもわからないまま、気がつけば夜が明けて、一日がまた始まろうとしていた。 だが、確かに眠った時間があったのだろう。 夢を見たから。 中1の頃、祖父が倒れたと、自分だけが呼び返された時のこと。 優しかった祖母の、内に潜む闇に触れた時のこと。 『ねえ、おばあさま。どうして僕だけにお迎えが来たの? 昇は?守は?』 その時の祖母の顔を、悟は今でもはっきりと覚えている。 『あらあら、悟は誰のことをいってるのかしら? 桐生家の大切な孫はあなた一人だけじゃないの、悟』 にこやかにそう告げた、柔和な表情の中で、瞳だけが暗く淀んでいたのを。 こうして悟は、昇と守の事を知った。 生まれたときからいつも一緒だった弟たちと、半年もの間、引き裂かれていたそのわけを。 「…葵…」 愛おしくて、恋しくて…小さく口にしてみるが、言った端から後悔する。 自分が口にしたせいで、葵を汚してしまったような気がして。 放課後、悟は音楽ホールで葵の姿を捉えた。 真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が綺麗すぎて、見つめ返すと葵が汚れてしまうような気がして、思わず目を、逸らした。 ☆ .。.:*・゜ 初夏の爽やかな風が吹き抜ける午後。 5時限目の授業中である聖陵学院は、静まり返った校舎とは対照的に、グラウンドで賑やかに100m走のタイムトライアルが行われていた。 だが、葵は一人、ポツンとその様子を木陰から見守っている。 ちょうど2本目のトライアルが終わって、祐介が委員長の篤人を僅差で押さえて逆転1番になったところだ。 葵も参加していれば、授業はもっと盛り上がったのだろうが、葵の瞳はぼんやりと――視線だけはクラスメイトの方を向いているのだが――どこへともなく遠くへ投げられているだけだ。 葵は、祐介と斉藤、そして担任・松山のバックアップのおかげで、かろうじて体力を維持していた。 そして、斉藤から連絡を受けていた体育教師は、葵に見学を命じたのだ。 後日もう一度タイムを計るから、今日のところは見学していなさいと言われ、葵は大人しく従った。 自分でもわかる。今日走ったところで、ろくな記録はでないだろう。それどころか、100m完走も怪しいとさえ思う。 体中のどこにも――幸いなことに、昨年来の弱点である胃にも――痛みはないけれど、その代わり、日に日に身体がいうことをきかなくなっていっている。 勉強の方は、幸い特待生でなくなったから、成績の維持に心を砕く必要もなく、授業の時間さえジッと座っていればどうとでもやり過ごせた。 だが、せめて部活でだけは無様な姿を晒したくないと思ったけれど、それでもここ数日は、フルートが急に重くなったような気がして、長い曲を吹くのは疲れるな…と感じるようになっていた。 その原因が、満足に食事がとれないせいだというのもわかってはいるのだが、どうしても喉を通らないのだ。そもそも身体が欲していない。 だから、こうして何にも考えずに木陰に座っているのは本当に楽で、できることならば、もうずっとこのままでいたいくらいで…。 そんな葵を、遠く、渡り廊下から見つけた者がいた。 5時限目が自習となった1−Aの生徒たちが、図書室からHRへと引き上げる中、司が立ち止まる。 遠目にもはっきりとわかった。木の根本に座り込んで、ぼんやりと100m走を眺めているのは誰よりもこの手で守りたいと思った姿。 よく笑うし、部活も一見精力的にこなしているように見えるが、ここしばらくのうちに急速に動作が緩慢になり、行動の端々に衰弱の影が見え隠れする葵に、司は密かに苛立ちを募らせていた。 よかれと信じての行動だったのに、もしかして、自分は間違った事をしたのではないかと。 いくら自分が側にいて慰めても、葵にはなんの力にもなっていないように思える。 それほどまでに、二人の絆は強かったというのだろうか。 そんなこと、考えたくもないけれど。 「つかさ」 穏やかにかけられた声に振り返ってみれば、そこにはとても未成年とは思えない落ち着いた微笑みで――音楽の世界ですでに大人たちと対等にやり合ってきた経験がものを言うのであろう――アニーが立っていた。 「なに見てるの?つかさ」 「ん…なんでもない」 だが、視線の先をめぐってみれば、そこには葵の姿。 「…奈月せんぱい、見学してるんだ」 「そう、みたい、だね」 知らず、声が途切れてしまう。 「やっぱり 具合わるいんだ」 その言葉に、司は驚いてアニーを見上げる。 「アニー、わかるの?」 「そりゃあわかるよ。 せんぱいの音、ここのところずっと 悲しそうだからね」 言いながら、大きな暖かい掌が司の肩を包み込んだが、その視線は葵の方を向いたまま。 「…さすがだな、アニー。そんなことまでわかるんだ…」 大人しく肩を抱かれたまま、ポツンとそう言えば、それには答えずにアニーもまた、呟くように言った。 「つかさ…。キモチはわかるけど、もうそろそろいいんじゃないか?」 抱かれた肩が強張る。 「なに…が?」 「奈月せんぱいのこと」 よもやと思ったことを簡単に言い当てられ、司は慌ててその肩を抱く暖かい手を振り解いた。 「なに? どういう意味だよっ」 だが、アニーは動じることもなく、真っ直ぐに司の目を見つめている。 「奈月せんぱいのおもいびとは、つかさじゃない。だから…」 「…なっ…。あ、アニーだって、浅井先輩に横恋慕してるじゃないかっ」 「べつに よこれんぼ じゃないよ。ゆうすけは いまFreeだ。きまった恋人はいないからね」 「…アニー…」 「ぼく、しってるんだよ。みんながいってるように、ゆうすけと奈月せんぱいは恋人どうしじゃない。あれはゆうすけの片想いだってこと」 司は言葉もなくアニーを見上げた。まさか…という思いが渦巻く。 だが、アニーはあっさりとその先を告げた。 「奈月せんぱいの本当の恋人は、悟せんぱい…」 「…ど、うして…?」 アニーは司を見下ろして、小さく笑った。 「ぼくは、赤坂せんせいとなかよしなんだよ。だから、しってる。せんせいが、奈月せんぱいのこと、目に入れてもいたくないほど かわいがってるのも、そのりゆうも、ね。そして、悟せんぱいと奈月せんぱいが、たくさんの困難をのりこえて、むすばれたっていうのもね」 アニーはもう一度、司の肩を優しく抱き寄せた。 小振りの頭がすっぽりと胸元に納まる。 「だから、つかさ。もう、ゆるしてあげようよ」 しかし、司はその言葉に大きく体を震わせ、渾身の力でアニーの身体を突っぱねた。 「アニーはなにも知らないからそんなこと言うんだっ。葵ちゃんが…葵ちゃんが、あいつのせいでどんなに酷い目に遭ったか、知らないから…っ」 瞳いっぱいに涙をためたまま、司は走り去った。 |
【6】へ続く |