第5幕への間奏曲「それでも僕は、君だけを想う」

【7】





「ほんとに、よかったです」

 司はまだ少し青ざめている。一昨夜の名残もあるのだろうか。

「僕のことより、佐倉の方がヤバイんじゃないの?」

「え?」

「ほら、一昨日の晩に大胆な寮抜けをやらかしたじゃん」


 昇はきゃらきゃらっと笑うと、足に響いたのか、ウッと顔をしかめた。


「ほら、ばか笑いするなって」

 横から守が諫めると、昇は『誰がばか笑いなんだよっ』と、素直に挑発に乗ってくる。

 昇の骨折は体育の授業中に起こったのだが、その瞬間に腕を庇ったために、あっさりと足がやられてしまったのだ。

 だが単純骨折で範囲も狭かったため、一晩だけ入院して帰校していた。ただし、一週間は保健室内にある病室泊まりを言い渡されているのだが。



「いずれにしても」

 昇が急に真顔になる。

「僕は1週間部活差し止め。幸いここで練習するのはOKって言ってもらえたから、自分の練習の心配はいらないけど、今まで以上に合奏から離れてしまうことになる。今さらだけどさ、佐倉。夏のコンサートまで、管弦楽部を頼んだよ。合奏の総責任者はコンマスなんだからね」

 その言葉に、司は改めて表情を引き締める。

 すでに、夏のコンサートでのコンサートマスター代理はほぼ決まっていて、 ただ、今の自分はこんな精神状態で、部全体を引っ張る力…いや、資格があるんだろうかと不安になる。



「どうした、佐倉。やけに不安そうだな。コンマス代理なんて、今さらだろう?」

 守がニヤッと笑う。

 そして、その言葉に司は小さく頭を振った。

「…いえ、すごく不安です。技術的なこととか、アイン・ザッツ(*)のタイミングなんかは随分先輩たちに鍛えられましたし…」

「正面に座る俺さまの完璧なサポートもあることだしな」

 茶化した守の言葉にも、司は真摯に頷いた。

「はい。…ですから、あとは自分の努力次第だと思うんですけど…」

 でも、自分の気持ちが追いつかない……とまでは言えずに言葉を切る。


「でも、気持ちがついていかない?」

 だが、あっさりと後を昇に取られ、司は落としていた視線を呆然とベッドに向けた。

「確かに、コンマスには人を引きつける力がいるからな」

 守も同調してくる。
 そして…。


「まあ、何にしても、負の感情ってのは厄介だな。ソロ奏者ならプラスになる場面もあるかも知れないが、コンマスにとってマイナスになるだろうな」

『負の感情』…その言葉が、あまりにも今の自分の内面を映していて、司は酷く狼狽える。


「僕らの合奏は信頼関係の上に成り立っているからね。それがなければ、僕らの合奏は聖陵の音楽ではなくなる。つまり…」

 ベッドに腰かけた昇が、今までにない真剣さで司を見上げた。瞳の蒼が一層濃い。


「僕たちコンサートマスターは、いつでもすべての部員に心を開いていなくてはいけないんだ。プロの楽団なら別だけど、僕らは6年か3年…そんな短い期間だけ一緒に演奏することが出来る、本当に期間限定のオケだ。 同じ曲を同じメンバーで2度3度と本番に乗せることはまずない、『今』だけの音楽なんだ。 そして、みんなその『今だけ』にかけている。その中心にいるコンマスなんだ、どれほどのことを要求されているのか、佐倉にはわかるだろう?」


 わかっているつもり…だが、こればかりは頭だけ理解していても意味がない。

 だから、わかっています…とはとても言えなくて…。


「それとも何か? ここへは葵を追っかけてきただけだから、管弦楽部のことなんて、どうでもいいか?」

 答えに窮する司の、いきなりど真ん中を突く。

 しかし、突いた本人――守は、その言葉とは裏腹に優しく笑っていた。


「まあ、別にその動機に関してとやかく言うつもりはないさ。そんな情熱的なヤツ、俺は好きだし、それくらいの気概がないと60人ものオケを担いで走ることなんてできないからな。現にこいつなんて…」

 いいながら、クイッと親指で昇を指す。

「自分の恋愛感情に行き詰まって、葵まで襲いやがったんだからな」
「ええっ?!」

 驚いた司が、現状を忘れて大声を上げる。

「ああ、気にしない気にしない、ちょっとした暴走。昔の話だからさ」

 気にするなと言われても、葵の話だ、そうはいかない。もしかして、彼らが兄弟だとわかる以前の話なのだろうか。
 司は忙しなく考えを巡らせるが、だが、葵の二人の兄たちは、本当に気にしてない様子だ。

 そして。

「だがな」

 ふいに守の言葉が真剣みを帯びる。

「何を悩んでいようが、どんな状況にあろうが、俺たちは音を出した瞬間から真剣勝負だ。それだけは忘れるな」

 責めるではない、諭すような口調。

 司の頬をついに涙が滑り落ちた。


「ご、ごめんなさい…っ」

 何に対しての謝罪なのか。

「何だよ、佐倉ってば、ほんとにマジでどうでもよかったわけ〜?」

 呆れた口調ながらも、昇の声も柔らかい。

「ち、違うんですっ。ぼ、僕も、一生懸命…っ…ひっくっ」

 情けないことに、まるで赤ん坊のようにしゃくり上げてしまう。

「はいはい、落ち着いて」

 守が背を叩く。

「でもっ、僕っ、僕…っ、どうしても悟先輩が許せなくて…っ」


 本当に聞きたかったこと――司の本音が見えた。


 昇と守は思わず視線を合わせる。

 静かに周囲を巻き込んで、いつの間にか底なしの泥沼に陥っていた葵と悟。

 どうにも説明のつかないその奇妙なすれ違いに気づいたとき、その原因が実は司にあるのではないかと感づいたのは、そう早い段階ではなかった。

 司は二人の前では完璧にいい子を演じていたのだから。

 いや、今でも昇と守は信じている。自分たちに見せていたのが、本当の司の姿なのだと。


 やがて司は途切れ途切れに語り始めた。

 あの時の、思い出すだけでも悔しい、葵の真実を。


 そして、そのあまりに凄惨な事実に、二人の兄は言葉を無くした。



                   ☆ .。.:*・゜



 窓から射していた光はすっかり姿を消していた。

 代わりに辺りを覆うのは夕闇。そして、遠くからは部活から引き上げて寮へ帰っていく生徒たちの声。



 3人はどれほど沈黙していただろうか。
 
 やがて司が告げた。
 自分がしかけた罠――悟と葵の歯車を狂わせた、真相を。



「どれだけ葵ちゃんが苦しんだかも知らずに、のうのうとその手に葵ちゃんを抱きしめているなんて、僕にはどうしても、許せなかったんです…。しかも…」

「黒幕が誰か知っているのに…ってか」

 守が深く息をついた。

 その隣で、昇がポツンと呟く

「僕らも…あの人は…怖かった」

 その声が震えているの気づき、守がギュッと肩を抱きよせる。
 だが、話をやめさせようとする気配はない。


「僕と守がここへ入ったのも…、あの人の、虐待、から…逃れるため…だった」

「…先輩…」 

 まさかの思いに、司の瞳が大きく開かれる。

 だが、昇はそこから先を話さない。いや、これ以上はもう喉を通らないのだ。

 そして、守がその身体を抱きしめたまま、後を繋ぐ。


「俺たちがそう言う目に遭っていたって事、悟は知らなかった。俺たちが言わなかったからだ。言えば悟が傷つくと思った。けれど、隠していた事が、かえって悟の傷を深くしちまった」

 守は真っ直ぐに司を見据えた。

「それがわかったとき、悟は…俺たちにすら気づかせないほど静かに心を閉ざした。自分を責めて、責めて…」


「悟先輩が…」

 答える司の声も、昇と変わりないほど震えている。

「そんな……」


 入学してきたとき、管弦楽部の頂点に君臨する自信にあふれたその姿に激しい嫌悪を覚えた。

 何の痛みも知らないように見えて。
 傷ついたことなど、一度もないように見えて。

 だから、一層憎しみを募らせた。


「そんな悟の心を開いたのが葵だった。葵によって、悟も、そして俺たちも救われたんだ」





『わかってるっ!』

 そう叫んだ悟の姿が司の脳裏を過ぎった。

『わかってる…。わかってるんだ……っ』





「僕らは身体と心に傷を負った。悟は心に傷を負った。でも、身体が傷つかなかった分、悟の心の傷は、僕らのそれより深かったと思ってる」


 昇の言葉に司は、誰もが傷ついていたのだと、漸く知る。


「佐倉。お前だって本当はわかってるんだろう? 悪いのは悟じゃないって事」

 守が優しく告げた。


 もしかすると、この言葉をずっと待っていたのかもしれない。

 誰かがそう言って、濁ってしまった司の視界を明るく照らしてくれるのを…。



 「ずっとずっと…葵ちゃんが好きだった…。チビの頃からずっと…葵ちゃんを守るのは僕だと決めていたのに…。でも、僕はあの事件の時、葵ちゃんを守れなかった。…だからこれからは…ずっとずっと守っていこうと思っていた……だから、だから…っ」


 止めどなく涙を零す司を、守が優しく抱きしめる。

 昇もまた、同じ楽器を扱うその温かい手で、司の手を握りしめていた。



                   ☆ .。.:*・゜



『…ぱい』


『さと…せんぱ』


「悟、先輩?」



 いきなり現実が拓けた。

「…あ、ああ、ごめん。何?」


 いつの間にかぼんやりしてしまっていたらしい。

 珠生に何度か声をかけられて、漸く悟は今自分が何をしているのかを思い出す。

 いつもと同じ、珠生とのマンツーマンのレッスン。

 そして、そんな悟を、珠生もまた、不安げに見上げていて…。 

 悟はどんなときも、とても熱心に指導をしてくれる。

 その集中力はすさまじくて、指導を受けている立場でも、そのペースに巻き込まれていつの間にか音の渦の中に集中して身をおいている。

 だから、珠生は悟の指導が大好きで、そして…。




 でも、悟先輩の目が見ているのはただの『珠生』じゃなくて、『ホルン奏者の宮階珠生』。



 いつしか珠生はそんな事を考えるようになっていた。

 そして、その声が優しく『珠生』と呼ぶように、その瞳にも『珠生』を映して欲しい…と。



 僕も、奈月先輩のように綺麗だったら、悟先輩に見つめてもらえるんだろうか…。



 いつだったかのミーティングのあと、呼び止められて間近で見た葵の顔は、それは綺麗だった。

 それこそ、ため息と共に賞賛してもいいくらいに。


『僕も、先輩みたいに綺麗だったらなぁ…。そしたら…』


 思わずそう零してしまった珠生に葵は少し驚いた顔――それも恐ろしいほど可愛いのだが――をして見せたあと、ニッコリと微笑んでくれた。

 僕もあんな風に笑えたら…。
 僕もあんな風に演奏できたら…。

 そしたら、そしたら、悟先輩は僕だけを見つめてくれるんだろうか?

 悟の顔を思い浮かべると、泣きたいくらい、身体が震えた。
 悟の声を思い出すと、息が止まるほど、胸が疼いた。

 こんなにも、こんなにも…。


                      ♪


 葵との距離はいつの間にか取り返しがつかないほどに空いてしまった。

 悟は漸く気がついていた。自分が葵の姿を直視出来ないでいる間に、葵もまた、悟の視界から消えてしまっていたことに。 

 このままだと、自分は葵に捨てられてしまう。

 けれど糸口は未だに見つからない。

 自分は何処へ行けばいいのか。


 葵…。
 それでも僕は、君だけを想う。





「悟先輩」

 見上げてくる小さな後輩の愛くるしい瞳。

 自分を信頼しきっているその瞳に、悟はもう一度決意する。

 まず結果を出す――珠生を聖陵学院管弦楽部に相応しい首席奏者に育てる。

 そして、葵に一歩でも近づこう。

 一歩一歩近づいて、いつか、堂々とこの腕に抱けるように。

 葵の何もかもを受け止めて、すべてを包んで、もう、誰からも傷つけられないように。

 この手で、守る。



「悟先輩…」

「ん? どうした、珠生」

「僕…先輩が好きです。大好きです」

 瞳の色が変わった。情熱的に。


「僕を先輩の恋人にして下さい」





 それでも僕は、君だけを想う。

 いつまでも。


END

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〜桃の国的雑学の泉(笑)〜
*アイン・ザッツ
演奏の出だしのこと。
オケの場合、コンマスが身体で合図を送ることが多い。