第5幕「Finale.Allegro vivacissimo」

【1】





 昇が骨折したという第一報を聞いたとき――同時に『命に関わるような怪我ではない』とも聞きはしたけれど――僕は本当に言葉をなくした。

 もちろん僕だけじゃない。管弦楽部の全員が、青ざめた。

 でも、その骨折が腕ではなくて足で、しかも骨だけがきれいに――って言うと、ちょっと語弊があるけど――折れた単純骨折で、周囲の組織や血管をまったく傷つけずに済んだため、当初1週間の予定だった入院を、わずか1泊2日で切り上げて学校に帰ってきた時には、みんなで思わず抱き合って喜んだ。

 まさに不幸中の幸い。

 だって、もしこの怪我が指や腕、肩とかだったり、足にしても、ややこしい骨折で手術だとか長期間入院だとかになれば、夏のコンサートに向けた今までの昇の努力が水の泡になってしまうから。

 それにしても、咄嗟に腕を庇って足を骨折だなんて、ほんとヴァイオリニストらしいというか、あっぱれと言うか…。

 下級生たちは、『さすがコンマス』…なんて感激してたっけ。



 そうして怪我の翌日には学校へ戻ってきた昇だけど、1週間は保健室の病室泊まりで、もちろん毎日校医の先生の診察付き。

 今日から2日間は安静で、3日目からは登校OKなんだそうだけれど、なんと教室への送り迎えは斉藤先生の「抱っこ」らしいんだ。

 しかも「おんぶ」より「抱っこ」の方がいいって言ったのは昇だそうで、僕はそれを聞いて、安心しながらも脱力しちゃったり、よく光安先生が許したなぁなんて密かに思ったり…。

 そうそう、昇のクラスの力自慢たちが、じゃんけんで『抱っこ当番』を決めるとか言う話がでたり、院長先生までもが『抱っこ』に立候補してきたらしいんだけど、前者は『クラスの秩序を守る』ため、後者は昇が『院長センセ、ぎっくり腰になったら大変じゃん』って、あろうことか本人に向かって言ったとかで、ポシャったらしい。そう言う問題じゃないと思うんだけど。

 それこそ光安先生が許すはずないもんね。…って、そんな問題でもないか。


 ま、そんなこんなで、僕は病院へお見舞いに行く間もなかったので、斉藤先生に許可をもらって――先生は僕たちの事情を知ってるから、すぐにOKが出た――夕食後に昇の病室を一人で訪ねたんだ。

 ここ、校内の病室には、僕も最近では2日と明けずに連行されて点滴を受けているから、すっかりお馴染みさんになっちゃって、それも困りもので。

 でもここは斉藤先生の監視下にあるから、かえって外の病院に入院しているよりも面会は制限されてキビシイ。

 だから昇は酷く退屈してるだろうと思ったら…。

 なんてことはない、先生がいた。もちろん、光安先生だ。

 きっと部活と授業以外はここにいるんじゃないだろうかってノリで、すっかり一部と化している。

「よう、来たな、葵」
「先生、もしかして部活が終わった瞬間からここにいるんじゃないですか?」

 僕がそう言って、クスクス笑うと、先生は『そうでもないぞ。一度は準備室に戻ったからな』…な〜んて、真顔で答えるし。

 でも、絶対晩ご飯はここで一緒に食べたに決まってるんだ。
 ほんと、ラブラブなんだから〜。



「さて、じゃあ引き上げるとするか」

 え?

「先生、帰っちゃうの? 僕は別に…」

 腰を上げた先生をそう言って引き留めると、先生は僕の頭をパフパフと撫でた。

「いや、いいんだ。な、昇。葵に大切な話があるんだろう?」
「うん」
「でも、昇…」

 あっさりと頷いた昇に、僕の方が慌てると、昇は悪戯小僧の笑いを浮かべて言い切った。

「大丈夫、放っておいてもまた夜中に現れるから」
「…おい」
「え…」

 …そ、それって……。

「こら、葵、真に受けるな」

 目を泳がせる僕の鼻を先生がつまんだ。

「ふえ〜」

 そんな僕をひとしきり笑った後、昇はやけに真面目な声で言った。

「あ、直人。悪いけど、守も呼んでくれない?」
「ああ、わかった」


 そう答えて先生はあっさりと出ていったんだけど…。

 怪我の状態とか、怪我したときの状況とか、色々と聞いているうちに、ほんとに、すぐに守もやって来た。

 3人でゆっくり話すのは久しぶり。

 いつもなら、ここに悟もいるはずなんだけど…。


「こら、葵。何を黄昏てる」

 笑いながら守が僕を引き寄せた。

 そして、僕ごと昇のベッドに腰かける。

 僕はあっさりと守の膝の上に横抱きされてしまって…。


「守〜。膝が痺れちゃうよ」
「どうして?」
「だって、重いでしょ?」

 僕は真面目に言ったのに、守ってば、大笑いしたんだ。

「あのな、葵。正直言うけどさ、お前、俺が今まで抱っこしてきた子猫ちゃんの誰よりも一番軽いぞ」

「え。うそ」

「嘘なもんか。お前、ちゃんと食ってないだろ」

 …守にもばれた…。どうしよう…。でも、食べたくても食べられないんだよ…ほんとに。

 そう思って狼狽えてると、昇が手を伸ばしてきて、僕の頬に触れた。

「顔色も悪いし」

 …昇にも…。

「葵、ここのところ、点滴で持ってるようなもんだろ?」

 …そんなことまで。

 僕が何も答えられないでいると、昇も守も、仕方ないな…って感じでため息をつく。

 そして僕は、またしても心配を掛けてしまったことに、申し訳なさをいっぱいに感じていて…。



「でも、今回、僕らは黙ってみてるしかなかった」

 やがて、ポツンと昇が言った。

「悟とのすれ違いが解消できてなくて、しかもこじれ始めてるらしい…ってことはわかってたんだ。だけど…」

 昇が守を見ると、守が頷いて後を続ける。

「葵はこうみえて結構頑固だからな。こうと決めたら絶対弱みを見せないだろう?」

「そう、だから今度ばかりは浅井と斉藤先生に任せたんだ。僕らも、直人も、ね」

「ここまでこじれちまったら、悟に近い俺たちが手を出すと、葵はますます悟の事を意識して自分を追いつめてしまうだろうしな」

 …ばれてたんだ。僕が悟の視界を避けていたこと…。


「ただ、途中から何かおかしいとは思っていたんだ」

 どういう、こと?
 でも、二人を見ると、どちらも優しく微笑んでいた。

「多分、今日中にでも佐倉が葵に話があるっていってくるよ」
「司が?」

 突然の司の名に、僕は話を見失う。

 けれど、そんな僕を、あやすように、宥めるように、二人は静かな声で言った。

「葵、心配いらないよ。悟の心はずっと葵のものだから」
「昇…」

「そうさ、葵の心が悟のものなのと一緒さ、ずっとな」
「守…」

 …でも…。悟は僕のことを……。

「だからもう少し見守ってやってくれないか?」

「え?」

「珠生のことだ。今、悟が躍起になって珠生のマンツーマンやってるのは、管弦楽部のためだけじゃない。悟自身のためでもあるんだ」

「…どういう、こと?」

 けれど、僕の問いに、二人は答えをくれない。

「これは、悟が誰の力も借りずに、一人で乗り越えないとダメなことなんだ。だから…」

 昇が僕の手を取った。

「悟を信じて、待っていて」



                   ☆ .。.:*・゜



 昇に『おやすみ』と『無茶しちゃダメだよ』といって――そう言ったら『葵に言われるなんてなぁ』って笑われたけど――保健室をあとにして、守と寮へ向かう途中。

 音楽ホールの脇を抜けたところに、司が立っていた。


「葵ちゃん…」
「よ、現れたな、佐倉」

 僕より先に守がそう言って司の側による。

「大丈夫か?」
「はい。守先輩、ご心配おかけしました」

 見上げる司は、なんだかやけに大人びた顔つきをしていて。

「じゃあな、ゆっくり話してこい。ただし、消灯に遅れるなよ」

 …それ、守にだけは言われたくないんだけど…。

 でも、そんな守の『消灯破り常連』の実態をまだ知らない司は、真面目に『はい!』なんて返事しちゃってるし。

 片手を後ろ手にひらひら振りながら、寮への坂道…って、そっち寮じゃないじゃん。まったくもう。

 とにかく――何処へ行くのか知らないけれど――去っていく守を見送ると、司は僕に向き直り、切なげな声で言った。


「葵ちゃん、聞いて欲しいことがあるんや。練習室につき合うてくれへん?」

 それは、ここしばらく聞いてなかった、司の柔らかい京言葉。だから僕も…。

「うん。かまへんよ。行こ」

 それにしても、司、目が赤い…。泣いたんだろうか? まさか、…司が?



 もうすぐ中間テストの準備期間に入るから、練習室の埋まり具合は本当にまばらだった。

 たくさん空いている部屋の中で――練習に使う訳じゃないからちょっと遠慮して――、一番小さな部屋を選んで、司はホワイトボードに『Fl.奈月、1stVn.佐倉』と書いた。

 ちらっと見たけれど、悟の名前はない。いつもいる、練習室1も、今日は空欄になっている。

 そのことに、少しほっとして、でもかなりがっかりして……――会えるわけでもないのに。

 重い防音扉を閉めるなり、司は僕の手を取った。


「葵ちゃん、こないに細うなってしもて…」

 今にも泣き出しそうな声。

「つかさ…」

 どうしたの?

 あまりにもらしくない様子の司に、僕はとても不安を覚えて、『何かあったの?』って聞こうとしたとき…。

「…ごめんな…僕のせい、やね」

 僕の手を見つめたまま、司はポツリと言った。

 けれど、それは僕にとってはまったく意味不明の言葉。


「僕が、葵ちゃんと……悟先輩を、追いつめた……」


 それは、司の辛くて長い、懺悔……だった。


【2】へ続く

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