第5幕「Finale.Allegro vivacissimo」

【2】





「ほんまにあほやな、僕…。こんなことして…かえって葵ちゃんを傷つけて、困らせてしもた…」


 2度繰り返された『キャンセル』。

『用事が出来て会えなくなった』という伝言は、僕と悟の両方に、自分が伝えていたものだったのだと、司は僕に正直に話した。

 悟が『いつでも会いに来て』と書いたメモを捨ててしまったことも。


「謝っても許されることと違うんやけど…それでも、ごめんって言うしかなくて…」 

 そう言って項垂れた司の足元に、ポツ、ポツ…と涙が落ちた。

 そんな司に、僕は『どうしてそんなことを…』とは聞けなかった。

 それはきっと――気づかない振りをしてきたけれど――僕の中のどこかで、司の熱い眼差しに気がついていたから…なのだと思う。


「司…」

 だから、どう声を掛けていいかわからない僕は、ただ、司の肩をこの掌でそっと包むしかなくて。

 けれど、漸く顔を上げた司は、また驚く告白をしてくれた。

「あのな…悟先輩には、2回目の嘘でばれてるんや…」

 え…。

「じゃあ、なんで悟は…」

 悟は僕に何も言ってこなかったんだろう。しかも…あの次の日、悟は僕から目を逸らして…。


「…葵ちゃん、『あの時』のこと……ほんとのこと、悟先輩に言うてへんかったやろ?」

 あの時の、本当のこと……それがなんのことを指すのか、もちろん僕にはわかってはいるんだけど。


「…司…それ、悟に言うたの?」


 いつまでも、何処までも続く暗闇と、あの……いっそ、このまま……と何度も願わずにはいられなかったほどの、痛みを…。悟に…? 

 司は、僕の目をジッと見て、頷いた。


 …ああ…、どうしよう。悟、きっと傷ついている…。

 …もしかして、だから、あの時目を逸らした…?


 昇と守のことを知って、その心を閉ざしてしまったように、悟…僕にも心を閉ざしてしまうの…?


 思わず噛んでしまった唇を、司が親指でそっとなぞった。

「葵ちゃん、僕、悟先輩にも謝りに行って来た」
「つかさ…」
「そしたらなあ、悟先輩ってば何て言うたと思う?」

 尋ねられて、僕は緩く頭を振る。
 思いつかない…と言うよりは、思いつきたくないと言う気持ち。

 ふと、司の表情が弛んだ。

「『教えてもらってよかったんだ』…やて。『知らずに済ませられる事じゃなかったんだから』…なんて…。敵わへんなと思った。だって、僕やったら絶対許せへんよ、こんな嫌なヤツ…」

 泣き笑いのような司の表情が…、

「あとな、悟先輩、熱烈に告白してくれたで。『僕は絶対に葵を手放さない…いや、手放せないんだ。だから、今はダメでも、いつか必ず、自分の力で葵に向き合ってみせるから』って」

 …照れたような微笑みに変わる。

「ほんま、スゴイ人やと思た。葵ちゃん、オトコを見る目、あるわ」

 悟…。

 ジワッと胸の中に、暖かいものが広がる感じ。

 それでも悟は僕を…想い続けていてくれる…。

 つい数時間前に、昇と守が僕に言い聞かせてくれたことが、蘇った。


『悟の心はずっと葵のものだから』
『葵の心が悟のものなのと一緒さ、ずっとな』


 こういうこと…だったんだ。


「ありがとう、司」
「…葵ちゃん…」

 僕の言葉に、司は心底驚いたように、目を丸くした。 


 ずっと僕を想っていてくれたことに、ありがとう。
 僕のために心を痛めていてくれたことに、ありがとう。
 そして、何もかも話してくれたことに…ありがとう。


 それらの一つ一つを、僕は口にはしないけれど、

「ありがとう」

 もう一度そういって抱きしめた司の身体は小さく震えていて、それでも力強く抱き返してきた腕に、僕は、僕の気持ちが十分に伝わったことを知る。


「…葵ちゃん、僕こそ、ありがとう…」

 そう言うと、司は僕の肩に額を当てて、もう一度だけ、静かに泣いた。



 1年会わなかった間に、僕よりも少し大きくなった司。

 でも、その一途な心と負けん気は変わらなくて。

 僕は、こんな素敵な幼なじみに恵まれたことを、本当に幸せだと思いながら、司の涙が止まるまでジッと抱きしめられていた。





 消灯点呼まであと30分。

 司は、抱きしめていた僕の身体をそっと離し、ふと思い出したように言った。


「でもなあ、不思議なことに、赤坂良昭って人を憎いて思うたことないんやなあ。テレビでみたことしかあらへんし、あんまり遠い存在すぎて現実感がないからかなぁ。…でも」

「でも?」

「あの人と、綾乃姉さんが出会うてへんかったら、葵ちゃん生まれてへんのやもん。そら、憎めるわけないわな」 

 でも、そのとばっちりが悟先輩に行っちゃったかな……と呟いて、続く言葉は独白のように落ちた。

「悪いのは、悟先輩やなくて、お祖母さんやのにな…」

 自分に言い聞かせるように。


 そんな司の伏せられた視線を、僕はその頬に手を当てることでこちらを向かせた。

「…司、それも違うよ」

「…葵ちゃん?」

「…そりゃあ、あれは犯罪やと思うよ。 何も知らずに生まれてきた僕にとっては、とんでもない災難やったけど……。 でもな、あの事件がなかったら、僕は、音楽に目を向けるきっかけを持たなかった。 生まれて育ってきたそのまま、ずっと狭い祇園の中で生きていくことをなんの疑いもなく選んでいて、そして、ここへ来ることもなかった」

 ジッと見つめてくる司の瞳に映っている僕は、結構落ち着いた顔をしていて。

「兄たちに巡り会うことも、本当の父親を知ることもなかった。多分、永遠に」

 それはきっと…、

「だから、今の僕にとっては、この傷すら、悟と僕を繋ぐ大切なもの…なんだ」

 今、ここにいることの出来る自分を、とてもとても、幸せだと思っているから。


 司は小さく、うん…と頷いた。

 そして…。

「な、葵ちゃん。今から悟先輩のところへ行かへん?」

 僕の手を握って司はそう言うんだけれど、今の僕には、その手を取って『うん、行こう!』と言うことは出来なくて…。

 そんな僕をちょっと不審そうに見て、司はもう一度『な?』って誘う。

 でもやっぱり僕は、首を縦には振れなくて。

「どうして?」

 その声には『全部話したのになぜ?』って疑問が含まれている。

「言われたんだ、昇と守に。悟が一人で乗り越えなきゃいけないことだから、信じて待っていてって」

 でも、僕にはそれが何を意味するのか、今ひとつよくわからなくて――ううん、わからない振りでいるのかもしれない。

 だって、それは、もう一つの僕の不安。

 悟とのすれ違いの正体が分かった今、その『もう一つの不安』はやけに現実的で、具体的な事象を伴って僕の奥底に居座る。

 
 また僕は不安そうな顔をしたんだろうか。司もまた、少し不安げに僕を見つめてから、突然『あ!』っと小さな声を上げた。

「それってきっと、珠生の事やね。先輩、珠生を合奏に戻すために一生懸命やから」

 …やっぱりそうなんだ。

 宮階珠生くん。可愛くていつも一生懸命な、僕たちの大切な後輩。


「もしかして葵ちゃん、珠生のこと、気になってる?」

 こんな時も、司は相変わらずはっきりしていて。

 でも、頷いてしまうと、それこそ僕の中の醜い感情が司の前に噴き出してしまいそうで、どうしても頷くことができない。

 本当は、気になって気になって…どうしようもないほどなのに。

 だって、『約束のキャンセル』は悟の意志ではなかったってわかったけれど、二人でずっとオーディオルームに籠もっていたって話も、日曜日に二人で外出して門限ぎりぎりに帰ってきたって話も、それから、あの夜宮階くんが悟の部屋で一晩過ごしていたって話も、噂ではなくて全部本当だったって、今の僕は知っているから…。

 でもその一つ一つを問いただす事なんて僕には出来ない。

 でも今夜悟に会ってしまったら、僕は聞かずにはいられなくなる。

 どうして?…と。

 そして、

『他の子を見ないで。僕だけを見ていて』

 …そんな、とてつもない我が儘を口走ってしまいそうで…。

 悟は今、自分の成すべき事を精一杯やってるっていうのに…。
 そんな悟の負担には、絶対ならないと、心に決めているのに…。



「葵ちゃん、あのな…」

 司がバツの悪そうな顔になる。

「…もう一つ、大事なこと、忘れてた」

「…なに?」

「合宿の初日に珠生が悟先輩の部屋にいたって話。あれな、実は珠生を助けたのは佐伯先輩なんや」

「…え?」

「で、佐伯先輩が、珠生を取り囲んだっていう柔道部の連中にヤキ入れにいってる間、動揺してる珠生を悟先輩に預けた…って言うのがほんと。 佐伯先輩、『他の誰よりも悟に預けるのが一番安心だから』って。『悟だけは泣き顔の珠生を見ても狼にならないからな』なんてのも言ってたっけ」

「つかさ…」

 …たった一つ、絡みついた心配事の糸がほぐれただけで、僕はこんなにも心を軽くして…。


 そんな僕の内を察したのか、司はいつものいたずらっ子のような笑みを浮かべて僕の肩を抱いた。

「先輩、『狼に変身しない男ってのも、どうかと思うけどな』って笑ってたけどね」

 佐伯先輩が、狼になりすぎなんだってば…。

 僕は、泣いてるのか笑ってるのかわからない――複雑な顔をしながら、心の中でしっかり突っ込んでいた。


【3】へ続く

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