第5幕「Finale.Allegro vivacissimo」

【3】





「お帰り、葵」

 部屋に戻ると、中間テストに備えて机に向かっていた祐介が、穏やかな笑顔で振り向いた。

「ただいま」
「昇先輩、どうだった?」
「うん、元気だった。消灯まではベッドの上で練習できるらしよ」


 ここしばらくの間、表向きこそ僕は周囲に気を配って、HRでも部活でも精力的に活動しているように見せていたけれど、実際のところ、やっぱり自分の状態を保つことで精一杯で、どれだけ祐介が僕に気を付けていてくれたのかってことが全然わかってなかった。

 昇と守に聞いたんだ。

 祐介がずっと僕を見守っていてくれて、だからこそ、斉藤先生や翼ちゃん――松山先生があんなにもいいタイミングで僕を助けあげてくれたんだってこと。

 あのままだったら、僕はまた倒れて、みんなにもっと心配をかけてしまうところだったんだ。



「そっか、よかった」

 緊張を解いた息をついて、祐介はまた、広げたノートに視線を戻そうとしたんだけれど…。

「祐介…」
「なに?」

 僕は静かに歩み寄る。
 祐介の元へ。

 椅子に座ったまま僕を見上げる祐介の瞳は、いつもにまして穏やかで。


「ありがと…」

 そう言うと、祐介はちょっと肩を竦めて見せた。そして笑った。

「なんのこと?……っていいたいところだけど、ちょっと顔色がよくなってるのに免じて、素直に『どういたしまして』って言っておくことにするよ」
「うん」

「いいか、明日からちゃんと食べるんだぞ」
「うん…」

「それと、しっかり寝ること」
「うん……」

「あと、斉藤先生と翼ちゃんにも報告すること」
「うん………」

「こら、泣くなってば」
「…………うん」


 何度言っても言いきれないほど、ありがとうって言いたいんだけど、僕はもう、ただ頷くことしかできなくて。

 でもそんな僕の背中を、祐介は温かい手でずっと撫でていてくれた。



 その夜から僕はかなり眠れるようになった。

 やっぱり寝付きはよくないんだけど、眠ってしまえればこっちのもの。朝まで眠れる。

 食欲も結構戻った。

 でも、祐介に言わせると『まだまだ』だとかで、三食で足りない分をミルクやおやつタイプの栄養補助食品で補給すべく、時間が空くたびにせっせと運んできてくれる。『やっぱり栄養は口からとるのが一番だからな』ってことらしい。



 で、そんな中、変わらないことと言えば…。

 相変わらず僕は、悟の視界に入らないように気を付けている。

 校舎でも、寮食でも学食でも、ホールでも…。

 だって、悟の心を乱したくないから。



 そんなこんなでどうにか中間テストを特に何事もなく――司が『勉強頑張るのやめた。これからは管弦楽部一筋!』とかなんとか言い出して、いきなり順位を5つも下げてしまって、光安先生からお小言を食らった以外は――やり過ごし、器楽奏者にとっては『湿気で楽器の鳴りが悪くなる』という一番嬉しくない季節…梅雨もまっただ中の頃、ついに宮階くんが合奏に戻ってくる時がやって来た。


 夏のコンサート本番まであと1ヶ月と少し。

 今、メインメンバーはチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトを中心に練習に励んでいて、これから先は、オケの合奏を主に、そして7月に入ればソリスト――昇も合流して最後の仕上げに入るというスケジュール。

 だから、宮階くんが戻ってくるとしたら、まさにこのタイミングがラストチャンスと言うわけで。

 それに、彼はコンサートの第一部で、ソロを吹くことも決まっているらしいし――伴奏はやっぱり悟だと聞いて、それだけでまた内心穏やかでなくなってしまうダメな僕なんだけど――忙しさは人の倍以上になるんだから。





「珠生〜!お帰り〜!!」

 高1のメインメンバーたち、そしてホルンのメンバーが、久しぶりに大ホールの舞台にやってきた宮階くんに、口々に話しかける。

 もちろん、先輩たちも『待ってたぞ』とか『楽しみだな』なんて、肩を叩きながら復帰を歓迎している。

 そんな中、宮階くんはかなり照れくさそうに返事をしながら、小柄な身体に大きなホルンを抱えて定位置に向かっている。

 ホルンの席は僕の左後方。オーボエとファゴットの向こうだから、結構席は離れている。

 でも、宮階くんは雛壇に上がるとき、ちらっと僕を見た。

 そして、目があった瞬間、小さく頭を下げた。かなり神妙な顔つきで。

 けれど僕にはその意味がよくわからなくて…。

 ただの先輩への挨拶なのか、管楽器のリーダーに対する礼儀のつもりなのか、それとも……。


 僕が楽器を抱えたまま固まっていると、左隣でアニーがチューニングのAを鳴らし始めた。


 司が――最近コンマスぶりが妙に板に付いてきて、なんだか可笑しいんだけど――立ち上がってその音を拾う。

 そして、司が軽く頷くと、管弦一斉にチューニング音が鳴る。

 若干低く入ってるファゴットに、司が軽く『高めに』と合図を送る。ホルンは…やっぱり完璧な音程で入っている。

 チューニングは、以前の宮階くんも完璧だったけれど、問題は、音楽が始まってから…。

 スッとチューニング音が途切れ、舞台上が、60人強の部員が乗っているとは思えないほどの静けさに包まれる。

 客席から光安先生がやって来て…。


 …後ろにいるのは…悟!
 悟だ…。

 客席の照明は落ちているから、その表情まではまったくわからないけれど、でも、あれは確かに悟で…。

 …って、そうだよね。

 悟は宮階くんの様子をジッと見守るつもりなんだ。

 二人が頑張ってきたこの2ヶ月余りの成果を、その目で確かめるために…。

 僕はもう、悟の気持ちに疑いは持っていない。信じてる。

 でも…それでも、素直で可愛らしい宮階くんの存在は、僕にとってはやっぱり脅威で…。



 先生が指揮台に立った。

 これからソリストを迎えるまでの合奏練習に対する注意が2、3あって、『1楽章から』と告げられる。

 …もう、何も考えられない。

 これから先はただ、二人の努力が実を結ぶことを祈って、僕は僕に与えられている役割を精一杯こなすだけ。


 先生のタクトが、曲の始まりを告げた。



                   ☆ .。.:*・゜



「俺、感動しちゃったよ」
「史上最強のホルン奏者誕生って感じだな」
「それにしても、やっぱり悟先輩ってただもんじゃねえよな」
「あの状態だった宮階をここまでもってくるんだもんなぁ」


 2時間みっちり行われた合奏が終わったあと、舞台を降りるメンバーが口々に語り合うのはもちろん、悟と宮階くんの話。

 宮階くんは、そう…生まれ変わっていた。

 当の宮階くんは舞台の隅っこでみんなに取り囲まれていて、男子学生らしい荒っぽい――けれど心のこもった祝福を受けている。


「みやがいパパが 泣いてよろこびそうだね」

 僕の左隣で楽器を片づけながらそう言ったのは、アニー。

「なにしろパパは、自分が甘やかしたせいで たまきをダメにした…っておちこんでいたから」

「…そうなんだ」

 僕も楽器を拭きながら、答える。

「だから、パーティにかこつけて、さとるせんぱいをうちまでよびつけて おねがいしまくったらしいよ。『うちのたまきをよろしくたのむ』って」

 顔を上げた僕に、アニーはパチンと音がしそうなほどのウィンクを向けた。

 え…? それって…。

「ほら、4月の日ようびに、さとるせんぱいとたまきが外出して、門限ぎりぎりまで かえってこなかった…って、かきゅうせいたちがわだいにしてたでしょ? あれのこと」

 ああ…そうだったんだ…。

「だってほら、さとるせんぱいは パパの初恋の人の むすこさんだから」

 何も言えずにいる僕に、アニーはそう言ってまた、微笑んだ。


「葵、来たぞ、ほら」

 今度は右隣から祐介の声がかかった。

 視線で示された方を見ると、楽器を抱えたままの宮階くんが、真っ直ぐにこちらに向かって来ている。

「先に行ってるからな」

 祐介はそう言って、僕の肩をポンと一つ叩いて席を立つ。アニーもそれに続いて、いつしか人の波が引いた舞台の上には、僕と宮階くん、そして、客席の遠くに数人の生徒がいるくらいで…。





「奈月先輩。いろいろとご心配おかけしてすみませんでした」

 正面に立ち、僕を真っ直ぐに見つめる目。

「演奏、すごく良くなったね」

 僕は合奏中に感じたことをそのまま素直に言った。

 悟…ここまで宮階くんを引っ張れるなんて、やっぱりすごい…。
 そして、それについていった宮階くんも。


「ありがとうございます」

 そう言って少しはにかんだ微笑みを見せた宮階くんは、ふと真顔になってまた僕をジッと見つめた。


「これもみんな、悟先輩のおかげなんです」

 瞬間、鷲掴みにされたような僕の心臓。

「先輩は、どう演奏すればいいか…ではなくて、どう演奏したいか…を引き出して下さったんです」

 …それを…僕に聞かせるの?

「そして、表現するっていうことを、技術や方法だけでなくて、いろんな事から教えてくれました」

 悟の、君への思いが、君を大きくしたんだと…。
 それを、僕に?

「悟先輩は、最初に『君はもう、ナンバー1になれる技量を身につけている。だから、次は君にしか出せないものを目指そうって』っていってくれました」

 宮階くんの言葉に、僕の鼓動はどんどん早く、痛くなってくる。

「僕、最初はその意味がわかりませんでした。僕にしか出せないもの…って、何なのか全然わからなくて…」

 …でも、僕にはわかるよ。

 それは、君の中に『想い』が溢れたとき、自然に出てくる君だけの音。

「でも…」

 言葉に詰まる宮階くん。
 でも、その瞳は相変わらず真っ直ぐに僕に向けられて、逸らされる気配はない。

 そのあまりにも真剣な色に、僕が…先に目を逸らしてしまいそうになった瞬間…。


「息が出来ないほど、人を好きになったとき、僕はその意味を知りました」


 …僕の息も……止まってしまいそうだ…。その想いがわかるからこそ。

 こんな真っ直ぐな瞳で見つめられたら、悟だって…。


「…そ…っか、それであんなに…」

 何か言わなくちゃと思って、僕は必死で言葉を絞ったけれど、それは全然意味をなさなくて。

 けれど、そんな僕の焦りを余所に、宮階くんはこれでもかって言うくらい、淡々と言葉を紡ぐ。



「僕、悟先輩に言いました。『先輩が好きです。大好きです。僕を先輩の恋人にして下さい』って」


【4】へ続く

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