第5幕「Finale.Allegro vivacissimo」

【4】





「僕、悟先輩に言いました。『先輩が好きです。大好きです。僕を先輩の恋人にして下さい』って」

 …痛…っ。

 それは、何処が痛いのかはっきりとは知れないけれど、身体の中心に棘のように食い込む鋭い痛み。

 僕を見つめる宮階くんの瞳は、決して攻撃的ではないのに。

 それどころか、優しささえ感じられて…。


「…でも、先輩にはっきり言われちゃいました。それはできないよ…って」

 …え?

「僕ではダメですか?って聞いたら、先輩はすごく優しく微笑んでくれて、でも…」

 宮階くんは、自分を落ち着かせるかのように、深く息を吸い込んだ。
 そして…。


「『珠生がダメなんじゃない。僕には、一生を誓った人がいる。僕はその子だけのものなんだ。』って、きっぱり言い切られちゃいました」

 ……さとる…。それは…。

「先輩、その相手が誰なのか、教えてくれませんでした。でも、僕にはわかりました」

 それまでジッと僕を捉えて話さなかった瞳が、初めてふわっと微笑んだ。

「…それはきっと、奈月先輩のことだって」



 僕はその時どんな顔をしたんだろう。

 きっと隠すことなんてできなかった。僕の動揺は、きっとそのまま顔に出たに違いない。

 そして、否定しなくてはいけないのに、僕の口から出た言葉は…。

「…どう、して…」

 けれど、宮階くんは、僕のその反応すら予想外ではなかったように、しっかりと頷いた。

「最初の頃、奈月先輩の話が出ると、悟先輩はすごく楽しそうでした。でも、いつの頃からか…とても辛そうな顔をされるようになって…。だから僕、わざと奈月先輩の話、たくさんしました。それで気づいたんです。悟先輩…奈月先輩が好きなんだって」


 言い切って、宮階くんは沈黙した。

 僕が何か言うのを待っているんだろうか。
 でも、僕は、どう答えれば…。

 僕が言葉を探しているうちに、宮階くんはまた深く息をついた。そして…。


「奈月先輩」
「…な、に?」

 いつの間にか、誰もいなくなって、舞台には僕たち二人だけがポツンと残っていて。


「悟先輩の事、好きですか?」

 あまりにもストレートで、そして、あまりにも真摯な言葉が、固くなってしまっていた僕の心を和らげる。

 ごまかしも何も、通用しない。ううん、ごまかしてはいけないんだ。

 宮階くんもまた、真剣に悟を想ったのだから。僕と同じように。


「うん、好きだよ。大好き。誰よりも、好き」


 ついさっきまでの僕とはまったく違い、言葉は身体の中からすんなりと出た。

 そして、口にしてしまったそれは、僕を内側から温めてくれる不思議な力を持っていた。


 悟が好き。大好き。誰よりも、好き。


 そう言葉に出来る事が、こんなにも幸せなことだなんて。


 そして、その幸せは僕の身体の奥底にずっとわだかまっていた錘をストンと落としてくれたような気がして…。

 そんな僕を見て、宮階くんはニコッと笑った。
 そして『よかった』と言ったんだ。


「悟先輩の事は諦めました。でも、僕、悟先輩を好きになったこと、後悔してません。だから…」

 宮階くんは胸のホルンをキュッと抱きしめた。

「奈月先輩のことも、僕、大好きです」
「宮階くん……」


 彼の成長は音楽だけじゃなかったんだ。

 その心も大きく育ったから、だからきっとこの成長は本物で、確かに彼の一部として深く根づいていて…。


「ありがとう」

 僕も君が好きだよ。とても。




「よく言えたな、珠生」

 舞台の袖から声がした。

「先輩…」

 いつものように茶化した感じではなく、やたらと大人っぽい包容力を滲ませながら近づいてきたのはなんと、佐伯先輩。いつからいたんだろう。

 そして宮階くんは、途端に彼らしい、無邪気な笑顔になる。

「失恋しちゃったことで、僕の音楽にもますます深みが増したでしょ?」

「そーゆーことをしゃーしゃーと言えるところがまだまだお子さまなんだよな」

 先輩は宮階くんの頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。

「え〜、ひど〜い」


 慌てて肩を竦める宮階くんが、とっても可愛くて…。

 それにしても、なんだか先輩ってば妙にいい雰囲気作ってない?

 先輩をジッと見つめて観察していると、その視線に気づいたとたん、先輩はいつもの先輩になってしまった。


「ん? なんだ、葵。今夜のお誘いか?」
「だ〜か〜ら〜、どうしてそうなるんですか」
「熱っぽい瞳で見つめてくれてたじゃないか」
「違いますってばっ」

 そんなやりとりを、宮階くんは笑いながら見てたんだけど…。

「奈月先輩」

 可愛らしい笑顔のまま、僕を呼ぶ。

「なに?」
「先輩は去年ソロをされましたよね」

 それはきっと、夏のコンサートのソロのこと。

「うん」
「僕、そのことを聞いて、去年の録画を何度もオーディオルームで見せてもらったんです。見るたびにすごいって思いました。悟先輩もずっと一緒に見ていて、たくさん解説もして下さったんですけど、先輩も『何度見てもすごいと思う』…って言っておられました」

 …オーディオルームで見ていたのは、それだったのか…。

「僕、ソロもがんばります」

 悟の伴奏でシューマンを演奏する宮階くん。

 きっと、期待通りの…ううん、もっともっと素晴らしい出来になるに違いない。

「うん、楽しみにしてる」

 そう言うと、宮階くんはそれは嬉しそうに笑ってくれて、僕の心を更に温めてくれた。

 そして佐伯先輩もまた――やけに物わかりの良さそうな笑顔で――満足そうに宮階くんを見つめていた。

 今回の事で大きく成長した宮階くん。

 僕が一人で閉じこもっている間にも、彼は本当にたくさんの事を感じて、考えて、自分なりの答えを出して…。

 今の彼はきっと、僕よりもずっと大人に違いない。
 僕も負けないように頑張らなくちゃ!





 ホールを出ると、ヴァイオリンケースを担いだ司がいた。

「葵ちゃん」

 2時間に及んだ合奏を引っ張り続けたというのに、まったく疲れを感じさせない笑顔。

「司…」
「悟先輩から伝言。今夜9時にいつものところでって」

 なんと、悟からの伝言を持ってきたのは司だった。

「ほんと、お待たせしました…って感じやったよ」

 クスッと笑いをもらした司に、僕も釣られて笑ってしまう。

「ありがと、司」
「罪滅ぼしに伝書鳩でもなんでもやるから、どうぞお気軽にご用命下さい」

 おどけたように深々とお辞儀をしてからペロッと舌を出して、司は『昇先輩に呼ばれてるんだ。もう一頑張りしてくるよ』と踵を返した。


 あれ以来、司の演奏も大きく変わった。
 弾くことが楽しくて仕方がない……そんな風に。


 僕は軽い足取りで走っていく司の後ろ姿を見送り、その目でロビーに据えられた時計を見る。


 9時まではまだ遠い。今すぐ時間を早送り出来ればいいのに。

 ああ、何から話そう。

 悟、話したいことがいっぱいあるんだ…!



                    ☆ .。.:*・゜



 午後9時の「練習室1」。
 
 悟のお城と言ってもいいこの部屋を、僕はもう随分と訪れていなかった。

 ドアについた小窓からは中の灯りが確認できて、確かにそこに悟がいるんだと僕は漸く実感する。

 僕は、まるで初めてこの部屋を訪れたときのような緊張感を抱いて、ドアをノックしようと右手を挙げ……。

 でも、それより早く、防音ドア独特の大きくて重い取っ手が鈍い音共に動いて…。


「葵…」
「悟…」

 …ああ、本当に悟だ…。

「入って」
「うん」


 いつも二人で話すときに座っている場所――小窓からはすこし死角になるところ――に、僕らは自然に移動して、そしてそこで向き合った。

 あんなに話したいことがあったのに、言葉にならなくて、僕はただ、悟の瞳を見つめるだけ。

 そして、それは悟も同じだったようで…。



 随分と経ってからだった。漸く悟が『何から話そう…』と呟いた。

「全部。ゆっくり、聞かせて」

 僕の答えに、悟は真摯な瞳で頷いた。……一度も僕に触れないまま。


                   ☆ .。.:*・゜


 悟の告白はこうだった。

 まず、宮階くんのこと。

 彼の事で成果を上げたいと焦ったこと。

 彼を脱皮させるために、結局彼の気持ちを利用するような状態になってしまったこと。

 そのことに悩み始めていた頃に、司から僕の『本当のこと』を聞かされたということ。


 悟は僕に対する罪の意識でがんじがらめになり、そして僕たちはすれ違った。


「でも、僕はどうしても葵の事を諦める事なんてできなかった。だからせめて、珠生の事だけでも解決してから、きちんと葵に向き合おうと思った。珠生の事の結果を出して、自分自身に区切りをつけて、そして…」


 少し遠い目で、一つ一つ、噛みしめるように言葉を継いでいた悟が、ふと僕の視線を捉えた。

「もう一度葵の傷の事に向き合い、ちゃんと許しを乞おうと思った…」

 怖いほどに熱っぽい瞳。

「悟が許しを乞うことなんて何もないよ」

「葵…」

「そもそも悟は何の罪も犯していないんだから」


 悟はただ、僕をこんなにも深く愛してくれただけ。


 でも、悟はゆっくりと頭を振った。

「僕は、あの人が犯した罪は僕の罪だと思っていた。でも、だからといって代わりに僕がいくら言葉を尽くしても、本当の贖いにはならないんだと、どうしようもなく追いつめられてしまった。そんなとき…昇と守に言われたんだ」

 悟がクッと唇を噛みしめる――まるで涙を堪えるように…。

「『確かに悟はあの人と血が繋がっているけれど、自分たち4人もちゃんと血が繋がってるんだ。悟はこの血を信じていればいい』…って」

 そして、その瞳がふわっと微笑みの形に変わった。

「救われた…と思った」


 …うん、その通りだよ、悟。

「ほらね、やっぱり悟は何にも悪くないんだってば」

「いや、やっぱりそれは違うよ」

「どうして?」

「僕は、弱っていく葵を、知らずにいた。自分の苦しみばかりに気を取られて、葵が苦しんでいることに目を向けなかった」

 その表情は、また深い後悔を滲ませて…。

「何よりも、誰よりも…この命よりも、大切な人なのに…」

 ああ…悟。それでもう、十分だよ。
 僕は今、最高に幸せだから…。




「あおい…」

 吐息混じりの、身体の芯から熱くなるような呼びかけ。

 それと同時に、ずっと下ろされたままだった悟の両腕が、僕の肘の辺りまでやって来て彷徨う。

 そして、僕を捉える、泣きたくなるほど切ない眼差し。


「触って…いい、か?」

「…もちろん。 全部、悟の…だよ?」


 そう、体も心も、何もかもすべて、悟だけの…。

 張りつめていた空気が、ほんのりと甘やかなものに変わる。

 ふわっと漂ってくる悟の甘い香りと共に、その掌が、そっと背中に触れてくる。

 今、すべての荷物を降ろし、僕と悟は向き合って、見つめ合う。

 心の内を晒してしまえば、僕たちはこんなにも甘く、熱く、抱き合えるから。



「葵…」

 囁きながら、悟の熱い唇が僕の額に触れて、そしてそっと押し当てられる。

 それはやがて瞼へと降り、目尻に触れ、頬を啄んでから鼻筋を辿り、そして、その熱を待ち焦がれる僕の唇の端を掠め……。

 僕が思わず漏らした甘い吐息を、深く深く、吸い取った。

 最初は優しく…やがて、激しく。



 そしてこの夜、僕たちは傷の呪縛から解き放たれた。
  
 永遠に。


【Op.1最終回】へ続く

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