Op.2 第1幕 「遠き山に陽は落ちて」

【1】





 日中のうだるような暑さが去り、夕方にはまだ若干残っていた湿った空気も今は綺麗に一掃され、提灯に灯る明かりも心なしか輝いて見える。

 聖陵学院高等部の管弦楽部員たちにとって、夏休みは短い。

 7月は31日に夏のコンサートがあり、8月の最後の5日間は軽井沢で合宿がある。

 実質25日間の夏休み中、それでもみな、それぞれに思い出を残す。
 そして、今、ここにも…。



「葵、今頃何してるかなぁ」

 夏祭りで賑わう神社の境内で、糊の効いた浴衣をきっちり着込んだ隆也が呟いた。

「あのな、隆也。デートの最中に他の男の話をするんじゃない」

 その言葉にツッコミを入れる守もまた浴衣姿なのだが、こちらは適度に日焼けした胸元をチラッと覗かせたりして色っぽいことこの上ない。

 すれ違う女性たちの視線が痛いくらいだ。

 だが当然、そんなものは今の守の視界にはまったく入ってこない。


「他の男って…。葵は弟じゃないですか、守先輩の」

 呆れた…と続ける隆也の額を軽く小突き、守は大げさに難しい顔を作ってみせる。

「弟だろうが何だろうが、恋敵は恋敵だ。誰にもデートの邪魔なんてさせないぞ」

「…ええっ? これ、デートだったんですかっ?」

「…あのなあ…」

 さっきもそう言っただろうが…と脱力する守もなんのその、隆也は『知らなかった…』などと、さらに守に追い打ちをかけるような事を言ってくれる。

 自分の意志とはまったく関係なく、放っておいても勝手にモテるから、守は決して自分からアプローチはしない。

 今まで子猫ちゃんたちをとっかえひっかえしていた所為で、マメな人間だと誤解されがちなのだがそれも実は周囲の勝手な思いこみだ。

 求められるから応えてあげる。

 つまり、徹底した『来るものは拒まず』…というよりは、『想ってくれるのなら応えるのがオトコってもんでしょ』という、ちょっと方向性が疑問視されるフェミニスト精神がなせる業なのだ。

 そんな守が、初めて自分から求めた。
 それが隆也だったのだが…。

 どう言うわけなのか、この子猫(子猫と言うには少し育って美人猫になりつつあるが)は簡単になびいてはくれない。それどころか、あろう事か彼は守を前にして『僕は葵が好き』と言い切ってくれるのだ。

 そんな隆也を、この夏休みこそなんとか落としてみせる…とばかりに、守は連れだした。

 わざわざ自分で、雰囲気のいい縁日を探し出し、浴衣まで調達して。

 だと言うのに…。


「ふん、心配しなくても、葵は悟と一緒に今頃京都の夏祭りをお楽しみ中だ」

「え〜。なんだ、そうなのか〜。あ、じゃあ昇先輩は? 一人で放っておいていいんですか? 一緒に誘えばよかったのに」

「残念だがあいつも今頃夏祭りの最中だ」

 隆也が怪訝な顔をする。

「…え。それってまさか…デート、ですか?」

「当たり前だ。それ以外に何がある」

「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜! 昇先輩、恋人いたんですかっ?」


 思わず叫んでみたものの、先ほどからずっと守に絡みついている数々の視線を受け、隆也は慌てて口を塞ぐ。

「…そりゃあ、あんなに素敵な人が一人ってのはおかしいし、それに…」

「それに?」

 言葉を止めた隆也を促してみれば、上目遣いになって、それは言い難そうに再び口を開いた。

「ええと、その…前はあんなにいろんな先生と……噂…になってたから…」

「ああ、あれね」

 あはは…と笑い飛ばされて、隆也はそんなに気を遣う話でもなかったのかと肩の力を抜く。


「でも」

「でも?」

「そう言えば、昇先輩って最近大人しいですよね。そっちの方は」

「そっちってどっち」

 わかっているクセに、ニヤッと笑って守が聞く。

 そんな守に、隆也はほんの少し頬を赤くして『そっちっていったらそっちでしょう』と呟く。

 それにしても。

「あ、昇先輩が大人しくなったのって、もしかして特定の人が出来たから…とか?」

 思いつきを口にしてみれば、あっさりと同意の言葉が返ってきた。

「まあそう言うことだ」

「うわ〜誰ですか? まさか、ほんとに先生の誰かとか…」

 どうにも相手が『同年代』という想像が出来ないのだ。こと、昇に関しては。

「ナイショだ」

「え〜、そんなこと言わないで教えて下さいよ〜。僕、誰にも言いませんから〜」

 あの昇が『この人』と決めた相手だなんて、絶対知りたい。
 
 もちろん誰にも言うつもりは本当にこれっぽっちもない。
 去年、葵を追いつめてしまったあの日以来、人の嫌がることは絶対にしないと隆也は心に決めたのだから。


「じゃあ、交換条件だ」

「…交換条件?」

 なんだかイヤな予感がする。

 こういう笑顔を見せる時の守は、腹に一物あるのだ。絶対。

「簡単なことだ。ほら、ここに…」

 といって、あろうことか守は唇を突き出した。

 これは、まさか…。

「ちゅっ…とね」

「なっ…!」


 よもやとは思ったが、やっぱり守は守だった。簡単に予想がついてしまうところが恐ろしくもあるのだが。

「あっ、あのですねっ、ここを何処だと…」 

 顔中から火を噴いて、隆也が噛みつく。こうなったら周囲の視線なんて言ってられない。

「神社の境内だろ」

「わっ、わかってるんなら…っ」

「あ、じゃあ、人気のないところならOKなわけ?」

「そうじゃなくてー!」

 だが、慌てふためく隆也に、またしても守は『あはは』と余裕の笑いを見せてくれる。

「あ、金魚すくいあるじゃん。やろうぜ。俺やったことないんだ、これ」

 そう、まるで何事もなかったかのように。

「…もう〜…」

 しっかり振り回されている自分が情けない。



                    ☆ .。.:*・゜



 隆也はこの春のオーディションで2ndヴァイオリンの首席奏者になった。

 これまではかろうじてメインメンバーだったことを思えば、破格の出世だ。

 もちろん必死で練習をした。それもこれも、少しでも葵に近づきたいから。

 だが、いざ首席になってみれば、その荷の重さに押しつぶされそうになった。



 オーケストラの弦楽器は5部編成。

 高音から順に、1stヴァイオリン、2ndヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス…となっている。

 5部だから、首席奏者は計5人。

 それぞれのパートをまとめるだけでなく、首席同士がアイコンタクトを密に取れなければ、良い合奏は生まれてこない。

 そんな責任を負う首席奏者だが、今年の面子はと言えばコンサートマスターの昇とチェロの守が留任、ヴィオラとコントラバスは昨年の次席奏者が昇格していて、まったく「そう言う経験」がないのは隆也一人なのだ。


 去年までは、ただなんとなく――それでもメインメンバーから外れると、学院の理事をしている祖父から叱責を食らうからそれなりに――後ろの方でみんなにくっついて弾いていた。

 それがいきなりパートのトップに立ち、後ろに控える9人もの2ndヴァイオリンのメインメンバーを背負わなくてはいけなくなったのだ。

 よくよく考えてみると、顧問たちも大胆だな…と隆也は思う。

 そもそもパートのトップに立つには『それなりの資質』がいる。簡単に言ってみれば、『学級委員長』のような、ある種のカリスマ性が必要なのだ。

 自分にそんなものがあるとはとても思えない。

 いくら去年の首席・次席が卒業してしまっているとは言え、去年も自分より前の席で弾いていた現3年生も多くいる。

 だから、いくらオーディションの成績がよかったからといって、今までなんの実績も積んでこなかった自分をいきなり首席にあげるなんて、大胆というか、冒険というか……隆也には、そんな風に思えたのである。


 ――次席くらいがちょうど良かったのになあ。


 そんな弱音が出たのは、新体制で新学年が始まってわずか数日のこと。

 弦楽器の首席奏者5人で音合わせをしたときのことだった。


「だから、その解釈はやりすぎだって」

「でもさ、これくらい弾いてないと、後ろじゃガンガン金管が鳴ってるんだってば」

「それを押さえるのもコンマスの役目だろうが」

「そりゃそうだけど、それにしてもここはもうちょっと主張していいと思うんだけど」

「や、ここはもう少し我慢した方がよくねえ? でないと、次のテーマが生きてこねえような気がするんだ」


 活発に交わされる意見。

 自分以外の4人は、己の主義主張をはっきり持って合奏に臨んでいる。

 だが自分は、ただ呆然と4人の3年生の議論を眺めているばかりだ。


 ――やばいぞ、これ…。


 そう思ったのが顔に出たのだろう。

 音合わせが終わり、隆也は守に呼び出しを受けた。


『お前、ちょっとヤバイと思ってるだろ』


 笑みを含んだ声でそう言われた隆也は、十分自覚しているだけあって、素直に頷いた。

 すると守は笑顔を満開にしてこう言ってくれたのだ。

『それなら俺が、これから色々教えてやるからさ。せっかく首席になったんだ。一緒にがんばろうぜ』…と。



 それから守の『個人授業』が始まった。

 だが、いざそれが始まってみると守のレッスンはかなり厳しくて、隆也は何度もくじけそうになった。

 その頃、ちょうど昇も、コンサートマスターの代理を務めることになった佐倉司の指導をしていたのだが、その昇をして『守、気合い入りすぎじゃないの』と呆れるほどだったのだ。

 だが、その厳しい指導の成果は早くから現れた。

「注意深く音を聞くこと」を中心に、さまざまな訓練をつけてもらった隆也は、6月も半ばになる頃には自分でも驚くほど合奏が楽しくなっていたのである。


『守先輩のおかげです!』


 頬を紅潮させて言う隆也に、守はそれは嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

 そして、ちょっと照れくさそうに言ったのだ。


『なあ隆也、俺たち、ちゃんとつき合おうぜ』…と。



 去年、葵に向けて一方的に憎悪をまき散らかしたあの一件以来、何くれとなく構ってくれていた守ではあったが、まさかその気持ちが本心とは思えなくて、そのアプローチを『守先輩らしい、お楽しみの一つ』と解釈していた隆也にとってはかなり驚きの発言ではあった。

 でも、自分が好きなのは葵なのだ。

 葵と悟が恋人同士なのはわかっていても、それでも葵が好きなのだから仕方がない。


『あの〜、僕が好きなのは、葵なんですけど』


 だからはっきりそう言った。

 だが、それで折れるような守ではもちろんなかった。

『そんなこと、わかってるって。でもさ、お前別に葵とつき合ってるわけじゃないじゃん。俺もフリー、お前もフリー。つき合うのに問題はないだろ?』


 そんな『正論』を正面から突きつけて、にこやかに迫ってきてくれるのだ。

 確かに守と過ごす時間は充実していてとても楽しい。

 一緒に練習しよう…と、約束をしている日は放課後が待ち遠しいくらいだ。


 ――でも、つき合うってさあ…。


 今のままではいけないのだろうか?

 新学年になってから、一緒にコンサートや買い物に行ったりもしていて二人きりで過ごす時間はかなり長い。

 これでも十分『つき合ってる』部類に入ると思うのだが、『ちゃんとつき合う』というのは、『今』と比べて何か特別なことが変わるんだろうか。


 思い当たることと言えば、どうしても『男子高校生的極めて当たり前の自然現象』――平たく言えば『性的欲求』――の解消込みで…ということになるのだが、守を見ていてもなんだかピンと来ない。

 それはたぶん、守にギラギラとしたものがまったく感じられない所為なのだろうが、だからこそ、隆也は『ちゃんとつき合う』の意味を捉えかねていて、現在――短い夏休み――に至る…といったところだ。



 そしてこの日、『楽譜を探しに行くのにつき合って』と電話をもらって桐生家を訪ねてみれば、いつの間にやら浴衣を着せられ縁日に連れ出されていたのだ。

『時間掛かりそうだから、今夜はお泊まりな』と言われたのは桐生家に着いてからで、帰省中の自宅に電話を入れてくれた守に、いつもは気むずかしい祖父がやたらと愛想がよかったのが――恐らく桐生家の人間と付き合っておいて損はないと思っているのだろう――なんだか気鬱だったが。






「ほら」

 突然目の前に差し出されたのは大きな綿菓子。

「あ。ありがとうございます」

 素直に受け取ると、頭をぐりぐりと撫でられた。

「お前、甘いもの好きだよなあ。葵と一緒だ」

 そう言う本人も、そのルックスに似合わず、無類の甘い物好きだと葵からは聞いているのだが。


 ――ま、いいか。葵は葵で悟先輩と楽しんでいるようだし。


 そう思い直し、綿菓子にかじりついた瞬間、ふわっと守の髪が額を掠めた。


 ――え?


 続いて、熱い唇が頬に触れる。

 まるで、偶然を装って。


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