Op.2 第1幕 「遠き山に陽は落ちて」
【2】
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「おかえりなさい」 散々縁日で遊び回ってきた二人をそう言って迎えてくれた守の母、香奈子の微笑みには何故か明らかに、昼には見られなかった困惑の色があった。 「疲れたでしょう? 隆也くん、ゆっくりしてね」 「はい、ありがとうございます」 呼び出され、浴衣を着せられた時点で今夜はすでに泊まることに決められていたから、隆也は素直に礼を述べたのだが、守は、出かける時には感じられなかった母の変化を見逃さなかった。 「何? 母さん、何かあった?」 そう言えば、広い玄関の真ん中あたりに見慣れない紳士物の――しかもかなり高級そうでおまけにかなり大きなサイズの――革靴がある。 「守…。あなたにお客さんなの」 「俺?」 そんな約束はした覚えがないし、心当たりも全くない。 「誰?」 怪訝な声で訊ねてみれば、香奈子は小さくため息をついた。 「…プライス家の弁護士さん…だそうよ。セシリアからも連絡があったわ」 「はあっ?!」 その、驚きの中にも微かに怒気を含んだ声に、隆也が驚いて守を見上げる。 ――プライス家…セシリア……って、もしかして。 二つの言葉をくっつけてみると、世界的に有名なオペラ歌手の名前になった。 『セシリア・プライス』 聖陵の…少なくとも管弦楽部員で知らない者はいない、守の生みの母の名だ。2〜3年に一度は顔合わせはするけれど、それ以外の交流は全くないと守から聞いたことがある。 その『母親』の弁護士が来ているとなると、生半可な用ではないだろうというのは隆也にも想像がつく。 隆也の家にも顧問弁護士なる者がついているが、彼らが自宅にまで現れる時は大概『何かあった時』だから。 「応接間にいらっしゃるわ。隆也くんは佳代子さんにお部屋に案内してもらうから…」 「いいよ。何の用だか知らないけれど、隆也も行こう」 そう言っていきなり手を引かれ、慌てたのは隆也だ。 「ちょ…先輩っ。どうして僕が…っ」 相手は弁護士。 しかもはるばる海を越えてアメリカからやってきたのだろうから、少なくとも世間話をしに来たはずではない。 そんな席に、単なる後輩でしかない自分が同席するなんてとんでもないことだ。 隆也は慌てて掴まれた腕を取り戻そうとしたが、大きな守の手は、ほっそりした隆也の腕をがっちり掴んで離さない。 困り果てて香奈子を見れば、『ごめんなさいね。つき合ってやってもらえるかしら?』などと言われてしまい、こうなってはもう、どうしようもない。 ――仕方ないや…。 そんな風に諦めて、隆也は引っ張っていた腕から力を抜いた。 守のホッとしたような笑みが、なんだかちょっと切なかった。 「突然伺って申し訳ありません」 銀髪に碧眼。どこからどう見ても異国人の弁護士――プライス家の使い――は、意外にも流暢な日本語で、握手を求めてきた。 いきなり尋ねてくるような失礼なヤツに握手を返してやる義理はない…と守は思うのだが、チラッと伺った母・香奈子の表情が、『きちんとご挨拶なさい』と言っているのがありありと見て取れて、守は渋々ながらも握手に応じる。 それに、『躾のなっていない子』だと思われて、母に恥をかかせるのも本意ではないから。 「これは日本の民族衣装ですね。とてもお似合いです。ご友人も大変お可愛らしい」 いきなり目を合わされてにこりと微笑まれ、隆也はそういえば浴衣姿だった…と、慌てて裾の乱れなどを確かめたのだが、可愛らしい…と表現されたのもなんだか複雑だ。 隣に守がいる以上、『かっこいい』とは言ってもらえないのは重々承知だが。 「それにしても、守様は本当にご立派に成長なさいました。あなたが5つの頃、パリのオペラ座でお目に掛かったことがあるのですが、覚えてらっしゃらないでしょうね」 目を細めて言われても、守には何の感慨もわかない。 物心ついた頃から、数年の一度の『生母訪問』は守にとって苦行以外の何物でもなかったのだから。5歳の頃のパリと言えば、オペラ座の楽団員にヴァイオリンを触らせてもらって嬉しかった…くらいの記憶しかない。 ――そう言えば、あの時昇は『フランスのごはんおいしくないっ。たきたてのほかほかごはんがたべたい!』ってゴネたよな。 現実逃避なのかなんなのか。どうでもいいことが頭の中を巡る。 どっちにしてもさっさと用件を言って帰って欲しい。 せっかく隆也が泊まる夜だというのに。 普段の守ならもう少し余裕をもって対応できたのかも知れない。 だが、貴重な時間を邪魔された恨みは大きいのだ。 「世間話は結構です。ごらんの通り、今夜は大切な友人が尋ねてきてくれてるんです。ご用件を仰って下さい」 言葉だけは丁寧だが、その口調には明らかに苛立ちが混じっていて、隆也は不安げに守を見上げる。 だが、そんな守の対応にも、香奈子は何も口を挟んではこなかった。しかし、心中穏やかでない様子は見て取れる。 そんな、なんとも気まずい場の様子に、銀髪の弁護士はほんの少し諦めたように息を吐いて、『では…』と、一つ咳払いをした。 「先月、プライス家の当主が病没いたしました」 「…まあ…」 香奈子が驚きの声をあげる。 プライス家はアメリカでも名の通った実業家である。 「確かセシリアの弟さん…でしたわね。ご当主は」 「そうです」 頷いた弁護士は静かに守を見据えた。 「当主・リチャード様には残念ながらお子さまがいらっしゃいませんでした」 その言葉に、守の『予感』が嫌な方向を指し示す。 「セシリア様は、守様をプライス家の当主として引き取りたい…と仰っておられます」 香奈子もなんとなく予感はしていたのだろう。 声をあげることはなかった。 だが、瞬間二人が覚えた感情は同じだった。 ――呆れた。 言葉もないとはこのことだ。 大まじめでこんな話を切り出されたところで、馬鹿馬鹿しくて話にもならない。 さて、この取り合う余地もない話にどう切り返してやろうか…と守が思案する横で、むしろ当事者ではない隆也の方が驚きの余り呆然と立ちつくしている。 「突然の事ですので驚かれるのも無理はありません」 弁護士の落ち着き払った声に、守は内心で、『驚いているのは隆也だけ…だけどな』などとツッコミを入れている。 「ただ、プライス家にはどうしても跡取りが必要なのです。しかし継ぐべきお子さまはあなたお一人。ああ、事業に関しましては優秀な役員が大勢おりますのでご心配はいりません。守様にはそのまま音楽の勉強を続けていただけます。そうそう、高校はあと半年あまりでご卒業ですからこのまま聖陵で学んでいただいて結構です。ただ、大学はジュリアードへご進学いただきます。お母様のセシリア様の母校でもありますし…」 一人蕩々と話し続ける弁護士に、香奈子がわからないように小さくため息をついた。 ちら…と守を見る。 「俺は行きません」 香奈子は、守がもっと怒りを露わにするかと思っていたのだが、意外にも淡々とした対応をしてみせるので、かえって不安になった。 もしかして大噴火寸前の所謂『嵐の前の静けさ』ではないだろうか…と。 だが、よくよくその表情を見てみれば、何のことはない、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて相手にしていないだけのようだ。 こういうシーンで妙に飄々としていられる所は、父親似のような気がするわね…などと香奈子が考えていると、『行かない』と即答された弁護士は、さらに煽るようなことを言ってのけた。 「守様。本当はセシリア様がご自身でお迎えに来たいとおっしゃってはいたのです。ですが、現在公演中でいらっしゃいますので叶いませんでした。どうかご機嫌を直されまして…」 どうやら彼は、守が『セシリアが直接迎えに来なかったから拗ねているのだ』とでも勘違いしているようだ。 ますます呆れて物が言えない。そして、その勘違いは、守も当然見抜いた。 ――ったく、笑わせてくれるぜ。誰が来ても関係ないね。俺の答は一つきりだからな。 守はその端正な唇に、年齢に似合わない不敵な笑みを浮かべた。香奈子はそれを見て見ぬ振りをする。 そして、隆也だけがビクビクと、身を縮ませて事の成り行きを見守っていた。 「あんた、俺の名前知ってる?」 それは、おおよそ目上に対する口調ではない。 だが知ったことではない。 今度こそ、『こんな失礼なヤツに尽くす礼はない』と守は思ったのだ。 そして、香奈子ももはやそれを咎めたりしない。 「…桐生守様…でらっしゃいますが。それが何か」 弁護士だけが僅かに眉を顰めた。 「わかってんじゃん。俺は桐生守。桐生香奈子の三男だ。セシリア・プライスの子供じゃない。以上、終わり!」 そういいざま、隆也の手を引いて踵を返す。 その動作に被るように香奈子が告げた。 「遠い所をわざわざお越しいただきましてお疲れさまでした。お返事は今、守が申し上げました通りですが、セシリアには改めてこちらから直接連絡いたしますので、どうぞお引き取り下さいませ」 優雅な手つきで『お帰りはこちら』とばかりにドアを示され、にっこりと、恐ろしいほど美しく微笑まれて、蒼い目の客はゴクリと唾を飲み込んだ。 「お気をつけて」 有無を言わさないその態度に、ここは一旦この場を辞するしかない…と、彼の脳は判断しているのだが、何故だか足が震えていて前へ踏み出すのも一苦労だ。 目的を達せずに帰国すれば、雇い主であるセシリアからの叱責は免れないが、それよりも遙かに、微笑む香奈子の方が得体の知れない迫力を含んでいて恐ろしい。 そして、守。 たかだか17歳――ハイスクールの子供だとタカをくくっていたが、その大人びた外見だけでなく、内面的にもすでに自我を確立している様子が察せられ、あれでは中途半端な大人など太刀打ち出来ない。 結果、プライス家の代理人は動かない足を無理矢理動かしてヨロヨロとこの場を去るしかないのだが、この時すでに、遠来の使いのことなど、守も香奈子も気に止めていなかった。 隆也だけが手を引かれながら振り返り、その背中をチラッと見送り、そして守に視線を転じて切なくなる。 とんでもない現場を目の当たりにしまった。そうして改めて守の複雑な生い立ちを思い出した。 普段の守からは、そんなことは微塵も感じられないから。 一年と少し前、夜の練習室で葵を『私生児のくせに』とののしった時、守はどんな思いであの言葉を聞いていたのだろう。 『しょうがないなー、『婚外子友の会』でも創るか』…と言ってのけ、『俺と昇も愛人の子だよ。俺たちといるのも不愉快かな?』と、何でもなさげに笑って見せた守。 そして、『嫌な目にあったことがある』と言いながらも『生まれてきて良かったと思ってる』と言い切った守。 今、自分の手を引きながら真っ直ぐに前を見ている守の横顔を見上げながら隆也は、この先輩が、見た目が麗しいだけではないのだと改めて思い知る。 まったく自分には持ち得ない強さと優しさ、そして思いやり。 そんな守がふと視線をこちらに転じ、柔らかく微笑んで見せてくれるのが堪らなく嬉しい。 「ごめんなさい」 だから言葉は自然にこぼれ落ちた。 「…え? 何が? 何で隆也が謝るんだ?」 茶色の瞳を大きく見開いて守が尋ねる。 「…だって、僕は…」 一年前のあの暴言をもう一度きちんと謝りたくて、言い募ろうとした隆也の唇を、守の長い指がそっと押さえた。 「謝るのは俺の方だろう? せっかく来てくれたのに、くだらないことに付き合わせちまったからな」 「そうじゃなくて…!」 そんなことを言わせたいのではないのだと、隆也は思わず守の浴衣の襟をひっつかむ。だが。 「お。積極的だな、隆也」 ニヤリと笑われてしまえばもう、元々が口の立つ方ではない隆也には、継げる言葉など出てこない。 「さ、ここが俺の部屋だ。入って」 そして、にこやかに招き入れられれば、これ以上この話を続けるのは無粋でしかないと思えてしまう。 「疲れたろ? 先にシャワー浴びておいで」 微笑む守の表情からは、最早先ほどの出来事など微塵も感じ取れなかった。 |
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