Op.2 第1幕 「遠き山に陽は落ちて」
【3】
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浴室から、守が使うシャワーの微かな水音が聞こえてくる。 高校生らしく、部活の後輩という立場から『先にシャワー』と言うのは一旦辞退したのだが、『お客が先ってのが世間のジョーシキだろ?』と片目を瞑られて、隆也は素直にそれに従った。 先ほどの『来客の一件』が隆也なりに堪えているのか、なんだか今夜は自分でも驚くくらい素直になれる。 程良く空調の効いた室内。 熱いシャワーに火照った身体も少しずつ落ち着いてきて、守を待つ間、隆也は部屋の中を見回している。 実家にある自分の部屋よりは少し狭いような気がするが、室内の造りはこちらの方が圧倒的に重厚で趣味がいい。 隆也の家は、まだ新しかったものを2年前にまた建て直したところだ。 『お祖父様は気まぐれだから』…と母は少々呆れ顔だったが、隆也自身は寮生活だから特になんとも思わなかった。長期休暇で帰省してみれば、家が建て替わっていてちょっと驚いた…といった程度のものだ。 新しくなっていた自分の部屋についても『だだっ広いなあ』という程度の感想しかなかったのだが、こうして居心地のいい、手入れの行き届いた古い洋館の中でくつろいでみると、あの家はなんだかあんまり趣味がよくないような気がしてくる。費用だけはふんだんにつぎ込んだ…そんな感じがするのだ。 部屋の隅にチェロがある。 専用の楽器立てに掛けられて、その前には重そうな木製の譜面台。 そっと覗き込んでみれば思った通り、聖陵祭コンサートで演る予定になっている、ドヴォルザークのチェロコンチェルトのソロ譜が開かれていた。 隆也もこの曲は大好きだが、このソロはコンクールのファイナルで課題になるほどの難曲だ。 だが葵から仕入れたネタによると、守は中学時代に一度この曲をさらっているらしく、今さら技術的な面での不安は無いだろうということだった。 ――明日、聴かせて下さいって頼んでみようかな…。 事も無げに『いいよ』と言ってくれるだろうか。それとも、『初合奏までのお楽しみだ』と焦らされるだろうか。 どちらも考えられそうだな…と隆也は一人で小さく笑みを漏らす。 チェロから目を転じると、壁一面に作りつけられた本棚が目に入る。磨き上げられて渋い光を湛えるそれは、イギリス映画か何かで見たことがあるような、まるで古い図書館の風情だ。 並んでいるのは主に楽譜。そして、飛行機の図鑑など、航空関係のものが多い。 ――守先輩、飛行機好きなんだ。 そんな話は聞いたことがなかったが、オープン棚のそこかしこに大切そうに並べてある精巧な模型を見れば、今さら尋ねるまでもないことだろう。 自分も小学生のほんの一時期、パイロットに憧れた時もあったが、それは単なる憧れの域を出ず、こんな風に本を集めたり模型を作ったり…と、夢中になることはなかった。 もしかして守も『パイロットになりたい』と思ったことがあるのだろうか。 ――制服姿、めちゃめちゃかっこいいだろうなあ。 さりげなく着崩した普段の制服姿に高校生にあるまじき色気を滲ませる守が、管弦楽部の制服をかっちりと着こなした時のインパクトはもの凄い。 『何回見てもドキドキするよな』…とは、全校生徒の一致した意見だろう。 たかだか学校の制服でもあれなのだ。それが職業のものになると…。 なんだか想像してしまって勝手に胸がときめく。 シャワーで火照った身体とはまったく無関係に上がり始めた心拍数に、思わず胸を押さえたところで、控えめなノックの音がした。 「…はい?」 葵と悟は京都で、昇も今夜は帰らないと聞いているから、ノックの主は兄弟たちの母上か、もしくはあの優しい家政婦さんのはずだ。 隆也の実家にもお手伝いの女性は複数いるけれど、いずれも隆也にとっては祖母に近い年齢の人たちばかりだから、こんなに若い人もいるんだ…と、ここへ来て妙な感心をしてしまったものだ。 『ちょっといいかしら?』 声は、母上のものだった。 「あ、どうぞ」 守はまだシャワーから出てこない。それでもいいのだろうかと思いつつ返事をすると、ドアが開いて、とても高校生の息子がいるとは思えない美人が現れる。 CDのジャケットや、TVで演奏録画を見たことは何度もあるが、こうして初めて生で接してみて、さほど化粧気もないのに咲き誇るような華やかさがあることに驚かされる。 笑顔が悟とよく似ていることに気がついたのは、昼間のことだ。 葵に出会うまで、微笑み以外の笑い顔を見せたことがなかった悟が、去年辺りから見せるようになった華やかな笑顔は母親譲りだったのだと納得できる。 「お邪魔していい?」 「あ、はい、もちろんです。守先輩はまだシャワーなんですけど…」 そう言ってちらっと浴室に視線を向けるが、香奈子は『ああ、守はいいのよ、別に』と、小さく笑った。 そして。 「隆也くん、さっきはごめんなさいね。見苦しいところを見せてしまって」 謝罪をされて隆也が慌てる。 「えっ? いいえ、とんでもないです…っ」 あの場にいて、いたたまれない思いに駆られたのは確かだが、それは香奈子が悪いわけでも守が悪いわけでもない。 結局守には封じ込められてしまったが、むしろ、自分の過去の行状の方が謝罪対象になると隆也は感じているから、こんな風に謝られるとますますいたたまれない。 だが、そんな隆也の心を知らず、香奈子は心底心配そうに言った。 「これに懲りないで、これからも守と仲良くしてやってね」 実は、今日守が連れてくる管弦楽部の後輩が、去年から継続中の『片想いの相手』なのだと、昇は香奈子にこっそりリークしてから出かけていったのだ。 正直、『え〜! 守の相手も同性なの〜!?』と心の中で叫んではみたものの、そこはそれ、実子の他になさぬ仲の子を2人育て上げ、今や3人目にメロメロという『薔薇園の聖母』香奈子の切り替えは早かった。 何と言っても守が思いを寄せた子なのだ。 その気持ちを尊重してやりたいし、守のことは心底信頼している。 芯の部分で一番強いのは、悟よりも昇よりもこの守だろうということは、かなり早い段階から感じていたことだ。 だから、どんな子が来ても――何しろ相手は守の猛烈なアタックにもなびかないというツワモノなのだから――オドロカナイゾ…と決めていたのだが。 「懲りるだなんて、とんでもないです! あのっ、さっきの守先輩、すごくかっこよかったな…なんて」 「…まあ」 葵よりはいくらか背が高くてほんの少し男の子っぽいが、それでも高3の我が子たちよりは随分と――昇とはいい勝負かもしれないが――可愛らしい麻生隆也という少年は、頬を染めて守を賞賛してくれるではないか。 「いや〜ん! 可愛いわ〜!」 さすが我が子! やっぱり目が高いわ! いい子じゃないの〜!…などと、隆也が聞いたら腰を抜かしそうな事を心の中で叫びながら、香奈子は自分より少しだけ背の高い少年を思いっきり抱きしめた。 「…!」 腕の中で隆也が絶句する。 これだけで隆也にとっては香奈子の心中の台詞など知らなくても、十分に腰を抜かせる状況だ。 そして。 「あ〜! 母さんっ、何やってんだよ!」 香奈子にとっては運悪く、ちょうど守が現れた。 この状況に守は、いったい何があったのか、ともかく引き剥がすのが先だ…と隆也の肩を両側から掴む。 案外簡単に香奈子は離してくれたが、腕の中に取り戻した隆也はなんだか魂が抜けたような顔をしていた。 驚きを通り越したのだろう。 そうなのだ。職業柄なのか何なのか、母の愛情表現は欧米人並みで、一般的日本人家庭で育った人間には濃厚この上ない。 一年前の葵も、初対面でいきなり抱きしめられて目を白黒させていたから。 「やーねー守ったら、母に嫉妬?」 「何言ってんだよ〜。もう〜、隆也、魂抜けてんじゃん〜」 ほら、しっかりしろ…と、頬をピタピタはたくと、隆也は目をしばたかせたが、やっぱりまだどこか腑抜けている。 「ったくもう、どう言うことだよ、母さん」 「どうもこうも。あんまり可愛いから抱きしめちゃっただけよ?」 確かに可愛いのは認めるが、見た目が可愛いというだけでいきなり抱きつくことはないだろうと――葵の場合はいきなりだったが、あれは後から考えるに、葵が我が子たちの弟だと知った上でのことだったから――だから、確かめずにはいられない。 「…隆也、何か言ったの?」 「…うふふ、気になる?」 確信犯の母の笑みに、守は『やっぱりこの人には敵わない…』と渋々白旗を揚げる。 「…気になる」 ボソッと言われ、香奈子もまた、してやったり…だ。 幼稚園から小学校にかけては、そのあまりのやんちゃぶりに『どうしてよりによって男の子ばっかり3人なの〜!』と悲鳴を上げたこともしばしばだったが、こうして『ちょっとオトナの会話』を交わせるようになると、男の子の母をやっているのもなかなかに面白い。 「どうしようかなぁ〜。言っちゃっていいのかなあ〜」 「母さん〜」 『未だに片想いなんだってば』…と昇は言っていたから、その隆也が頬を染めて守のことを格好良かったと言ったと知れば、守はきっと盛大に喜ぶだろう。 でも、それは出来ることなら本人の口から聞かせてやりたい。 「…せん、ぱい?」 守の腕の中で隆也が今度こそパチッと目を開けた。どうやら魂が戻ってきたらしい。 「あら、隆也くん、大丈夫?」 「あ…は、はいっ」 ちょうどいい。ここが引き時だろうと香奈子は一人笑いを漏らす。 「じゃあ、守、続きは隆也くんに聞きなさいね」 「ちょ…っ! 母さんっ、ずるい!」 「隆也くん、お休みなさい」 にっこりと微笑まれて隆也も慌てて『お休みなさい』と返事をする。 ついさっき、抱きしめられてしまったことがまだ頭をぐるぐると渦巻いていて恥ずかしいことこの上ない。 そんな隆也の様子を見て、守はブスッとむくれる。 今さらながらに悟の気持ちがわかった。 帰省するたびに母は葵にべったりで、悟がむくれているのを昇と二人で何度もからかったのだが。 悟をからかったツケなのだろうか、これは。 「で、隆也、母さんに何言ったんだ?」 「はあ?」 「はあ…って、何か言ったんだろ?」 「…いえ、特には…」 なんのことだっけ?…と隆也は内心で首をひねる。 どうやら本当に覚えていないようだ。守のことを『かっこよかったです』と言ったことなど。 いや、忘れてしまったのではなく、その意識の外で咄嗟に出た本能的な言葉だったからこそ、記憶に残らなかったのかも知れない。 「え〜!」 守の悲痛な叫びを背に、香奈子はそっと扉を閉める。 閉めてしまうと、練習用にと高度な防音を施した部屋の様子はまったく廊下からは知れなくなる。 この後の二人のやりとりを思うと、ちょっと守が可哀相な気もするが、きっと隆也はいつかまた、あの言葉を守に聞かせてくれるに違いないと香奈子は思う。 麻生隆也。葵と同じ高校2年生。葵ともとても仲がいいのだと教えてくれたのは悟だ。 第一、息子たちが学校で内緒にしている『4人兄弟』という事実を、あの子は知っているのだ。それだけでも葵との信頼関係が伺える。 だが…。 隆也は有名企業のオーナー社長の一人息子だと守から聞いた。 祖父にあたる人間はかなり以前から聖陵の理事を務めていて発言力も大きいらしい…というのは本日の午後、親友の中沢優子から仕入れた情報だ。 優子の息子、涼太が中学時代に隆也と同じクラスになったことがあり、その時にそれとなく耳に入ってきた話だという。 香奈子も隆也について予備情報の類を集めるつもりはなかったのだが、昇が今夜は中沢家の厄介になる――もちろん直人も一緒だ――ことから、改めて礼を言うつもりで掛けた電話が何故かそんな話になった。 やはりどこかで気にしているから…だろう。 『すっごく線が細くて大人しいお母さんだったわよ。見た目の通りあんまり丈夫じゃないって話も聞いたけど?』 ついでに優子は隆也の母をそんな風に語った。また、たまたま父兄会で隣の席になった時、『義父がどうしてもと言うので聖陵に入れましたが、本当は寮になんか入れないで手元に置いておきたかったんです』…と、涙目で切々と語られてちょっと引いた…なんてことも教えてくれた。 名門男子校である聖陵では珍しくもないことだが、隆也もまた、両親と祖父に期待をかけられている大切な『跡取り息子』――しかも一人っ子――なのだろう。 悟と葵、そして昇、守のように、自分の身と才能だけで生きていける自由な世界の人間には恐らくなり得ない。 もしかすると、守はもっとも困難な道を選んでしまったのではないだろうか。 そう思うと酷く心が騒いだが、だからといってまだ見えてもいない未来をいたずらに憂えても仕方がない。 『どの子にも幸せになって欲しい』 それは、我が身に代えても叶えたいと、ずっと願い続けてきたこと。 だから、香奈子はまた真摯に祈る。 守が、幸せでいられますように…と。 |
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