Op.2 第1幕 「遠き山に陽は落ちて」

【4】


 


 さんざんつついてみたものの、結局隆也からは何の言葉も引き出せず、守は後から母に聞くしかないか――今度こそは絶対聞き出してみせる――と気持ちを切り替え、隆也の肩を抱いてベッドに腰を下ろした。

 もちろん隆也の為に客間は用意されているのだが、せっかくここまでこぎ着けたものを、みすみす別の部屋へ帰す気など、守には端っからない。

 それは決してセクシャルな意味ではなく――今までの守を知る級友たちは驚くだろうが――本心から『一晩中話をしていたい』という思いでのことだ。

 隆也に関する情報はそれなりに仕入れてある。

 しかしそれらはすべて、隆也自身から聞いたものではなく、あくまでも人づての情報でしかない。

 守は隆也の口からいろいろな事を聞きたくて堪らないのだ。



「さっきさあ、パリへ行ったって話、出たろ?」

 だから、まずは自分の話から始めて、それから隆也に水を向けようと、守は口を開いた。

「ええと、5歳の時…ってやつですよね?」

「そう、それ。あの時さ、昇のヤツがごねてさあ」

 だからこの際兄弟もダシに使おう。

「パンなんかいやっ。僕は炊き立ての白いご飯が食べたいのっ…て、大暴れ」

 隆也が一瞬だけ驚いたように目を見開いた。そしてすぐに噴き出す。

「なんかそれ、あまりにも昇先輩って感じですよね」

「だろ?」

「で、どうしたんですか?」

 この場合の手っ取り早い欲求不満解消法としては、和食の店へ行くのが一番だろうと思いつつも守に尋ねてみる。

「和食の店にいったんだけどさ…」

 ほらやっぱりね…と思った後が凄かった。

「出てきたのが細長いタイ米でさ、こんなのご飯じゃない〜!…って更に大暴れ」

 あまりにも簡単に想像できてしまうその場面に、隆也が声を立てて笑いだす。

「で、それ以降『ぼく、ごはんとなっと以外いらない!』って、マジで何にも食わなくなっちまってさ」

「え〜!」

「仕方なく予定を切り上げて帰ってきたってわけ。ま、俺は助かったけどな。さっさと帰りたかったし」

 恐るべし、昇…といったところか。

「それ以来あっちへ行くときはレトルトの白米とフリーズドライ納豆が必需品になったんだ」

「梅干し持っていく人は多いって聞きますけどね」

「あ、梅干しも必須」

 一瞬顔を見合わせて、二人は大笑いだ。



「隆也はシャロン・ギュームって知ってるか?」

 ふと真顔になって守が尋ねる。

「ええと…はい。昇先輩の…」

「そう。昇を産んだ人だ」

 先ほどの「セシリア・プライス」の件もあって、突然の話題転換に隆也がほんの少し緊張をしたのだが。


「あの人がさ、納豆の匂いが大嫌いでさー」

 そう繋がるのか。
 まあ、外国人は総じてああいうものは苦手だろうと思うけど…と隆也は肩の力を抜く。

「7つか8つの時のことなんだけど、会いに来た昇にあの人が、『ママにキスして』って言ったんだ。昇は嫌がったんだけど、母さんに『昇、いい子ね』って言われて嫌々チュってやった途端、あの人、飛び上がって口を押さえて走って逃げたんだぜ」

 守の顔が真剣味を帯びるから、隆也も釣られて真顔になるのだが…。

「母さんも俺もびっくりしたんだけど、よく見たら昇の口の中にフリーズドライの納豆が入っててさ〜」

「ええ〜!?」

 予想外の展開に、驚く声もマヌケになってしまうのもいたしかたない。

 それはあまりにもお気の毒…と、隆也は思わず美貌のハーピストに同情してしまう。

「それ以来、昇はあの人に会う前には必ず納豆食うんだ。そうすれば近寄って来ないからってね」

 まるで虫除け…と、守は笑うのだが、隆也はちょっと不安になる。そんなにも、昇と生母は険悪なのか…と。

「あ、あんな綺麗な人なのに、近寄られるのもダメ…なんですか?」

 恐る恐る聞いてみれば、だが守は『いや』と笑った。

「昇は面白がってやってるだけさ。そもそもあいつにとってシャロン・ギュームは『面倒な存在』ってくらいで、好きとか嫌いって対象にもなってない。数年に1回会うくらいで、しかもあの人は簡単な挨拶ですら絶対に日本語を喋ろうとしないんだ。昇に向かってもね。だから昇も懐きようがないだろ?」

 それはそうだと、隆也も納得して頷く。

 そして、やはり昇と守の母は、今ここにいる美しいピアニストだけなのだと改めて思い知る。



「それに、そもそも俺たちはシャロンとセシリアの不毛な争いからできたようなものらしいからなあ」

「え? なんですか、それ」

 ついでのように呟かれた言葉に、もちろん隆也は反応した。

「ん〜。中学の頃、来日公演で来てたウィーンのチェリストから聞き出した話なんだけど…」

 今まで誰にも言っていない…そう、悟も知らない話だ。
 けれど隆也には聞いて欲しいと思った。

「あいつらさ、ハーピストとオペラ歌手っていう、音楽の中でもほとんど接点のない分野にいるにも関わらず、音楽祭で出会った初対面の15歳の時からお互い強烈にライバル意識を燃やしてたらしいんだ」

 さりげなく隆也の肩を抱き寄せる。

「だから、片方が親父にちょっかいかけたら、もう片方も負けじと迫る…って感じで、結局親父は熾烈なオンナ同士の争いに巻き込まれたってことらしい。この話を教えてくれた人は、『ヨシアキは純情で騙されやすい質だからね』って笑ってたけどな」

 それは隆也にとってもかなり意外な話だった。なぜなら…。

「なんか、想像できません…」

「そう?」

「…だって、赤坂先生ってお洒落でかっこよくて、すごく女の人にもてそうだから…」

「とっかえひっかえだと思った?」

 クスリと笑われて、仕方なく『…ちょっと』と正直に答える。いや、正直に答えると本当は『かなり』になるのだが。

「ま、うちの親父ももうちょっと男としての気概を持てよって感じだよな」

「でも、赤坂先生が男としての気概を持ってたら、守先輩は生まれてないかもしれないじゃないですか」

 思わず真面目に反論してしまう。

「お。俺に生まれてきてくれて良かったとか思ってるな」

 意味深に笑われて隆也は盛大に赤くなり、『あ、当たり前じゃないですか。そんなの…』と蚊の鳴くような声で呟いた。

 けれど、守はそれ以上踏み込んではこなくて、そのことに隆也はホッとする。

 けれど俯いてしまったから、守の口元がちょっと照れたように歪んだことには気がつかない。

 そして、守はと言うと、マジで照れてしまった自分がまたなんだか照れくさくて、ことさら茶化して話を繋ぐ。


「まあ、指揮者ってのはどんなヤツでも指揮台に立つと2割増しでかっこよく見えるからな。オフを知らないと、『赤坂良昭=名うてのプレイボーイ』って感じがするのかもな」

「2割増しって…」

 守の台詞に顔を上げ、クスクスと笑いを漏らす隆也は、だが思いついたように笑いを止めた。

「でも、光安先生は指揮台に立ってなくてもいつでも同じようにかっこいいですよ?」

「…うーん…」

 思わぬツッコミに腕組みをして考える。

 昇の尻に敷かれてる顧問は2割増しでだらしないぞ…とはいえないし、『そうだな』と安易に同意するのも癪に障る。

 ここはどう答えたものかと思案していると…。

「えへ。もしかして守先輩、悔しがってます?」

「…うっ」

 いきなりど真ん中だ。

 隆也は入学してから去年までずっと悟に憧れてきたから、あまり守には関心をもってこなかったのだが、よく考えてみると学院内のあらゆる人気投票において、光安は守にとって唯一のライバルだったのだ。

「でも…」

 隆也が小さく呟いた。

「…でも?」

 守も小さく問い返す。

「守先輩も、チェロを弾いてる時もそうでない時も、変わらずかっこいいですよ」

 言葉の途中で急に恥ずかしくなってまた俯いてしまった。

「隆也……」

 かっこいいだとか綺麗だとか、そんな賛辞の言葉は小さい時から聞き慣れてきた。なのに、今ボソッと告げられた言葉がこんなにも嬉しいのは…。



「うわぁっ!」

 バフッと大きな音を立てて、いきなり隆也の身体がスプリングの効いたベッドに沈んだ。

「せ、先輩っ」

 自分より軽く一回りは大きな守にのし掛かられて、隆也は目を白黒させている。

 ギュッと抱きしめられるのは、それなりに心地よいのだが…。



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