Op.2 第1幕 「遠き山に陽は落ちて」
【5】
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「…あ〜、悪い…」 ややあってから、これでもかというくらいの息を吐いて守がのそっと身体を起こした。 「…やば…、理性吹っ飛びそうになった…」 まだわずかに湿っている前髪をかき上げながら、気怠そうに言われても、何の理性ですか…とは怖くてとても聞けない。 第一、17歳にしてすでに百戦錬磨と言われている桐生守ともあろう人間が、いったい今の一連の行動のどこに理性を飛ばす要因があったのか、隆也には皆目見当がつかない。 しかし、そんなことをいっている場合ではない。 ここは強引にでも…。 「せ、先輩のお母さんって、素敵な方ですね」 ムクッと起きあがって何でもないような顔をして話題を変えた。 そして、守もバツが悪かったのだろう、それにすんなりと乗ってくる。 「外見はああだけど、中身は親父より男前だぞ?」 そう言われてなるほどと妙に納得してしまうのは、つい数時間前にこの家の応接間で起こった出来事に立ち会ったから…ばかりではないだろう。 「隆也の母上は? どんな人なんだ?」 守が隆也の顔を覗き込む。 かなり回り道をしたが、守にとってはこれこそが今回の『隆也お泊まり会』最大の目的――隆也のいろいろを本人に語らせる――なのだ。 「え…うちのマ…」 言いかけて、隆也は慌てて口を噤む。 高校2年にもなって『ママ』などと呼んでいると知れれば――母親がそう呼んでというから仕方なくやっているとはいえ――当分ネタにされるのは必至だろう。 案の定、こう言うことには異様に耳聡い守は、それはそれは嬉しそう――まるで鬼の首でも取ったかのよう――に、『ママの話、聞かせてくれよ』なんて、妙に甘ったるい声で言ってくれるではないか。 「うー…」 だから、思わず唸ってしまうのもいたしかたない。 けれど、今度は『俺、隆也のお母さんの話聞きたいな〜』なんてちょっぴり甘えた声で言われてしまえば、妙な意地も張れない。 やっぱり今夜の自分はいつになく素直かも…ともう一度感じて隆也は、『普通の専業主婦ですよ?』と上目遣いで守を伺う。 「顔は?」 「え?」 さらりと尋ねられたが、別に特筆するような顔でもないし…と隆也は思案する。 美人というのは守の母のような人を言うのだろうし、かといって、見られない顔というわけでもない。 そもそも自分の母親の顔の造作など気にしたことがないから。 「隆也はお母さん似か? それとも」 だが、守の問いに、ああ、そう言うことかと合点がいく。 「ええと、親戚とかはみんな、母親似だっていいます。母方のおばあちゃんに言わせると、産まれた時なんて同じ顔だった…って言いますから」 「そっか。ってことは、隆也の母上は美人なんだ」 真正面から真顔でそう言われて返事に詰まる。 確かに子供の頃から自分は周囲から可愛いと言われてきたし、中学時代はアイドルだった。 ちやほやされるのもごく当たり前のように受け入れてきて、それが当然だと思ってきた。 けれど、去年葵に出会ってから、そんなものは根こそぎ吹き飛んだのだ。 外見だけ綺麗でもどうしようもない。 そこに強くて優しい心が在ってこそなのだと気がついたから。 「僕、綺麗でもなんでもないですよ?」 外見的にも身長は伸びてそれなりに声も低くなって、自分でも『可愛い』からは完全に脱皮したと思っていたし、そもそも中身がまだまだ子供で、自分でも嫌になるのだ。 がんばっても、ちょっと辛くなるとすぐに誰かに甘えてしまいたくなる。 そんな自分にいったい守はどんな幻想を抱いたのか知らないが、こうして構ってくれて――付き合おうとまで言ってくれる。 それがやっぱり不思議でならない。 「いや、隆也は綺麗だよ。顔もだけど、中身もな」 自然な口調でそう言われて隆也は驚きに目を丸くする。 「せ、先輩、何を…」 ご冗談を…と茶化して続けようとした震える唇を、守は微笑み一つであっさりと封じ込める。 「だってお前、がんばってるじゃん。一生懸命やってるじゃん、勉強も部活もさ」 そう言われれば、確かにがんばってはいるのだけれど…とは思う。 だが。 「…そんなこと、ないです」 結果が出せなければ意味はない…と昨日も怒られたばかりなのだ。 「ん? 何で?」 優しく問われて思わず縋るように見上げてしまった。 「まだまだダメだって言われて…」 そして、小さく落ちた呟きに、守はその肩にそっと手を回し、誰に?…と続く言葉を誘導する。 隆也はそっと息を吐き、守相手に虚勢を張っても意味はないか…と、口を開いた。 「…祖父、です」 その言葉に守がひっそりと眉を寄せる。 学院で最も古株の理事である隆也の祖父は、社会的地位も高い所為か発言力も強く、現院長だからどうにか御せられるのだ…という評判を聞いたことがある。 その他、漏れ聞く噂だけを鵜呑みにするとすれば、相当に厳しい人…ということになろうか。 「…今年、首席になったことは誉めてもらえたんです。けれど成績がなかなか10番台に乗せられなくて、昨日家を出る前にも部屋に呼ばれて、2学期中には必ず10番台にするようにって…」 そう言って俯いてしまった隆也の肩を、守がポンポンとあやし、殊更明るい声で「でもさ、試験の成績ってさ、結局相対評価じゃんか」などと言い放つ。 そして、何のことだと、きょとんと見上げてきた隆也の頭をヨシヨシ…とばかりに撫でる。 「例えば俺たちの学年は悟が万年一番だろ? ちなみにあいつの1学期末の点数は満点マイナス10点。でもさ、これがもし葵と同じ学年だったらどうだと思う?」 「…ええと…」 「葵も浅井も…3番の古田でさえ、毎回ほとんど点数取りこぼさないだろ? まあ、同じテストを受けた訳じゃないから比較そのものが成り立たないっつたらそれまでだけどさ、でも悟が同じ学年だったら、もしかしたらあいつ、4番かもしれないじゃん」 それはかなり乱暴な論法ではあるが、妙に説得力はある。 ただ引き合いに出されたのが悟だからピンとこないだけで。 「ちなみに隆也の1学期末の結果は22番」 「…えっ!?」 何でそんなことまで知ってるんですかとちょっと涙目になってみれば、しれっとした顔で、中間は25番、その前の1学年末は32番…などと言ってくれるではないか。 「だからさ、お前がもし、もう一年上か下だったら、同じ点数でも今回は10番台だったかも知れないだろ?」 ――それってかなり無茶苦茶ですよ、先輩…。 涙目のまま、そう思ったけれど、守はそんな隆也の考えもお見通しかのように笑って見せた。 「がんばっても、時の運によっては結果が順位に現れてくれないこともある。でもさ、やったことは全部、ちゃんとお前の中に蓄積されていくんだからさ」 だから隆也はそれでいいんだ…と、柔らかく励まされて、隆也は頬を熱くする。 守に言われるとなんだか本当にそれでいいような気になってしまう。 けれど、それでは祖父には認めてもらえない。 小さい頃からずっと言われてきたのだ。お前はいずれ企業の頂点に立つ人間なのだから、誰よりも優秀でなければいけないのだと。 「隆也が大きな会社の跡継ぎだってことは知ってる」 「…先輩…」 「期待されてるんだよな。周りから」 それは、気遣うような声の掛け方で、隆也は思わず眩しいものを見るように守を見上げてしまう。 どうしてこの人はこんなにも自分の気持ちを上手く掬い上げてくれるんだろう…と。 「人ってさ、掛ける期待が大きくなればなるほど、知らずに自分の気持ちばっかりを押しつけちまうところってあるよな。それがプレッシャーに変わっちまうことに気がつかないでさ」 言われて隆也は小さく頷く。 その、ちょっと幼げに頼りない仕草が胸に堪えて、守は壊れ物を扱うかのように、成長期とはいえまだまだ華奢な身体をそっと包み込んだ。 この腕の温もりで、少しでもその心が和らげば…と願いながら。 「でもさ、きっとお祖父さんは隆也のこと可愛いんだって」 「…そう、かな…」 「きっと自慢の孫なんだぜ? 外へ行ったら写真とか見せびらかしてさ、顔もいいし頭もいい…なんて言ってるに決まってるって」 そんな…と小さく頭を振って呟くが、わざわざ鹿爪らしく引き結んだ口が照れを隠すものだというのは見え見えだ。 隆也はきっと、本当にそうだったらいいのにな…などと思ってるのだろうが、守はこの場凌ぎの嘘を言ったつもりなどない。 隆也の人となりをよく知らなかったときには、ただ、その可愛らしさからちやほやされるのが当たり前になっている気まぐれなお姫様…程度の認識しかしていなかったが、葵のあの一件で守は麻生隆也という後輩が、どこまでも真っ直ぐで、怒りも真正面からぶつけてくるが、自分が悪いのだと認めたときもまた、真っ直ぐにその事実を受け止める強さを持っているのだと知った。 こんなに真っ直ぐな人間は、きっと愛されて育ってきたに違いないのだ。 だから大丈夫。きっと上手くいく。 そんな思いを込めながら、守は隆也の背中をゆっくりとさする。 その大きな掌のぬくもりに安心したのか、隆也が僅かに力を抜き、綺麗な額をそっと肩に預けてきた。 愛おしさが、募る。 隆也の父親がオーナー社長である企業は、世間的に『大企業』に属する部類のものだ。関連会社もいくつかあって、それらのトップは大概親族の者だと聞いた。 いずれそれらの頂点に立つべく、隆也は大学に進み、社会へ出るのだろう。 今は重圧に怯えているけれど、きっと隆也ならいつかその足でしっかりと立ち上がり歩いていくに違いない。 守が初めて、その未来をも視野に入れた相手。 『今だけ楽しめればいい』なんて、これっぽっちも思えない。 叶うことなら、ずっと寄り添っていきたい。 だが…。 想い人を腕にしながらも、守の内のどこかがざわめいている。 小さな小さな不安の芽が、そっと頭をもたげる。 一族の期待を背負う隆也。 自分と二人で生きていく…という未来は、今はまだまったく見えては来ない…。 「そう言えば!」 なんだか妙にいい雰囲気になってきて、守がちょっとだけならいいかな…なんて頭の片隅に不埒な思いを過ぎらせたとき、隆也が突然声をあげた。 「昇先輩の恋人って誰ですか?」 ――くっそう〜、昇のヤツ、いいところで邪魔しやがって〜。覚えてろよ〜。 濡れ衣もいいところだ。 「お。その気になったか」 「は? なんですか、その気って」 だが守は転んでもタダでは起きない。 「誰がただで教えるっていった? 俺、言っただろ。教えて欲しかったら…ってな」 ウィンクされて、隆也は盛大に赤面した。 |
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