Op.2 第2幕 「汝、空の彼方の星よ」
【2】
![]() |
「お疲れ〜」 消灯点呼15分前。 漸く戻ってきた守を東吾が問題集から顔を上げて出迎える。 一年半前。 2年になったばかりの頃の守は点呼にだけ顔を出し、あとはどこへやら…という状態が常だったのだが、今やすっかりその『夜遊び』はなりを潜め、当たり前のように部屋にいるのが常になった。 そのことについて、東吾が思い当たることと言えば一つしかないのだが…。 「あ〜。さすがに劇と演奏会の2本立てはキツイ〜」 ただいま…と言った後、そんな風にぼやいて守はベッドにドサッと倒れ伏す。 もちろん守にとって演劇コンクールと聖陵祭コンサートの2本立てはこれで3年目だが、やはり『ソリスト』となると責任の重さが違うんだろうな…と東吾は、手足を伸ばす守をジッと見つめる。 ――だって去年は平然とこなしてたもんなあ。 だが『キツイ』と言いながらもその表情は明るく、まさに充実感を漲らせていると言っていいだろう。 だから東吾は思いきってここのところずっと抱いてきた疑問を口にすることにした。 「ところでさ、守」 椅子をくるりと回転させて守のベッドへ真正面から向き直る。 「何だ、俺の可愛い子猫ちゃん」 ん?…と片目だけを開いて東吾を見る。 「…殴るぞ」 言うに事欠いて、東吾が一番嫌がる表現で茶化してくる守に、これまた切り返す言葉がお約束のように出てきてしまうあたり、情けないが。 「はいはい。ごめんごめん」 「はいもごめんも一回でいいっ」 そこまで言うと、守は漸くしっかりと目を開けて東吾に向き直るべく身体を起こした。 「で、なんだ?」 口調だけは真面目だが、表情はいつものように柔らかく、東吾の視線を正面からきちんと捉える。 だから東吾もまた、その視線を真っ直ぐに見つめて…。 「…お前さあ、マジ、なわけ?」 「何が?」 「ええと、その、噂になってるけどさ…」 相変わらず密かに語られ続けてはいるが、大概の人間は認めたくないが故に否定的な態度を取るあの、噂。 高等部に上がったとき、『俺の一番のお気に入り』と、守が東吾のことを表現したときには大騒ぎになった。だが、守自身があっけらかんと語った所為なのか、否定的な意見はほとんど聞こえてこなかった。 しかし今回のことは依然として守本人の口からは何も語られず、ただ静かに噂だけが潜行しているから、余計に信憑性を増している…といったところだろうか。 「隆也のことか?」 名前を口にした瞬間、わずかに目尻を下げて微笑んだ守に東吾が思わず怯んだ。 「…そう、それ」 「マジだよ」 あっさり肯定されて少なからず驚く予定だったのだが、先ほどの表情の変化がもうすでにこの答えを東吾に予測させていた。 それは、「その名を口にするだけでも嬉しい」と言わんばかりの、あまりにも優しく暖かい微笑みだったから。 「…そっか」 だからつい、照れくささも手伝って、そっけない返事になってしまったのだが。 「おい、なんだよその『気のないリアクション』は」 守が小さく噴き出す。 「いや、その、マジならマジでいいんだ。…ちょっと驚いたけどさ」 東吾もやはり、周囲の大方の意見同様、守が『誰か一人に決める』とは思っていなかったから。 いずれはそんな日も来るのだろうが、それはまだまだ先の話だと勝手に決め込んでいたと言うこともある。 けれど、守のこの決意に東吾は素直に喜びを覚える。 楽しく遊び歩くのもいいけれど、一人ときちんと向き合えるのは、それはそれは素晴らしいことだから。 そして、自身が「思い人と向き合う為」に随分遠回りしてしまった経験を持つ東吾にとって、守のこの真っ直ぐな瞳に、守らしい潔さを感じて頼もしくも思う。 「でもさ、麻生も幸せもんだよな」 守にこんな表情をさせるくらいなのだから、本当にベタ惚れなのだろう。 「え? そう? そう思う? やっぱりな〜そうだよな〜」 そして、守が『守らしい』のはこういうところだ。 こういった場面で『いや、そんな』と謙遜して見せたことなど一度もない。 ただ、守の場合は自分の「見てくれ」などだけに自信をもっているわけではない。 彼自身が重ねてきた努力の上にそれがあるからこそのことだから、誰もがこんな守に一目おいて、慕うのだ。 ――つくづく大きな男だよな、お前って。色んな意味で。 同じ男として誰もが羨望を抱かずにはいられないであろう、桐生守と言う男。 こんなヤツのダチでいられてよかったな…と思うけれど、そこまで教えてやる親切心は持ち合わせていない。 東吾の天の邪鬼は守もよく知っているだろうから。 しかし、それにしても。 「俺さ、麻生と接点ないから、どんなやつなんだか全然知らないんだ。ただ、ほら、入学してきたときからすっげえ可愛くて目立っててさ、取り巻きなんかがいたのは知ってるけど」 親友の幸せは諸手をあげて応援したいところだが、疑問はまだ残っている。 「入学してきたときからすっげえ可愛くて目立ってたのはお前もだろう?」 だが混ぜっ返されて思わず声が尖る。 「は? ばっかじゃねえの。俺のどこが可愛くて目立ってたって言うんだよっ」 その様子に、守は噴き出したいのをグッと堪える。 東吾は本気で言っているのだ。 周囲は『東吾の部屋に鏡は無いのか』とよくからかうのだが、この可愛い子猫ちゃんはまったく自分の容姿に自覚がない。 バリバリの体育会系のクセに『カワイコちゃん』という見てくれがコンプレックスだからなんじゃないか…と分析する輩もいるのだが、実はそうではなく、東吾はそもそも自分の容姿に関心がないのだ。 おまけに容姿だけでなく、鍛えてあるとは言うものの身体つきは華奢にできているし、なによりその骨格に見合った可愛らしい声がツボなのだ…とは周囲の声だが、そのどれを取っても東吾にはまったく無自覚なことで、真剣に東吾の身辺を警戒している者――特に彼の年下の恋人など――にとっては何とももどかしい話ではあるのだが。 「ともかくだ」 俺のことなんかどうでもいいんだと言わんばかりに東吾が椅子ごとズズッと詰め寄ってくる。 「なんで今、麻生なわけ?」 そう、これこそが東吾の最大の疑問だ。 確か麻生隆也は中1の時から管弦楽部にいたはずだ。ということは、二人は知り合ってからすで4年以上が経過しているということになる。 なのに今までなにもなくて、どうして最後の年になって隆也なのか。 きっかけはいったい何なのか。 それが知りたい。 ところが、守の答えに東吾は素っ頓狂な声をあげることになる。 「最近急にってわけじゃないぞ。去年の夏頃からだから…、かれこれ1年くらい片想いだな」 「はあっ? 片想いぃ〜?」 「…何をそんなに驚くわけ? とーごちゃん」 去年の夏から…というのもちょっとオドロキだが、それ以上に…。 「だってだってだって! お前が片想いなんてそんな…」 あり得ない…と、半ば呆然と呟く東吾に、守は小さく肩を竦めて見せるしかない。 「ま、あと一押しだと思ってるけどな」 『あの』桐生守がよりによって『片想い』。 しかもすでに1年が経過しているとはいったい何事が起こったのか。 …もしかして。 「お伺いしますが」 「うん?」 「まさか、桐生守氏ともあろう御方が今までアプローチをなさらなかったとか?」 アプローチをしていなかったのなら話はまだわかる。 しかし、それに関しても『守に限って』という思いが拭えない。 すると案の定、答は予想通りのものだった。 「はあ? アプローチもせずに柱の影からそっと見つめるだけってか? それ、俺のキャラじゃないだろ」 ――そうです、その通りでございます。 思わず内心で、正座した上で頭を下げてしまった東吾だが、そうするとなおのことわからない。 守にアプローチされて『落ちない』人間とはいったい。 いや、自分だって守にアプローチされたところで落ちはしないが。 「あのさ、もしかして『難攻不落』だから燃えてる…とか?」 そう。簡単に落ちない獲物だからこそ面白い…という恋の仕方をする人間もこの世にはいる。 現に自分もそう言う誤解の所為で、恋人と何年もすれ違ってしまった――今やラブラブだから、終わりよければすべて良し…だが――から。 「まさか。出来ることなら苦労なんてしたくないって」 飄々と言うところがまた説得力がないのだが。 「俺だってさっさとラブラブハッピーエンドになりたいんだぜ?」 片目を瞑って言われても、ますます説得力がない。 が、裏を返せば守はそれなりに苦労しているらしい…ということだ。 そうなると理由はただ一つしか思いつかない。 隆也が『守ではダメ』と思っている…ということだ。 「…ってことは、麻生はお前のどこが気に入らないわけ?」 そう言う人間の存在を聞いたことがないので、ここは一つ後学のためにも『麻生隆也が桐生守になびかないわけ』を聞いておきたい。 99%は好奇心だが。 「いや、気に入らない…とかじゃなくてさ」 これでも結構仲良くやってんだぜ…と肩を竦めた後の守の言葉は東吾にとって予想外のものだった。 「あいつ、好きな奴がいるんだ」 「ええっ?!」 「…なんでそんなに驚くんだよ」 「や、だって…」 目を見開く東吾の様子に、守は珍しく小さなため息をついた。 「でもさ、相手にはもう決まった恋人がいてさ。そっちはもうどう転んでも絶対別れたりすることないからさあ、絶望的なんだぜ? まあそれでも一途に思い続ける姿に俺は惹かれたんだけどな」 最後にポロッと出た言葉こそが、東吾の知りたかった『何故今、麻生隆也なのか』の核心部分なのだが、東吾の意識はすでに他へ飛んでいる。 「…絶対別れない…ってくらい出来上がったカップルなわけ?」 それなら隆也も報われない恋をしていると言うことだ。 「ああ、お前も知ってるじゃん」 「え?」 次に出てきた言葉はさらに衝撃の一言だった。 「隆也の思い人は俺の弟だ」 「はあっ?!」 守の弟と言えば一人しかいない。 世間的にはまだ公表されていない、当学院一のスーパーアイドル、その人だ。 「麻生が奈月を?」 「そういうこと」 肩を竦めてみれば、東吾は目を見開いたままで『それって、ビジュアル的にどうよ』と呟いた。 「へ? ビジュアル〜?」 予想外、しかも意味不明のリアクションにさすがの守も『なんだそりゃ』と呻く。 だがこの時すでに東吾の頭の中では『ジュリエットと紫の上』の濃厚かつ不毛なラブシーンが展開されていて、守の呻きなど耳に入らない。 「おいおい、とーごちゃん」 ショックが大きすぎて飛んじまったか…と、守は苦笑しながら東吾の頭をヨシヨシと撫でる。 「ま、そんなわけだ。聖陵祭までには決着つけようと思ってるからさ、応援頼むな」 そう言うと、東吾は『うんうん』と真剣な表情で頷いてみせたのだが…。 「…でも、ロミオと光源氏よりマシだよな」 頭の中で、守と悟が絡み合う姿を思わず想像してしまい、東吾は大きく頭を振った。 そんな東吾に、守は『やれやれ』と小さく笑う。 そして、間もなく守の表情から笑顔が消えることになろうとは、この時はまだ予想だにできないことだったのだ。 |
END |