Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」

【1】





 9月はまだまだ暑い。

 幸い音楽ホールは冷暖房完備で、その点では恵まれているのだが、その分、一歩外へ出たときの不快感は一言で言い表せないものがある。

 その上、予想もしなかった人物の突然の来訪とあれば、不快指数もますます上がろうと言うものだ。


 ――…ったく、なんだってんだよ。いきなり現れるなんて、人の迷惑も顧みずにっ。


 珍しく本気で腹を立てているのは守。

 すれ違った生徒たちが、掛けようとした声を思わず引っ込めてしまうほどに、その表情は硬い。

 部活の終了時に顧問から『ちょっと来い』と呼ばれ、『面会室にお客だそうだ。行ってこい』と耳打ちされたのだが、それだけではこうも腹は立たなかったろう。

 だが、光安が告げた来訪者の名前はあまりにも意外で、一瞬言葉に詰まったほどだ。

 そして光安の表情にもまた不信感がありありと表れていて、心配そうな声色で『ついていこうか?』と言われたのだが、どうせ話の内容は決まっているから、その申し出は丁重に断った。

 もしかすると、夏のあの一件について謝罪にでも来たのだろうかとチラッと考えたが、光安の様子からして、この来訪が母・香奈子の知るところではないのだろうと推察すると、その可能性は皆無だな…と言うところに行き着いて、また余計に腹がたつ。





『久しぶりね、マモル』

 それなりに設備の整った清潔な面会室のソファーに、突然の来訪者は優雅に足を組んで座っていた。

 どうやら一人のようだ。先日の弁護士の姿はない。

『何の用ですか』

 挨拶もへったくれもない。名前を呼んでやる気も毛頭ない。

『少し見ない間に随分大人になったわね。よく顔を見せて』

 だが、敵も然る者。そんな守の反応などとうにお見通しだと言わんばかりに華やかに微笑んでさえ見せる。

『あんたに喜んで見せる顔なんてないよ。いいからさっさと用件言ってくれ。俺、腹減ってんだ。さっさと寮に帰りたいんだけど』

『用件、言わなきゃわからないの?』

 瞳が猫のようにスッと細くなった。


 オペラ歌手という職業柄か、その長身の所為か、女性にあるまじき威圧感のある美人の名はセシリア・プライス。守の生みの母である。


『その件ならお断りだと伝えたはずだ。あんたんとこの弁護士は伝言もろくに出来ないのか?』

 しかし守の皮肉にもまったく動じた様子を見せず、セシリアは優雅に足を組み替えた。

『もちろん一言一句、しっかり報告は受けたわ』

『じゃあ、そう言うことだ。こんなとこまで来てもらって収穫ナシで申し訳ないけどさっさと帰ってくれ。あんただって忙しいんだろう? 時間の無駄だ』

 そう言い放って踵を返した守に背後から掛かった声にはもう、笑みはなかった。

『待ちなさい、マモル』

 その語気の強さに思わず守の足が止まる。

『いいから座りなさい。それとも何? 私が怖い?』

『…はっ。ばかばかしい』


 乗せられたというのはわかっている。
 しかしここで振り切るだけでは何の解決にもならないような気がして、守は仕方なく振り返り、心底面倒くさそうにソファーに腰を下ろした。

 そして、正面の美人を睨み付ける。

 その視線を真正面から受けて、セシリアは打って変わった厳しい表情で話し始めた。

『マモル、いい? 冷静に考えなさい。プライス家の財産は莫大なのよ。あなたはそれを相続出来るたった一人の人間なの。このままカナコの所にいてもあなたには何も残らないのよ? あのうちにはサトルがいるでしょう。今はいいけれど、カナコがいなくなったらあの家も財産もすべてサトルのものなのよ?』

 家や財産。いや、そんなものよりも、桐生家には最終的に『悟』という存在しか要らないのだ…と、そう告げることで守の揺さぶりを計ろうとするあたり、セシリアが練ってきた策略の狡猾さが伺える。


『それがどうしたんだよ』

 だが、思っていたほど効果は上がらなかったようだ。守は顔色一つ変えない。

『だから、プライス家の…』

『他人の金に興味なんかねーよ』

 桐生家の財産にもまったく興味はないが。

 執着があるとしたら、香奈子に買ってもらった愛器のチェロだけだ。
 中学に入った時に入手してもらったそれは、当時の年齢にしてはとても分不相応な名器だったが、その名器に恥じない弾き手になれるように、ずっとがんばってきたのだ。
 
 だからあれだけは誰にも譲れないが、その他の財産にはまったく興味はない。いや、そもそも何がどれだけあるのかすら知らないのだから。


『他人じゃないわ。あなたを産んだのは私よ』

 だが、その一言が守の堪忍袋の緒を簡単に切った。

『あんた、なんか勘違いしてない?』

 怒気に満ちた低い声。

『産んだとかなんだとか、あんた、自分の意志ですべて事を運んできたような顔してるけどさ、そもそも俺が出来たこと自体、あんたの意志じゃないだろう?』

『マモル…』

『けどな、俺が今、自分が『桐生守』でいること、『桐生香奈子の子』であることは、紛れもない俺の意志だっ』

 そう言い放ち、揺るぎのない強い瞳をジッと見つめたセシリアは、やがて深いため息をついた。


 しかし、『諦めたか』…と、そう思った瞬間、最期のカードが切られた。


『タカヤ…と、一緒にいたくない?』

『…はぁ?』

 いきなり出た名前に、セシリアの言う『タカヤ』と、想い人である『隆也』が守の中ですぐに結びつこうはずがない。

『ちょっと調べさせてもらったわ。あなた、あの子のこと好きなんだそうね』


 表情を変えずに淡々と続けるセシリアに、漸く守は『タカヤ=隆也』だと認識する。

『…それがどうした。アンタに関係ないだろ』

 男同士で何を…とか、そんな話なら当然聞く耳はもたないし、そんなことで今さら何を思うこともない。

 だが、次にセシリアが告げた言葉は守の予想を遙かに越えていた。


『あの子の実家、ちょっと名の通った会社のようだけど、どうも危ないようよ』

『…え?』

 何の話だ…守は訝しむ。内容があまりに唐突だ。

『あなたの考え次第では、助けてあげることもできるわ』

『…どういうこと、だ』

『経済的援助が出来る余裕がこちらにはある…と言うことよ』

 それだけ言うと、セシリアはあっさりと立ち上がった。

『そろそろ時間だわ。よく考える事ね、マモル』

 そうしてさっさと出ていこうとする後ろを慌てて追い、廊下に出たところに思わぬ人影があった。



「ちょっと、これ、どーゆーこと?」

 不機嫌を露わにして、長身のセシリアを睨み付ける3ヶ月違いの兄の姿に、守は『なんでこんなところに』と頭を抱えるのだが、情報の出所はあそこしかない。


『まあ! ノボルね。相変わらず可愛いわね。ちっとも成長してないし』

「…なんて?」

 見下ろしながら不遜な態度で話しかけられても、昇にはほとんど意味不明な言語――英語なのだが――だ。
 だから不本意ながら守に通訳してもらうしかない。


「相変わらずちっこくて可愛いとさ」

「ほっとけ…って伝えて」

 わざわざ尋ねた結果がこれか…と、昇の不機嫌指数はますます上がる。

「あのな、昇。いくら平均点ぎりぎりだからって、これくらいの英語、喋れよ」

「これがスルッと喋れたら平均点ぎりぎりじゃないよ」

「開き直るな」

 こんなところでツッコミあっている場合ではないのだが。


「いいから、伝えてよ。あ、ついでに『こんなとこまで何しに来たんだ、さっさと帰れ』…ってのも言って」

「ああ、それはもう言ったから…」

 …疲れた…と滅多に感じない疲労を背中に自覚しながら、仕方なく守はセシリアに向き直る。

『ほっといてくれ…ってさ』

 そして、その言葉にセシリアは形のいい眉をつり上げた。

『ま。さすがシャロンの子ね。可愛げないったら』

『それ、母さんに伝えといてやるよ』

『あん! ダメよ、カナコには言わないで』


 なんだかんだ言っても、香奈子には頭が上がらない。
 母としても、女性としても、そして音楽家としても。

『あら、時間だわ。急がなきゃ』

 言いたいことだけまき散らかして、さっさとセシリアは駐車場の方へ駆けて行ってしまった。





「…でさ、いったいなんだったわけ?」

 口を尖らせて昇が言う。

「…単なる嫌がらせ」

 もうすでに、まともに説明するのも億劫だ。

「はい〜?」

「それよりなんでここがわかった」

 聞くまでもないのだろうが一応確認のため聞いておく。

「決まってんじゃん、直人だよ。あのオバサンがいきなり現れたもんだから、えらく心配してたんだけど、まさか呼ばれもしないのに教師が乗り込むわけにいかないじゃん? だから僕が来てあげたってわけ」

「なるほどね」

 確かに兄弟ならば押し掛けてきてもなんら不審なことはない。


「もっかい聞くけど」

「うん?」

「あの人何しに来たの」

 昇は守に向き直り、その瞳をジッと見つめて尋ね直す。

 その瞳から視線をフッと逸らし、守は大げさに肩を竦めて見せた。

「“ご機嫌伺い”って名目の嫌がらせだろ」

「…マジ?」


 まだ不審そうな昇に『ほんと、ほんと』と言いながら、守は今はまだ言わないでおこうと心に決める。

 言えばきっと、昇だけでなく、悟も葵も心配するだろう。

 どうしようもなくなった時には助けを求めるかもしれないが、これから事態がどう動くかわからない段階では、自分一人の心に留めておくのがもっとも賢明な気がする。

 何より、隆也の実家についての、あの不確かな情報を確認するのが先だ。


「あ〜。冷たいビールが飲みて〜」

 いつにない怠さを感じ、大きく伸びをしながら守が呻く。
 校内だということをこれっぽっちも気遣っていないあたり、守らしいと言えるだろう。


「…あるけど」
 秘蔵のだけどね…と続けても、そんなこと守は聞いてやしない。

「えっ? どこにっ?」

 そして、去年の夏以来、その手のやんちゃをしなくなった昇の口から返ってきた意外な答えに、守の目が輝く。


「我が111号室のミニ冷蔵庫の中」

「え〜。よく真路に見つからずにすんでるなあ」

 昇のルームメイト。浦河真路は現生徒会長だ。

「…だって、真路のだもん。それ」

「…へ?」

「ギネスのスタウトだよ? 真路に掛け合ってやるから譲ってもらえば?」

 いつもの昇なら『もったいないから、あげない〜!』なんて言うところだろうが、やはり『生みの母の突然の来訪』というあまり『歓迎できない事態』を受けて、心底疲れている守の様子が昇なりに堪えているのだろう。

 いつになく気を遣った風にそう言われて、守は『そりゃありがたい』と素直に喜ぶ。

 ここで『いや、そんなの悪いよ』と遠慮してみせるタマではないのは言うまでもないことだ。
 もちろん『なんで生徒会長がそんなもの持ってるんだよ』なんていう無粋なことを言うつもりも毛頭ない。


 そして、隆也のことは週末にでも母に電話で頼んでみようと考えた。

 母・香奈子はその職業柄かとても顔が広い。
 後援会にも経済団体のエライさんなどがいたはずだから、隆也の実家についてもそれとなく情報を得てくれるのではないだろうかと期待してのことだ。


 ――とりあえず、今夜はビールだな。


 いつもの守らしくポジティブに物事を変換して、また一つ大きく伸びをした。


 だがその前に、事態が大きく動くことになる。

 翌日の放課後。

 合奏中の音楽ホールに最初の影が落ちた。



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良い子のみなさん。日本の法律では、お酒は18歳20歳になってからです(笑)

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