Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」

【2】





 それは、僕がここ聖陵学院に入学して初めて見る事態だった。

 放課後の音楽ホール。

 ここでメインメンバーが合奏している最中は、たとえ用があるのが学院長でも合奏を止めたりはしない…っていうのがここでの常識だったりする。

 合奏が一段落するのをジッと待つしかないんだ。合奏練習っていうのは、それほど集中力を必要とすることだから。

 そして、これは入部して半年もすれば誰もが自然と知ることになるんだけど。 



 けれど、その日は違ったんだ。

 まさに合奏も佳境というところで、僕の視界の上方に光が入った。

 客席後方のドアが開いたんだ。でも、それは時々あること。でも誰かが入ってきても、合奏中なら一段落するまで客席で待ってるはず…なんだけど。


 後方ドアを開けたらしき人影は、そのまま凄い勢いで客席の階段を駆け下りてきたんだ。

 そして、そのまま舞台下まで辿り着くと、なんと指揮を振ってる最中の光安先生のズボンの裾を引っぱったんだ。

 先生のすぐ横にいる昇が目を丸くして驚いている。

 もちろん、昇だけじゃなく、その様子が見える所にいた奏者はみんな驚いたんだけど。
 司なんて、口開いてるし。


 そして、僕ら以上に驚いたのは光安先生。

 背中を向けていた所為で、近づいてきた人影に気がつかなかったんだろう。

 いきなりズボンを引っ張られて、危うく指揮棒を取り落とす所だったくらいだから。

 で、当然指揮が止まったら合奏も止まってしまって…。



「なんだ?」

 僕の右隣から祐介が小さな声で耳打ちしてきた。

「わかんない。誰だろ?」

 客席は暗いから、顔がはっきりわかんない。辺りがざわざわしてきた。

「斎藤先生みたいだね」

 そう言ってきたのは僕の左隣にいる、アニー。


 それならなおのこと、驚きだ。
 だって、寮長の斎藤先生は、光安先生とも随分親しくて、管弦楽部の『不文律』もよく知っているはずだから、滅多な用事ではこんなことしないはずで…。



 ざわめきが広がる中、光安先生が指揮台を降りて舞台にしゃがみ込んだ。

 僕の席からは、弦楽器奏者の隙間からチラッとしか見えないんだけど、どうやら舞台下から斎藤先生が光安先生に耳打ちをしているようだ。


 ふと見ると、斎藤先生の後ろから悟がやってきた。

 2階席で合奏を聞いていたはずの悟なんだけど、多分この異常事態に降りてきたんだろう。

 そうこうしているうちに、光安先生が舞台から飛び降りた。


「先生。代わりますから」

 そう言った悟に『頼む』と短く告げて、二人の先生は客席の後方へ行ってしまった。


「静かに」

 かなりざわめいていた舞台上なんだけど、悟の穏やかで良く通る声が一言でそれを制した。


「今止まったところから8小節前。練習記号Eからもう一度」

 そして、合奏はまるで何事もなかったかのようにまた再開されて…。

 でも、それも5分と保たなかった。ううん、もっともっと短かったと思う。
 だって今度は、客席後方へ移動していたはずの光安先生が走ってきたんだ。


 先生は舞台下まで来たところで、大きな掌を数回叩いて合奏を止めた。

「予定変更だ。とりあえず合奏を中止して、パート練習に切り替える。詳しい事情は追って知らせるから全員速やかにそれぞれの練習室に移動! 急げ!」

 突然のことに、今度こそあちらこちらから『なんだろう』『どうしたんだ?』っていう疑問の声が上がる。

 でも、光安先生の言葉はいつも絶対だから、ざわざわと会話を交わしあいながらも、みんな楽器と楽譜を持って立ち上がる。


 そんな中、光安先生が『麻生、ちょっと来い』と小さい声で言ったのを聞いたのは、僕が偶然側を通ったからで、ホールを出て練習室に移動するとき、光安先生と斎藤先生に囲まれてホールのロビーから外へ出ていく隆也を見たのもまた、偶然のことだった。

 その後聞いた話によると、セカンドヴァイオリンは首席不在のままパート練習を終えたらしく、夜になっても隆也の姿は寮内にない。



                  ☆ .。.:*・゜



「隆也、どうしちゃったのかなあ。晩ご飯にも来なかった…」

 時間はもう午後9時を回っている。

 僕の呟きに、周りのみんなも改めて壁の時計で時刻を確認してたりして。

 僕たちがたむろしている3階のここは、2年生専用の談話室で、試験を控えていない今は結構な賑わいだ。

 そんな中、僕は祐介の隣に座り、そして周りにはずらっと管弦楽部の同級生が固まってる。

 みんな一様に心配顔だ。

 なぜなら、あれ以来隆也の姿が消えてしまったからなんだ。
 部屋にももちろん戻っていない。夕食にも姿を見せなかったし、校舎はすでに施錠されていて誰も入れない状態だし。



「そう言えば、昨日緊急理事会があったって知ってるか?」

 隆也のルームメイトでヴィオラ弾きの明彦の言葉に、みんな『そんなの知らない』って首を横に振る。

 そもそも理事会ってのは一般生徒なんかには全然関係ないところにあって、いつ、どんな人たちが集まっているのか…なんてのは、生徒会――しかも会長・副会長くらい――の人たちしか知らないこと…らしいし。


「それがなんか関係あるのか?」

 茅野くんが尋ねると、明彦は『ほら、隆也ってお祖父さんが理事じゃん? なんか放課後応接室に呼ばれてるって暗い顔してたからさ』…とこれまたルームメイトらしい、気になる情報を漏らしてくれる。


「…やっぱりなんか関係あるのかなあ…」

 僕の大切な親友の一人である隆也の、理由不明の不在に僕の気持ちはどんどん塞がってくる。


 なんだか、嫌な予感がするんだ。

 合奏を止めた斎藤先生、その後、再び合奏を止めた光安先生。

 二人の表情に、いつになく緊張感があったような気がするのは、不安から起こる僕の考え過ぎ…なんだろうか。

 ホールを後にする隆也の表情は、背後だったから全然見えなかったし…。

 でも、あの足元は妙に急いでなかっただろうか。


 …って、考え出したらキリがない。





「おい、下の食堂に翼ちゃんたちがいるぜ」

「え?」

 食堂の自販機へ行ってたんだろう、缶コーヒーを手にした同級生が談話室に入ってくるなりそう言った。

「どういうことだ?」

 すかさず祐介が尋ねる。


 僕らの担任、翼ちゃんは、自宅通勤――徒歩5分だけど――で、校内には住んでいない。

 校内合宿中ならともかく、こんな時間に校舎内ならまだしも、寮内にいるなんて見たことも聞いたこともない。


「翼ちゃんだけじゃないぜ。2年の担任勢揃いだった。…あ、吉村先生はいなかったけど」

 吉村先生っていうのはB組――隆也のクラス――の担任の先生だ。


「なんでこんな時間に…」

「しかも寮内だぜ」

 みんなそれぞれに考え込んだんだろう、一瞬静かになる。


「で、先生たち、何してたんだ?」

 茅野くんが聞くと、情報源のクラスメイトは『テレビ見てた』なんてなんとも間抜けなことを言ってくれる。


「テレビ〜?」

「どうして、校外に住んでる先生たちがこんな時間に寮食でテレビ見てんだよ」

「んなの、知らねえよ」

 聞きたいのはこっちだ…と、息巻く同級生に、祐介が『落ち着けよ』って声をかけ、何とかその場の雰囲気は収まったんだけど…。




「なあなあ。1年と3年の担任たちも来てるぜ」

「ええっ?」

 さっきの『翼ちゃんたちがいる』って話を聞いて様子を見に行ってきたんだろう、別の同級生がまた新しい情報を持って現れた。


「…どういうことだ…」

 この尋常でない状態を受けて、談話室が異様な空気に包まれる。


「おいっ、各クラスの委員長が食堂に集められてるみたいだ!」

 そしてまたもたらされた情報に、誰もがこれはおかしい…と思ったとき、聞き覚えのある名前が、つきっぱなしになっていたテレビから流れてきた。


 若い男性アナウンサーが淡々と告げるのは、今日の午後、大きな企業のトップが都内の自宅で首を吊っているのが発見されたと言うニュース。


「おいっ。これって麻生んちの会社だぜ」

 誰かがそう言ったとき、アナウンサーは『その人物』の死亡が確認されていると言った。


「…隆也の、親父さんだ…」

 ポツッと、明彦が言った。


 …隆也がいなくなったのは、これ、だったんだ…。


 斎藤先生と光安先生の行動。二人に連れられていった隆也。そして今、先生たちが下に集まっている理由。全部、これ…だ。


 僕は急に寒気を感じてギュッと縮こまる。そんな僕の肩を祐介がきつく抱きしめてくる。
 でも、その腕も微かに震えていて…。


 辺りは一瞬静かになったんだけど、すぐに大騒ぎになり始めた。


 その時。

「静かに!」

 先生たちだ。翼ちゃんもいる。

 後ろに控えている先生の指示で、古田くんたち委員長が各部屋へ走っていくのが見えた。多分、2年生全員をここへ集めるんだろう。

 それはきっと、上の階の1年生や下の階の3年生も同じで…。


 そうこうするうちに、思った通り部屋にいた生徒たちもみんなやってきたんだけれど、口々に『何があったんだ?』ってざわめいている。


 そして、学年主任の先生が口を開いた。

「今ニュースを見ていたものは知っていると思うが、今日の午後、2年B組の麻生隆也の父上が自宅で亡くなっているのが見つかった」

 その言葉に、ニュースが流れたときに談話室にいなかった生徒たちが騒然とする。


 先生はもう一度『静かに』…といって、隆也がすでに自宅に戻っていることや、詳しい経緯はわかり次第きちんと説明するから、勝手な憶測や想像で噂を流さないこと…などの注意が伝えられた。


 でも、その先生の言葉を、僕は多分、半分も頭に入れられなかったと思う。


 隆也…。いったい何が…。


 どうしようだとか、どうすればいいかだとか、そんなことも全然わかんなくて、思わず俯いてしまった僕の頭を、暖かい掌がポンポンと叩いてきた。

 見上げると、そこに翼ちゃんが…。


「せんせい…」

 翼ちゃんも、辛そうな顔をして僕に頷いて見せる。

「今夜中には噂が広まってしまうだろうからな、そうなる前にちゃんと説明を…ってことになったんだ」

「…はい」

 かろうじて返事をすると、翼ちゃんは僕の手をとった。

「奈月、お前麻生と仲良かったよな」

「はい」

「…力になってやってくれる…な」

「もちろんですっ」

 僕なんかが何の役に立つのかわからないけれど、でも隆也の為なら…!


 必死で頷く僕を、翼ちゃんは一度だけギュッと抱きしめてくれて、『頼むな』と小さく言った。


 そして、光安先生から預かったと言って、小さく畳んだメモを渡してくれた。

 メモには『守は私の所にいるから心配するな』…それだけ書いてあった。


 …そうだ、守…。そう言えば、守もあの後見かけなかった。


 ここのところいつも隆也にひっついていたから当たり前のようにセットで姿を見ていたんだけれど。

 守、心配してるだろうな…。今すぐにでも隆也のところへ飛んでいきたいって思ってるに違いない…。


 隆也の家に何が起こったのか。それはまだ全然わからないけれど、隆也がここへ帰ってきてさえくれたら…。



 けれど、事態はそれだけでは終わらなかったんだ…。



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