Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」

【4】





「すごいな…こんなに早いと思わなかった…」

『フットワークの重いヤツは指揮者には向かないんだ』

 電話口であからさまに驚いた三男に、父親はそう言って笑ったのだが、すぐに言葉を引き締めた。


『麻生理事の件は間違いない。 額に関しては掴みきれなかったんだが、確かに横領の事実が発覚している。理由を問われて、理事は所有する会社の危機を挙げたそうだ。 だがすでに、そんなものでは焼け石に水の状態だったらしいんだがな…』


 そこまで聞き、隆也の父親の件とこの件が繋がってしまったことを理解して、守は我知らず沈痛な吐息を漏らした。

 そしてそれは電話の向こう――現在地はウィーンらしい――の父親にもしっかりと伝わった。


『だがな、守』

 だから、その口調は限りなく優しいものになって…。


『院長の裁量で、賠償責任は問わないことになったらしい。理事会の監査制度にも落ち度があった…と、外部へ情報を漏らした数人の理事を相当叩きまくったようだ。 あの人も優しげな顔をして、実はやり手だってところは変わってないらしい。…いや、磨きが掛かったというところかな』

 そう言って、かつての恩師を懐かしむ。

「…父さん」

『それから、マスコミの方は前田理事と1期生の面々が総出で潰してくれたそうだ。 ちょうど問題が発覚した時期に前田理事はヨーロッパへ出張中だったそうで、役に立てなかったからその罪滅ぼしだと仰ってた。 だからこの件に関してこれ以上外部から嗅ぎ回られることはないと思う。 まあ、院長とツーカーの仲のあの人がいてくれたら心配はないだろう。 …で、その前田理事に聞いた話なんだが…』


 父はそこで一つ咳払いをした。そして、大切そうに告げる。


『麻生理事は、誰よりも大切だった孫の将来まで潰してしまったと、泣いたそうだ』


 その言葉に、守は受話器を握りしめたまま、天を仰いだ。

 隆也がいつもその顔色を伺っていた大きな存在。

 隆也は、叱責されてばかりなのだと肩を落としていたけれど、やはり彼は愛されていたのだ。

 なのに、こんなことになるなんて…。


『…守、お前はその…大丈夫なのか?』

「え?」

 突然労られるような言葉を聞き、守は一瞬何のことかと首を捻る。


『いや、その、そういう風に気にしているということは、お前とその…麻生理事の…ええと何といったか…』

「隆也?」

『そう、その隆也くんとは、その、相当親しいの…だろう?』


 遠回しに言葉を選んではいるけれど、しかし父親が聞きたいのであろうことを正確に理解して、なるほどね…と得心して、守はこの非常事態に相応しくないくらい柔らかい声で応える。


「うん。一番大事なヤツなんだ」

 好きだとか、恋人だとか。そんなことは一言も言わなかった。

 けれど、守の声色に含まれた優しさだけで、一流の音楽家である父親はその内面を正しく悟ったようで、『そうか』と小さく呟いた。

 そして…。

『その、なんだ、上手く言えないが……良いようになると、いいな』

 本当に、まったく言葉は上手くはない。

 しかし、言葉ではなく音で語ってきた父親の、いっそ不器用なほどの愛情に触れて、ここのところ張りっぱなしだった『気』が、ふと緩んだ。


「…うん。いろいろとありがとう。本当に、助かった」

『いや、これくらいのことしかしてやれないが、こんなのでよければ、いつでも言っておいで』

「うん、そうする」

『…無理するなよ…と言ってもしそうだが、無茶はするなよ?』

「了解」


 一つずつ、言葉を選ぶように話しかけてくる父親は、きっとまだ息子とのコミュニケーションの取り方に自信がないのだろうけれど、言葉の質や数だけでは言い尽くせない色々が、声色の柔らかさに滲み出る。

 また連絡するよ…と、言った守に、父は嬉しそうに『待ってるよ』と言い、時差8時間の国際電話は終わった。


 端から見ればとても尋常ではない親子関係ではあるけれど、それでも自分はつくづく恵まれているのだ…と守は受話器を置いた手を握りしめる。


 けれど隆也は…。

 経営破綻の責を負って自らの命で決着を付けてしまった父親と、最後まで何とかしようとあがき、罪を犯してしまった祖父。

 今、隆也はどんな気持ちでいるのだろうか。

 それを考えると、胸が…。


 制服のシャツの前立てをギュッと掴んだとき、ふと思いついた。


『タカヤと一緒にいたくない?』


 セシリアの、あの言葉を。


 ――もしかして…。


 守は今置いたばかりの受話器を手に取った。

 ダイアルする先は、会話を終えたばかりの父。
 致し方ない。守はセシリアとコンタクトを取る方法を持っていないのだから。そして、それを母に聞くわけにはいかないのだから。

 回線は程なく繋がった。


『どうした?』

 つい先ほど話し終えたばかりの息子に、父は驚いた様子を隠さない。

 だが、それは守の次の言葉でさらに大きくなった。


「セシリア・プライスの連絡先、教えて」

『…え?』


 父が驚くのも無理はないだろう。今までセシリアと守の接点と言えば、香奈子に連れられて果たす、数年に一度の『義務』しかなかったのだから。


『どういうことだ? 守』

「聞きたいことがあるだけ。知ってるんだろ? 頼むから教えて」

 教えてと――しかも『頼むから』とまで言われて断る理由は何もないのだが。


「急ぐんだっ、頼む!」

 らしくない、切羽詰まった様子の守に呑まれ、父は『ちょっと待ちなさい』としばし受話器を置いた。

 保留音も何もなく、少し離れたところで物音がするのが聞き取れたが、程なくまた父の声が聞こえた。

 そして、守は告げられた自宅のナンバーを頭にたたき込むと、『いずれちゃんと説明するから』と言って、今度こそ父との会話を終えた。


 次はセシリアだ。

 だが、校内の電話は外線に繋ぐのに学籍番号の入力が必要で、通話明細は月まとめで保護者に通知されるしくみになっている。
 ということは、いずれ母にばれるということだ。

 父に電話したのはともかく、相手がセシリアとなると…。

 とにかく母に余計な心配はかけたくない。

 ――まずいな…。


 考え込むことほんの少し。

 守は踵を返し、光安の私室へ走った。

 先日セシリアがここを訪れたことを知っている光安になら、詳しい事情を話さずとも協力してくれると踏んだからだ。


 思った通り光安は、『母親に内緒でセシリア・プライスに連絡を取りたい』と正直に言うと、何も聞かずに私室の電話を貸してくれた。

 ただし、『お前を信頼してのことだからな』…と念を押された上のことだが。

 つまりは『一人で抱え込むなよ』というニュアンスなのだが、その気持ちに応えるべく、守は『いずれきちんと説明します』…と、頭を下げて、電話をその私室ごと借りたのだった。


 ――すぐ掴まるかな…。


 セシリアは現役のオペラ歌手だ。

 専属契約などに縛られなくとも、どこの歌劇場からも引っ張りだこの彼女は年中世界を飛び回って公演しているから、すぐに掴まらない可能性が高い。

 だが、父は『このナンバーへかけたら衛星携帯へ転送されるはずだから』と言った。

 ということは、リハーサルや本番中でない限り、大丈夫だということだ。

 問題は、どこにいるかわからない相手との時差だが、そんなもの知ったことではない。

 守は苛ついた動作でもどかしげにプッシュボタンを辿る。
 そして、待つこと数十秒。


『はい?』

 本人が出た。どうやら、リハ中でも本番中でもなかったようだ。

『どなた?』
『俺』

 言ってみたものの、それだけで誰だかわかるのだろうか、この人は。

 だが。

『まあ! マモルね。その気になった?』

 わかったらしい。
 しかし、そのことにどうこう構っていられる事態ではない。

 守はいきなり声を尖らせた。

『あんたっ、なんかしたんじゃないだろうなっ』

『…何よ、いきなり』

『いきなりじゃねえよっ、あんた、この前言っただろ? 隆也の親父さんの会社がどうとかこうとか!』

 一気にまくし立てると、受話器の向こうから『なんだそんなこと』というなんとも間抜けた返事が返ってきた。

『それで何? 私がなにか手を回したんじゃないかって?』

『ああ』

 短く応えると、セシリアは『まさか』と華やかな笑い声を立てた。

 同じ『華やか』でも母のものとは随分違う、若干毒を含んだようなそれを不快に思いながらも、守は真相を聞くまでは電話を切ることは出来ないのだ。

 そんな守に、セシリアは事務的に告げる。

『心配しなくてもあの会社の業務内容はこれから拡大する予定の事業に打ってつけなのよ。だからもう、手に入れる算段はしているわ。中途半端に破綻なんてしてくれちゃったから、手続きが面倒になってしまったけれどね』

 その言葉に、滅多に激しない守の頭に血が上った。

『…あんた…、やっぱりなんかしたんじゃねえかっ! 隆也の親父さんは死んじまったんだぞ!』

『あらいやだ。それは完全に濡れ衣よ。こうなってしまう前から、こちらからは内々に話を入れていたのよ。悪くない条件…ううん、かなり良い条件だったはずなのに、彼はそれを拒絶したわ。 CEO(最高経営責任者)の地位から降りる気はないってね。 わかる? 彼は自分の保身のために会社の危機を回避する努力をしなかったの。 雇用者として、被雇用者とその家族を守る責任を放棄したのよ?』


 守が返す言葉に詰まった。

 もしセシリアの話が本当ならば、非の在処は歴然だ。

 そして、黙り込んだ守に構うことなくセシリアは話を続けた。

『そうそう、心配いらないわ。こちらが経営権を手にした場合は、現社員の解雇は最低限に押さえるつもりよ。ただし…』

 セシリアは守の反応を待つように、言葉を切った。

 仕方なく守は、聞き返す。

『ただし?』

 怒気を孕む低い声にも、だがセシリアが動じる気配は無い。むしろ、してやったり…なのだろう。


『あなたの大事なタカヤとその一族の居場所はないわ。当然よね。経営に失敗して責任を放棄したのだから』

 冷たく言い放たれたところで、それは理不尽だと言える内容ではなく、守はただ唇を噛んだ。

 そんな守の様子をまるで見透かしたように、セシリアの声が柔らかくなる。


『どう? 取り引きしない? マモル』

『…取引?』

『そう。あなたがこちらへ来ると言うのなら、将来あの子が継ぐべき場所を空けておいてあげてもいいわ』


 思いも寄らない――いや、思いつくべきだったのだ。先日学校にまで押し掛けてきたセシリアとのあのやりとりからするならば――展開に守は絶句し、そして揺れた。


『どう? 考える価値のある話だと思わない?』

 守からの応えはない。
 だが、言下に否定しないところからして、十分に揺れているであろう事は遙か海の向こうの相手にも手に取るようにわかってしまう。

 そして、受話器の向こうで彼女が満足そうに微笑んでいることなど、今の守には想像すら出来ない。


『今ここで返事しなさいとは言わないわ。でも、よく考えることね。あなたにとってもタカヤにとってもいい話だと思うの。あなたは賢い子だわ。だから、わかるはずよ。今どの選択が正しいのかってことが…ね』


 何も言葉を発さない守に、だがセシリアは『待ってるわ』…と、それは優しげな声で囁いてラインを切った。



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前田理事の正体については、『I Love まりちゃん』にて☆