Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」
【5】
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赤坂先生から僕に電話があったのは、まさに学校内が騒然としている最中だった。 どうやら守が先生に連絡をとって、理事会の動向を探ってもらっていたらしいんだけど、先生はそのことでとても守の事を心配していて…。 きっと隆也への思いはカミングアウトしちゃったんだろう。 先生との会話の中で僕はそう確信したんだけれど、先生はそのことには何にも触れなくて、ただ、守が無茶をしないだろうかということと、それから、最近守の身辺で、隆也の事以外で何か変わったことはなかったか…という話だった。 隆也の事以外で…。 正直、その件について、僕には心当たりがあった。 昇に聞いたんだ。 守を産んだ人――セシリアさんが学校に来たって事を。 もちろん悟も知っている。 守はナイショにしておきたかったようなんだけど、昇が教えてくれたんだ。 『僕らの間で、こういう内容の話をナイショにしておくと、ろくな事にはならないからね』って。 それはつまり、今までの悟たちの『教訓』。 一人で背負っても何にもならない。せっかく兄弟がいるんだから、苦しいことはみんなで分けて背負おうってこと。 でもこれは、お節介を焼くって訳じゃなくて、ただ、いざというときにはすぐに助けの手が出せるようにしておきたいっていうことなんだ。 兄弟とは言え、恋だとか何だとか、プライベートなことも多いからね。この年になると。 で、僕はちょっと躊躇ったんだけど、赤坂先生にうち明けたんだ。セシリアさんが来たってことを。 来訪の目的までははっきり聞いていないから――『ご機嫌伺いって名目の嫌がらせ』なんて守は言ってたけど――それもちゃんと言った。 先生は凄く驚いていた。でも、そのすぐ後に『そういうことか…』って呟いたんだ。 だから僕は『何かあったんでしょうか?』って聞いたんだけど、先生は『ちょっと調べてみるから』とだけ言ったんだ。 そして、『守のこと、よろしく頼むよ』…って。 僕はもちろんそのことには『はい』って返事をしたんだけれど、まさかその時には、この二つの出来事が繋がりを持ってくるなんて夢にも思わなかったんだ。 ☆ .。.:*・゜ それから数日後。 ニュースでも隆也のお父さんの話は聞かなくなり、理事会の件も事実と今後の対応が保護者と生徒にむけてきちんと説明され、校内は漸く通常の様子を取り戻し、それぞれに近づいている聖陵祭に向けて再び準備のエンジンをかけ始めた頃。 部活前に、一旦寮へ戻った僕を、明彦が『ちょっと来て』と部屋に呼んだ。 「何?」 尋ねながら入った明彦と隆也の部屋には…。 「隆也!」 「葵…」 隆也がいたんだ! 「帰ってきたんだね、隆也、お帰り〜!」 嬉しくて思わず飛びついた僕だけれど、隆也は随分と痩せていた。 たった一週間だったけど、この一週間は隆也にとってそれだけ辛いものだったんだということを改めて思い知らされて、僕は隆也にしがみついたまま、身動きが出来なくなる。 「葵…もう一回会えて、嬉しい」 「…隆也?」 …帰ってきたんじゃ、ないの? 慌てて身体を離してよく見れば、隆也は私服姿で、部屋の中は妙にさっぱりしていて…。 「荷物、取りに来たんだ」 「…どういう、こと?」 「学校、やめることになった」 …え? 慌てて明彦を振り返ってみれば、唇を噛んで、涙を流している。 僕はもう一度隆也に向き直り、その肩を掴んだ。 「ちょっと、待って…。やめるって…何?」 でも、僕の慌てぶりとは反対に、隆也は何故だか凄く落ち着いていて、笑顔さえ浮かべているんだ。 「うん。母さんの実家…ええと、九州なんだけど、そこへ行くことになったんだ。高校はそっちの公立へ転校させてもらえることになりそう。こう言うとき偏差値の高い私立にいると得だよね。推薦状と成績証明があれば無試験入学出来るって」 そんなこと聞きたいんじゃないって! 「な、なんでっ? どうしてここじゃダメなのっ?」 隆也の色々な状況を考えると、『その理由』ってのは自ずと明白になってくるんだろうけれど、その時の僕にはショックばかりが先に立って、その色々が見えてこなかったんだ。 だから…。 「うん、ほら、学費の面だけでも厳しいしね」 そう言われて初めて、隆也がどれだけのものを失ってしまったのか気がつく有様で。 「でも、奨学金ってのもあるじゃないっ」 けれどやっぱり僕には諦めがつかない。 「僕だってほらっ、去年の秋まで奨学生だったんだしっ」 必死で言い募ると、隆也は僕をギュッと抱きしめた。 「ありがと、葵。でもね…」 隆也の掌が、ポンポン…と、僕の肩を、落ち着かせるように叩く。 「祖父が横領した金額を免責してもらえたんだ。その上奨学金は受けられないよ」 その言葉に、僕はもう何も言えなくなって、ただ隆也にしがみついて泣くしかなかった。 どれくらいそうしていただろう。 祐介がやって来た。部活の開始時間はとうに過ぎている。 ざっと成り行きを聞いた祐介は、僕と同じように驚き、そしてやっぱり『何とかならないのか』…って言ったんだけど、隆也の答えもやっぱり同じで。 「とりあえず、ホールへ行ってみんなに会おう」 祐介がそう言った。 このままいなくなってしまうのだけはダメだと。 隆也は少し躊躇ったんだけど、『管弦楽部のみんなにも迷惑をかけることだから、挨拶だけはしておかないとね』…と同意をしたから、僕らは部屋の外へ出た。 放課後の寮内。そこそこの人数で賑わっている。 祐介と明彦と僕の三人で、隆也を囲むようにして廊下を行くと、小さな声で『麻生だ…』って声が聞こえる。 でも、それらはどこか遠慮がちで、遠巻きな声で…。 ところが。 「…おいっ、麻生だぜっ」 談話室の前を通りかかったとき、誰かが大声で叫んだ。 わざと周囲に知らせるかのように。 「へえ〜、お前、よくもヌケヌケと戻ってこられたもんだな〜」 するとまた別の誰かが追従するように、バカにしきった口調で吐き捨てる。 「どの面下げて帰ってきたんだよ、ああ?」 隆也がグッと唇を噛みしめた。 「黙れっ!」 そう言い返したのは、僕。 「隆也の責任じゃないだろっ」 「なんだと〜? なんで奈月がこいつの肩をもつんだよっ」 「へへっ、かわいこちゃん同士でデキてるんじゃね〜の」 あまりに意味のない下劣な揶揄に、僕はあれこれ考える間もなく、目の前へきてくちゃくちゃとガムを噛みながら隆也に向かって『泥棒猫』なんて暴言を吐いたヤツの胸ぐらを掴んだ。 相手は僕より随分背が高かったけど、そんなこと関係ないっ。 そのまま向こう臑を蹴り飛ばして床に押し倒してやった! 「葵っ、ダメだって!」 隆也がそう叫んだようだけど、それで止まれる状態ではすでにない。 あっと言う間に廊下は人が入り乱れ、視界の端で誰かが隆也に手を出そうとしたのが見えた。 けれど、祐介が咄嗟にそれを庇ったのを見て、僕は安心して目の前に転がるヤツの髪を掴んで振り回した。 「…てめっ…奈月っ! 手加減してやってりゃあいい気になりやがって!」 「うるさい! 誰が手加減してくれって頼んだよっ。いいから隆也に謝れ!」 そう言ったとき、別の手が僕の肩を掴んで強引に振り向かせ、目の前に拳が現れた。 ――殴られる…! そう思って咄嗟に目を瞑ったんだけど…。 『ゴキッ』っていう痛そうな鈍い音がした割には僕は全然痛くなくて、その後『ドスッ』っていう音がして、僕の肩を掴んでいたはずの手の感触が消えた。 「…い…いってぇ…」 見ると、さも柔道でもやってそうなクマ系のヤツが頬を押さえてひっくり返っていた。 そして、その側に、守の姿が。 守は周囲をジロッと一舐めすると、制服のネクタイを乱暴な仕草で引き抜いた。 「今、麻生に突っかかったヤツ、前へ出ろ」 聞いたこともないほど低くて恐ろしい声。 誰もが動きをなくした。 「前へ出ろっつってんだっ」 皮膚に突き刺さりそうなほど鋭くて冷たい、でも激しい言葉に、そこにいた全員が声も無くす。 これ以上はあり得ないほど、怒りに満ちた瞳。 こんな守、見たことがない。 「麻生に文句があるなら俺が相手になってやる。ただし、勝てると思う奴だけ掛かってこい。そうでないヤツはとっとと失せろ」 表面だけは冷静に聞こえる声色でいう守に、これで掛かっていけるようならある意味あっぱれだよな…なんて、妙に冷静に状況分析してしまう僕がいたりして。 「奈月…っ」 僕の下から声がした。僕が乗り上げているヤツだ。 「頼むからどいてくれっ」 ああ、僕が乗っかってるから逃げられないのか。 みんな、あっと言う間に逃げちゃったもんね。 でも、これで逃げるくらいなら最初から突っかかってくっるなってーの。 「ヤダよ。逃げたきゃ自力で逃げれば?」 そう言って、僕はわざと体重をかけた。下敷きのヤツはデカイから、こんなものではビクともしないはずだけどね。 「…おいっ、イジワルいうなよっ」 な〜にがイジワルだよっ。そっちが先にふっかけて来たんだろーがっ。 「じゃあ、隆也に謝れ」 冷たく言い放ってやった。 けれど、背後から優しい声がかかった。 「葵、もういいよ」 「…隆也」 見ると隆也はゆるゆると首を振った。 その様子がまるで自分自身を責めているように見えて、怒りに沸騰していた僕の胸に、一気に涙が満ちる。 「ほら、葵。そんなヤツにいつまでも乗っかってると誰かさんが怒るぞ」 守が僕を抱き起こした。 下敷きだったヤツは、ほとんど四つん這いの状態で逃げていく。腰でも抜けたかな。 その情けない姿を見送って、僕は守に向き合った。 「守、ありがと」 おかげで殴られずに済んだ。 ま、あの状況だったから一発二発は覚悟してたけど。 「何言ってるんだ、弟を守るのは兄貴の役目だろ? それに、俺に殴られたヤツはおかげで一発ですんだわけだ」 「え? どういうこと?」 「葵を殴っててみろ。あいつ、悟から半殺しだぜ」 その言葉に、僕の隣で祐介がポツッと、『…そうかも』と呟いた。 …ええっと。想像はし難いけど、確かにそう、かも。 「麻生、大丈夫か?!」 明彦と斎藤先生が走ってきた。 そうか、明彦、先生を呼びに行ってくれてたんだ。 先生は慌てた様子で隆也に走り寄った。 「はい、全然平気です。みんなが助けてくれたので」 「…そうか。すまんな、俺が側にいてやればよかった」 悔いに満ちた声でいう先生に、守が『先生、もう俺がついてるから大丈夫です』と宣言した。 そんな守を先生はジッと見つめて、そして顔を綻ばせる。 「そうだな。頼むぞ、守」 「はい」 応えながら、隆也の肩をそっと抱く。 その様子があまりにも自然で、明彦もなんだか眩しそうに見つめていた。 それから僕たちは、今度こそホールへ向かった。 けれど、暫く二人にしてくれ…という守の願いで、僕らは二人をホールの屋上へと見送って、大遅刻の上――それに関しては斎藤先生が証人になってくれたおかげでお咎めナシですんだけど――部活に戻った。 もちろん、全然練習集中できなかったことは言うまでもない…。 でも、こんな中でも嬉しいことはあった。 管弦楽部のみんなが、隆也に『せめて聖陵祭コンサートまで残れないか』…と総出で――特に隆也が率いるセカンドヴァイオリンの面々が――説得したんだ。 隆也の決意と、そして周囲の状況が、隆也がここへ残ることを許さないのだとしても、あと半月、なんとかならないかって。 これまでずっとがんばってきたんだから、聖陵祭コンサートのステージを一緒に踏もうって。 光安先生もみんなの提案に賛成して、全面的に協力してくれることになった。 学校サイドは院長先生の裁量で難なくクリアできるだろうってことで、問題は隆也のおかあさん。 それを、先生は説得してくれるって約束してくれたんだ。 あと半月。僕らを一緒にいさせて下さいって。 そして、それは叶えられることになった。 |
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