Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」

【6】





「九州…?」

「はい。母の実家が熊本にあるんです。幸い祖母がまだ健在なので、二人でそちらに身を寄せることになりました」


 9月半ば。日暮れ前の空気はまだ暑い。

 そんな中、守と隆也は音楽ホールの屋上で向き合っていた。


「決めた…のか?」

 気を張っていないと声が震えてしまいそうだ。

「…決めました」

「どうしても?」

 どんなに冷静であろうと思っても、畳みかけるように聞いてしまうのは、もうこの際致し方ないだろう。

 そんな守に、隆也は静かに頷いて見せた。

「院長先生から返還請求はしないって言ってもらえて本当に助かりました。母も泣いて感謝していました。 実際、手つかずだった分はお返しできたんですが、それ以外はもうどうにもならなくて…。会社の債務とか、あんまりにも大きくて、家や土地で贖える分は全部そっちへ回したので、何にも残らなかったんです。 だから、甘えてはいけないと思いながらも、今の僕にはどうすることもできなくて、結局甘えさせてもらうことにしました」


 いずれ大人になって、自分の手で返せるようになったときには必ず…と思っているが、今はそれを口にすべきではないと、隆也は思う。


「だから、今は自分と母の生活を立て直すことをしっかりやらなくちゃいけないと思うんです」

「でも、それならここにいたって…!」

 守も頭の中では理解しているのだ。
 負うべき責任を免除してもらってなお、ここにいるわけにはいかないという隆也の気持ちを。

 だが、理性で理解できても、この想いは納得しない。


「先輩…」

 だが隆也は静かに守を見上げて、言った。

「父が、僕に遺書を残していました。中身は謝罪ばかりでしたけれど、最後にこう書いてあったんです。『母さんを頼む』…って」

「隆也……」

「あんな形で父を亡くして、家も追われて、今の母には僕だけが頼りなんです。僕も男です。母を守ってやらないと」


 そう言って柔らかく微笑んだ隆也の、そのあまりの美しさに、守は息を呑んで立ちつくすしかなかった。



                   ☆ .。.:*・゜



 その夜、守は院長室を訪れていた。

 ここのところのいろいろで、さすがに疲れがありありと見てとれたが、それでも彼――院長の館林祥太郎は守を笑顔で招き入れてくれた。


「私もね、とどまるように説得したんだよ」

「先生…」

 涼やかな香りのする紅茶を淹れて、守に勧めながら院長もソファーに腰を下ろした。


 なんとか隆也がここへ残れるように出来ないか。


 それを掛け合いにきたのだが、院長自身がそのつもりだったと知って、守は隆也の決意の強さをあらためて知ることになってしまう。


「卒業まであと1年半だ。12歳の時からここへ来て、今までがんばってきたのだからね、学校からの公的支援ではなく、私の個人的な支援を使ってでも卒業まで全うさせてあげたかった」

 彼の罪ではないのだからね…と、視線を落とす院長の表情にも無念の色が浮かぶ。


「…隆也の決心は、変わらないんでしょうか」

 ここで弱音を吐くつもりはなかったのに、つい漏れてしまった言葉は情けないほど弱々しくて、言った端から自分への自嘲の笑みが漏れてしまう。

 そんな守の様子を目の当たりにして、院長は軽く目を瞠ったが、すぐにその瞳を柔らかなものに変えた。


「麻生君はね、私にこう言ったんだよ」

 ふわりと紅茶が薫る。


「『これは僕の、男としての責任の取り方です』…とね」


 この香りには、鎮静作用でもあるのだろうか。

 守は深く息を吸い込んで、目を閉じた。そして、今聞いた隆也の言葉を胸の内で反芻する。

 すると、夕方に屋上で見た隆也の微笑みが蘇ってきた。
 そして、あの美しさは、強さなのだ…と知った。


「そう言われると、私も返す言葉がなかった。彼が大人になろうとする瞬間を、止めることは出来なかったんだ」

 院長もきっと、その時の隆也を美しいと思ったに違いない。

 そう確信して、守は頭を下げた。


「先生…ありがとうございます…」

「…いや、力不足を痛感しているところだよ。本当に、すまないね…」


 中高一貫教育で、その9割が寮生という環境の所為か、この学院の教師たちは、『生徒たち』と呼ぶべき場面で、『子供たち』と表現することが多い。受け持ちの生徒のことを『うちの子』と言ったりするくらいだ。

 そんな中、特に院長は普段から『全ての生徒が大切な我が子』と公言している。

 彼にとってのその『大切な我が子』を守りきれなかった無念さを滲ませて、院長は静かに目を伏せた。



                    ☆ .。.:*・゜



 消灯点呼まであとどれくらいか。

 院長室のある本館から寮への道のりを行きながら、守は考えを巡らせる。


 隆也自身が決心してしまった以上、これでもう、八方塞がりなのだろうか…。

 説得の材料はもう尽きたのだろうか。

 隆也がここへ残るために、自分に出来ることは…。


 ――あるじゃないか…。


 守の歩が止まる。

 また打つ手は残っている…!


 ――見苦しかろうがなんだろうが、最後の最後まで諦めないのも、男としての責任の取り方だ…!


 守は踵を返し、音楽ホールへ向かって走り出した。






 思った通りだった。 

 ホールのホワイトボードには、『練習室1』の欄に悟と昇の名が書かれていた。ということは、恐らく葵もいるはず。

 案の定、一番広い練習室には3人が揃っていた。

 ノックもせずに――いつものことだが――飛び込んできた守に、3人は心配そうな顔を向ける。

 恐らく、二人…守と隆也の今後について、兄弟たちは彼らなりに策を探してくれているのだろう。

 だが、その心配をかけることも、もうない。


「なあ、聞いてくれよ」

 守が口を開く。笑顔だ。

「俺、セシリアのとこに行くことにした」

 だが、悟も昇も葵も…何も言わない。

 やがて3人が顔を見合わせあった。


「…守」

 悟が呼びかける。

「何?」

「それは、どういう意味だ?」

 いきなりセシリアの所に行くと言われても、目的語が無ければ何の話なのか皆目見当がつかない。まさか遊びに行くと言う話ではあるまいし。


「あ、ああ、ごめんごめん。いきなり過ぎたよな」

 ここのところまったく見られなかった、守の守らしい明るい笑顔に、3人の中で得体の知れない不安が募る。

「実はな、セシリアから引き取りたいって言われてたんだ」

 あっさりと言われた意味を一瞬捉えかねて、葵が首を傾げた。昇も怪訝そうな顔を見せる。

 悟だけが『ちょっと待て』…と守を制した。


「守、ちゃんと筋道を立てて話してくれ。でないと、わからない」

 悟には、一見普段通りにみえる守が実は興奮状態にあることが見て取れたのだろう。二度三度と背中を軽く叩き、落ち着きを促した。

 そして、やがて少しだけ落ち着きを取り戻した守が説明した内容に、3人は今度こそ心底驚愕した。



「あのクソババアっ、そんな卑怯な手を使って守を…」

 昇がまず声を荒げた。
 こんなことなら、この前会ったときにもっと悪態をついて、ついでにぶん殴ってやればよかった…と怒りに震えながら言う昇を葵がおろおろと宥める。

 会ったことのない人だから、葵にはセシリアという人物の人となりはわからないのだが、少なくとも守の話の内容だけでもかなりとんでもない相手だというのが感じられて憂鬱になる。


 ――酷いよ…守を、連れて行っちゃうなんて…。


 ここのところ緩みっぱなしの涙腺が、また緩くなる。

 だが、一度鼻を啜っただけで悟が気付き、葵を抱き込んだ。
 大丈夫だから…と小さく耳元で囁いて、その髪を優しく梳く。


 だが、悟にしてもこの話はとんでもない衝撃なのだ。

 当たり前のように3人で育ってきて、これからもずっと一緒のはずだった。

 もちろん、いずれそれぞれの伴侶と共に独立してはいくのだが、それでも自分たちは『桐生香奈子』という母の元で一生兄弟であるはずなのだ。

 なのに、守だけがそこからいなくなるなんて…。

 考えられないし、許容もできない。
 それは当然、3人の共通した見解だ。


 だが、今この様子の守に頭から反対しても聞き入れはしないだろう。


「守…それは、麻生も承知なのか?」

 悟は殊更冷静な振りをして、守に尋ねた。

「いや、まだ言ってない」


 その言葉に、3人がまた顔を見合わせる。

 根本的な所を詰めていない守。
 こんな守は初めてだ。やはり普通の状態ではない。


 ――無茶だよ、守…!


 葵は心の内で叫んだ。



                   ☆ .。.:*・゜



「隆也、お前は卒業までここに残れ」

 翌日の放課後。音楽ホールの屋上。
 守は隆也を呼びだしていきなりそう言った。

 周囲の熱い説得に、隆也が『ありがとう』と涙して、聖陵祭まで残ることを決めたのは、昨夜のこと。

 そして、隆也の母が光安に『みなさまのご配慮に感謝して、お言葉に甘えさせていただきます』と返事をしてきたのは今朝のことだった。

 だから、隆也はとてもすっきりとした気分で今日一日を過ごし――口さがない連中の攻撃は、守と葵の反撃に恐れをなしたらしく、あれっきりになった――聖陵祭までを精一杯がんばろうと思っている所だったのに、いきなり守から『卒業まで残れ』と言い渡されて、目を丸くしてしまった。


「今さら何を言ってるんですか」

 仕方なく、小さく笑ってみせる。

 だがそんな隆也に守は、笑うなとも真面目に聞けとも言わず、いつになく強引な物言いで『いいから言うことを聞け』と切り替えしてきた。

 そんな『らしくない』守に、隆也は『何かある』と直感した。


「…先輩…何かあったんですか?」

 だから聞いたのだが、守は『何にもない』とぶっきらぼうに言い放つ。

 そんな様子も十二分に怪しくて、隆也もまた、いつにない口調で守に詰め寄った。

 理由もわからずに『はい』とは言えません…と。

 しかし、守はさらに隆也の予想を上回る言葉を返してきた。


「じゃあ、理由がわかればお前は『はい』と言うんだな」 

「先輩…」

 どうしちゃったんですか…と聞きたかったが、守の射抜くような瞳がそれを許さない。


「…お前が大学を出るまで、お母さんが代わりに役員に残れるそうだ」

 ポツッと告げられたそれに、隆也の瞳がこれ以上ないほど見開かれた。

「…な、なんですかっ、それ?!」


 驚いた…などというレベルのものではなかった。

 そもそも意味が不明だ。自分たちはすでにすべてを手放しているし、これから先、自分が成長したところで、会社の『何か』に関係するつもりもない。

 だいたい守の口からそう言う内容の話が出ること自体が不自然だ。
 
 確かにこの学校内には、実家レベルで利害関係のある生徒たちも少なくはない。だが、隆也と守の間には、実家レベルの関係は皆無だったのだから。


「先輩っ、それ、どう言うことですか?!」

 思わずシャツにしがみついて揺さぶってしまった。

 そんな隆也に、守は一瞬切なそうに微笑み、そしてしがみついてくるその手をギュッと握ったかと思うと、すぐに突き飛ばすように身体を離した。


「お前は俺の言うことを聞いていればいいんだっ」


 守はそう言い捨てた。そして、走り去る。

 普段は鮮烈で良く通るはずの守の声が、何故かくぐもって聞こえたことに、隆也はぼんやりと気がついていた。

 いったい今、何が起こったのだろう。

 守の態度も言動も、何もかもが今までとまったく違う。


「…あんなの、守先輩じゃ…ない」


 いつも優しくて甘かった守の視線と声。

 思い出すと離れられなくなりそうで、わざと知らん顔してたのに。

 なのに守はわざわざそれらを隆也に思い出させるような事をしてくれる。


「なんで…だよ…」

 足元のコンクリートに一つ、涙の染みが出来た。


「隆也……」

 背後から遠慮がちな声が掛かった。



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