Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」

【7】





「葵…」

 足音さえ立てずに葵はそっと隆也に近づいてきた。

 そして、小さなタオルハンカチをそっと差し出す。


「…ありがと」

 だが受け取った隆也は涙を拭く前に、鼻声のまま小さく吹き出した。

「…なに?」

 いきなり吹き出されて葵が面食らう。

「だって、葵ってばタオルまで『たれぱんだ』なんだもん」

「いーじゃん、好きなんだから」

 人が心配してるっていうのに、ツッコミどころはそこなわけ?…と、葵は憮然としてみせる。


「あはは、ごめんごめん。でもさ」

「なに? まだなんかあるの?」

「好きな割にはぬいぐるみ持ってないよね、たれぱんだ」

「あれは二次元がキュートなキャラなの」


 へえ〜、そんなもんなんだ…と、妙な感心をしてみせる隆也の瞳からはすっかり涙が消えていて、葵はそのことにホッと息を吐く。



 それから少しの間、二人は何にも話さずに、ただベンチにもたれて高い青空を見上げていた。



「…ねえ、隆也」

 いつまでもこうしていたいけれど、言わなければならない。

「…なに? 葵」

「守は絶対に言うなって言ったんだけど…」

 空を見上げたままだった隆也が、首を起こして葵を見た。


「もしこれが僕の立場だったら、納得できないし、後から知れば、絶対自分を責めると思うから…」

 何か重大な事を告げるつもりなのであろう葵に、隆也は黙って頷いた。

 あまりにも尋常でなかった守の様子。それをきっと今から葵が教えてくれるのだ。


「隆也、夏休みにセシリアさんとこの弁護士さんに会ったんだよね?」

「…え?」

 だが、まったく予想だにしない名前が出て、一瞬何のことだったかと記憶を巡らせる。

 ここ暫くの出来事があまりに重すぎて、ほんの一月前の真夏の出来事が随分遠いように思えてならない。


「…あ、うん。会った。泊めてもらった日に来てたから…」

「その時の話、覚えてる?」

 葵が伺うように首を傾げた。


「…ええと…、…うん、覚えてる。確かプライス家の当主が亡くなって、跡継ぎがいなくなったからって、守先輩を…」

「そう、その話」

 葵が頷いた。

「あの話、守が受けるって言い出したんだ」

「…え…っ? な、何でっ? どうしてっ?」


 あれほど毅然とした態度で断っていたものを、どうして今になってそんなことを言いだしたのか。

 守の心境の変化にまったく心当たりになるものがなく、隆也は狼狽えるしかない。

 だが、葵が次に口にした固有名詞もまったく予想外のものだった。


「R&S Companyって、聞いたことある…よね」

「…葵、どうしてそれを…」

 聞いたことがある…などというレベルのものではない。

 R&S Companyというのは、破綻した父の会社の後始末に入ってくれたアメリカの企業だ。あそこが引き受けてくれていなかったら、全社員が路頭に迷うところだった。


「…それ、セシリアさんの会社なんだよ」

 隆也が息を呑んだ。

「もともと再建に乗り出す話は予定通りだったらしいから、その段階では守には何の関係もなかったんだけどね…。ただ…」

 ここから先をどう説明しようかと、葵が言葉を途切らせる。
 だが、その後を隆也がすくいあげた。


「…もしかして、僕?」

 考えたくなかったが、この流れから行くとそれしかない。

 そして葵も、ここで誤魔化しても仕方がないこと…と諦めて、頷いた。

「守がプライス家へ入るというのなら、いずれ隆也が戻ってこれるように、席を守っておいてあげましょう…っていう約束ができたらしいんだ」

「そんな…」

 隆也の瞳に、見る間に涙の幕が張った。


「酷いよ! そんなことで、守先輩を縛るなんてっ」

 あの、いつも自由に羽ばたいているのが似合う人に、そんな足枷を付けるだなんて、許せない。


「…隆也だったら、そう言うと思った」

 葵はずっと隆也の手にあった小さなタオルハンカチを取り戻し、その頬に伝い始めた涙をそっと拭った。

 隆也は大人しく、されるがままになっている。


「先輩……そこまで僕のことを…」

 膝の上でギュッと握り込まれた隆也の手に、葵がそっと掌を重ねた。


 どれくらいそうしていただろうか。


 隆也がふと顔を上げた。そして、葵に微笑んでみせる。

「守先輩に、ありがとう…って言うよ」

「…じゃあ…」

 隆也は受け入れるのだろうか。…と、葵が思ったとき。


「その気持ちには、応えられないけどね…」

「隆也……」


 その答がYesでもNoでも、葵にとって嬉しい結末は訪れない。

 いなくなるのが守か隆也か…。そのどちらかでしかないのだから。


 ――このまま、聖陵祭が来なければいいのに…。


 葵は本気でそう願った。



                   ☆ .。.:*・゜



「これは麻生の問題だろう? お前が一人で決めていいことじゃあない」

「そうだよ。あいつの人生なんだから、決めるのは麻生本人じゃないと…」


 音楽ホールの『練習室1』。
 誰にも邪魔されることのないここで、悟と昇は守の説得に当たっていた。 

 だが、守は椅子に深く腰かけて俯いたまま顔を上げようとしない。

 聞いてはいるのだろうが、反応は芳しくなく、悟と昇も困惑を隠せず顔を見合わせてばかりだ。


「なあ、守…」

 堪らなくなって、悟が守の前に片膝をついた。

「お前は麻生が後悔して泣くところが見たいのか」

『泣く』というキーワードに反応したのか、守がふと顔を上げた。

「お前がもし麻生の立場だったらどうだ? 相手の事情も知らずにいて、それで嬉しいか?」

 言われて守の眉がほんの少し顰められる。


「もし…」

 昇も守の横に膝をついた。

「麻生が守の提案を受け入れて、守が卒業後に僕たちから離れることになっても、僕たちはもう反対しない。二人の決めたことを尊重するよ。だから…」

 力無く投げ出されたままの腕を取る。

「ちゃんと麻生に事情を話して、そうして本人に選ばせて」


 どんな結果になろうとも、後悔だけはしないように。
 守も、隆也も、そして自分たちも。

 そう考えて、悟と昇は力強く守の手を握った。


「…わかった…。話、するよ…」

 漸く言葉を発した守に、二人は安堵の息を吐く。


 だが。

『隆也に選ばせる』

 本当はそれが一番怖いのだ…と守は思う。
 その結果はもうすでに、見えているような気がして。

 麻生隆也と言う人間が、見た目の柔らかさとは裏腹にかなり一本気であることはもうよくわかっている。

 だから隆也はこうと決めたら滅多なことでは動かないはずなのだ。

 出来ることなら、あいつの『意志』も『思い』も『これから』も何もかもを無視して、自分のこの腕の中に閉じこめてしまいたい。

 ただ、ここで幸せに笑わせてやりたい。

 それだけ、だったのに。


「…隆也と、話してくる…」

 立ち上がった守に、悟が何事かを囁く。

「…さんきゅ…」

 漸く微笑んで、守は練習室を後にした。


 ――いいな、守。この先何が起こっても、どこにいても、僕たちはずっと兄弟だから。



                    ☆ .。.:*・゜



「なんだかここのところ、しょっちゅうここにいるような気がします」

 以前と変わらない明るい声で隆也がそう言い、高く晴れ渡る空に向かって大きく伸びをする。

 部活が比較的暇な時期には、ここ屋上もそれなりに生徒で賑わっているのだが、聖陵祭を目前に控え、自由時間もそれぞれに練習に励む時期とあって、人影は他にない。

 本来ならば自分も練習室に籠もっていないといけないはずなのだが、またしても守に呼び出されてここにいる。

 もっとも自分も守に言わなくてはいけないことがあったからちょうどいいのだが。


「全部話して、ちゃんとお前に選ばせろ…って言われた」

 隆也に比べて自分の方がよほど余裕がないな…と、守は自嘲するのだが、隆也も余裕があるわけではない。

 どう切り出していいかわからなかったから…というだけのことだ。


「話して、くれるんですか?」

 葵から聞いてはいるけれど、守の口からちゃんと聞いておきたいから、隆也はそう尋ねた。

「…ああ」

 話すから座れ…と言われて、二人並んでベンチに腰かける。


 ゆったりと組まれた守の足を見て、やっぱり長くて羨ましいなあ…などと、この状況にはかなり場違いな感想を思いめぐらせていると、『なに? 長くて羨ましいとか思ってる?』なんて言い当ててくれるではないか。

 そんな守に、昨日と違い随分彼らしさを取り戻している…と、隆也はほんの少し安心する。

 これならちゃんと話ができそうだ。お互いに。


 そして、守は語った。セシリアとの約束…を。
 それは葵に聞いたものと確かに同じ内容だった。

 だが隆也は肝心な事をまだ聞いていない
 守の本当の気持ちは何なのか…を。


「…守先輩」

「…ん?」

「僕も、ちゃんと自分の本心を言いますから、先輩も隠さずに本当の気持ちを言ってくれますか?」

 見上げられ、ジッと見つめられてしまえば『否』とは言えない。

 これまでもずっと、隆也には本音でぶつかってきたのだ。今さら嘘は…言えないだろう。

 もし嘘を言ってしまえば、今までの思いもすべて嘘にされてしまうような気がしてならないから。


「ああ、約束する」

 その言葉に隆也は嬉しそうに微笑み、そして言った。

「先輩。8月のあの日、セシリアさんちの弁護士さんに言ったこと、あれ、嘘なんですか?」

「…隆也…」

 思わぬ事を突きつけられ、守が絶句する。

「あの時の先輩、僕はすごくかっこいいと思った。相手がどんな大人でも揺るがなくて、自分の信念をはっきりと口にしてちゃんと伝えた先輩を見て、僕はあの時、こんな素敵な人の側にいられることを幸せだと思った。…でも」


 隆也が守を見据える。


「あれは、嘘だったんですか?」


 視線が逸らせない。

 捕らわれたまま、隆也の想いが染み通ってくる。



 やがて守は、視線を合わせたまま、ふと微笑んだ。


「嘘じゃないよ。あれが俺の本心だ」


 完敗だと思った。

 この腕の中で守ってやりたいと思っていた隆也は、いつの間にか自分より遙かに強くなっていたのだ。

 そして…。


「よかった」

 隆也もまた微笑んだ。

「嘘だった…なんて言われたら、僕、先輩のことぶん殴ってやろうかと思ってたんですよ」

 そう言ってケラケラと笑う。

「…ぶん殴られても、お前をこの腕の中に留めておけるのなら、一向に構わないけどな」

 だが、やられっぱなしでは『桐生守』がすたるではないか。
 守は婉然と微笑んで隆也の肩を引き寄せた。


「…俺の負けだよ、隆也。確かに俺は、俺さえ我慢すればお前を救えると思っていた」

「先輩…」

 その気持ちは、嬉しい。本当に。


「けど、それではお前は幸せじゃないんだな…」

 諦めの色を含んだ呟き。
 しかし、そんな守に隆也はキッパリと言い切った。

「僕は、先輩みたいになりたいです」

「…隆也?」

「先輩みたいに、自分の足でしっかり立って、人の気持ちにいつも敏感でいられる…そんな人になりたい…です」

「バカ、買いかぶりすぎだ、お前はもう…っ」

 照れるじゃないか…と、柔らかい髪をくちゃくちゃとかき混ぜて、そのままその小振りの頭を胸に抱き込む。

 抱き込まれた隆也は、耳に押し当てられた、僅かに早い守の心音を聞きながらうっとりと目を閉じる。

 できることならば、ずっとこうしていたい。



「…なあ、隆也…お前は俺に、何にもさせない気なのか?」

 どんなに想いを注いでも、それだけでは何も解決できはしない。


「…先輩、それ、違います。先輩はたくさんの事を僕にくれたじゃないですか」


 悟に失恋して泣いた夜。
 首席になったものの、ついていけなくて途方に暮れたとき。
 そして、在って当然だったものを失ってしまった今。


 本当に自分が道を見失いかけた時、側にいてくれたのはいつも守だったのだ。

「僕が、自分の足で立ちたいって思うようにしてくれたのは…守先輩なんですよ?」

 先輩がいてくれたから、今、僕はこうして笑顔でいられるのに…と、隆也は呟いた。


 ――だから先輩は、永遠に僕の憧れでいて下さい…。


 それは、言葉にはできなかったけれど。



【8】へ

君の愛を奏でて2 目次へ君の愛を奏でて 目次へ
Novels Top
HOME