Op.2 第3幕 「Finale. Allegro moderato」

【8】





「守が、アメリカのクソババアに断りの電話入れたって」


 夜の音楽準備室に、昇がやってくるなりそう言った。

 普段なら、昇の口の悪さをたしなめる光安だが、今回ばかりは言いたいようにさせている。

 それほど悟や昇、そして葵の怒りが大きいのを知っているし、自分もまた、セシリア・プライスのやり方に激しい憤りを感じているからだ。


「…そうか」

 ということは、決着がついてしまったと言うことだ。

 子供たちだけの事情ならば、いかようにも助けてやれたのだが、今回はあまりにも問題が大きく、大人の複雑な事情が絡みすぎた。

 そして、こんな時に一番しわ寄せを受けるのはやはり、子供たち、なのだ。

 けれど彼らは、そんな中でも精一杯にやった。

 ことに麻生隆也は目を瞠るほど凛とした顔つきになった。

 甘えん坊で泣き虫で、すぐに癇癪を起こしていた数年前とは別人のような成長振りだ。

 あれはきっと、真っ直ぐで綺麗な大人になっていくだろう。

 そう思うと、胸の痛みもほんの少しマシになる。


「ねえ、直人…。もしかして、僕たちは間違ってたのかなあ…」

 ぺたりと昇が張り付いてきた。
 視線が遠い。深く考え込んでいる証拠だ。


「なにがだ? 昇」

 華奢な身体をそっと腕の中に取って、そっと問いかける。


「…あのまま、麻生に黙っていれば良かったのかも知れない…」

「それは違うな」

 言下に否定され、昇の遠かった視線が光安に向けられる。

「…直人」

「一切から手を引いたはずの会社に、今まで専業主婦だった母親が役員として残されてみろ、背後に何かあるというのは誰だって気付くことだ。それに、事はそんなに単純じゃない。会社の再建だの何だのと言う話は、結局は組織の思惑でしか動かない。いくらセシリア・プライスが守に約束をしたといったところで、麻生の立場が本当に守りきられるものなのかどうかなんて、会社が再建されてみなければ分からない話だろう?」

「…そう、か…」

 昇の視線がまた、落ちる。

「私は、お前たちの判断は正しかったと思う。守が向こうへ行ってしまってから麻生が気がついたとしたら、どうなる?」

 昇の身体が、ビクッと震えた。

「…守を犠牲にして得た立場なんて、欲しくない…よね」

「そういうことだ」

 だからこれが最良の道だったと信じたい。

 光安ほどの大人でも、確信の持てないことにはこれほどまでに辛いのだ。

 ましてやそれが、まだ10代の彼らにはどれほどの重荷だったろうかと考えるとまた、胸が痛む。


 腕の中で瞳を潤ませる昇をギュッと抱きしめ、光安は残り少ない隆也との日々に思いを馳せた。



                   ☆ .。.:*・゜



「おお、ロミオ、ロミオ」

 月明かりに照らされたバルコニーに、美しい乙女が立っている。

「どうしてあなたはロミオなの? 私を想うのなら、あなたのお父さまを捨てて、そのお名前を名乗らないでください。もしそうなさらないなら、私への愛を誓って下さい。そうすれば、私はキャピュレット家を捨てましょう」


 あまりにも有名な『ロミオとジュリエット』のワンシーンが舞台上で展開され、客席は音もなくその熱演を見守っている。

 そして、バルコニーにいるジュリエットを熱く見つめるのはもちろん、ロミオ。


 聖陵祭の目玉、演劇コンクールでB組が…いや、守が選んだのは、名作にしてコンクールの常連演目『ロミオとジュリエット』だ。

 準備期間の最中に発生したアクシデントで、ジュリエット役の隆也は一旦出演を辞退したのだが、東吾を始めオールB組総力を挙げての説得に、結局最後までやり遂げることを選んだのだ。


『管弦楽部のコンサートだけ出て、こっちに出ないなんてひどいっ』とクラスメイトにも泣きつかれたし、なにより、先輩の東吾に『お前がやらなきゃ、俺にお鉢が回ってくるんだよっ。頼むっ。三回回ってワンっでも、土下座でもなんでもやるからっ』…と、それこそ土下座でもされそうな勢いで拝み倒されたのも効いた。

 みんな、そうやって一見『自分本位』に見える理由を突きつけてくるものの、その実は聖陵祭までしか学校にいられない隆也への思いやりであるということを、もちろん隆也本人も気がついていて、だからこそ、その思いやりにすっかり甘えさせてもらって、こうして最後の聖陵祭を守と一緒にがんばっていられるのだ。


 30分の上演時間。舞台はいよいよ佳境を迎えている。

 ジュリエットが仮死状態だということを知らず、絶望して自らの命を絶ってしまったロミオ。

 そして、目覚めたジュリエットもまた、目の前に突きつけられた現実に絶望し、ロミオの後を追う。

 これで二人は永遠に離れることはない。


「見るがいい。大人たちの憎しみの犠牲になった若き恋人たちの最後を。憎しみはもはや二人の亡骸と共に、永遠に墓に葬られなければならない…!」


 東吾が凛とした声でそう告げて、静かに幕が降りる。

 客席のあちらこちらから、かなり盛大なすすり泣きが漏れる。



「葵、泣かないで」

 舞台下手袖で次の演目のスタンバイをしている葵の肩を、そっと悟が抱いた。

「…うん」

 そう言いながらも鼻を啜る葵に、『ほら、鼻の頭が赤くなっちゃうよ』…と、悟はわざとおどけてみせる。


「守も麻生も最後までがんばって演じてただろう? 僕たちもがんばらないと…ね」

「そう、だね」

 漸く笑顔を見せた葵に、悟もまた笑顔を向け、そして二人で幕が降りた舞台上を見る。

 守が横たわる隆也をそっと抱き起こしているところだった。

 二人は顔を見合わせ、屈託なく、笑う。

 声は聞こえないが、どうやら『お疲れさま』と言い合っているようだ。


 そして立ち上がると、ふとこちらをみた。

 扮装している葵の姿を捉えて、一瞬目を瞠った隆也が葵に向けてVサインを見せ、口の動きだけで『がんばって』…と伝えてきた。

 その隣では、守が悟に向けてまず盛大に驚いた顔を見せ、そして、やはり口の動きだけで『お似合いだぜ』などと言ってくるではないか。


「ふふっ、お似合いだって」

 笑う葵に、悟はただただ、憮然とするしかない。

 そして。


「守先輩」

「ん、なんだ?」

「さっき葵の隣にいたの、誰ですか?」

 舞台を降りたところで、守に手を引かれた隆也がそう聞いてきた。

「あははっ、やっぱりわかんなかったか?」

「はい、さっぱり」

 あんなに背が高くて綺麗な生徒なら、絶対有名人のはずなのに、見覚えがない。

「あれ、悟だよ」

「……は?」

「いや、マジで俺も驚いた。まさかああだったとはなあ〜。悟が登場したら講堂中大騒ぎだぜ…って、おい、隆也?」

 どうやら驚きのあまり魂が抜けたらしい。

「おいおい、仕方ないなあ、もう〜」

 これでもかというくらい嬉しげにそう言って、守は隆也をひょいと横抱きに抱き上げた。

 辺りの生徒が『ひゅーひゅー』と囃し立てる。


「さ、ジュリエット。このまま楽屋へ帰ろうな」

 守にとっては幸いなことに、隆也の魂は楽屋である教室に戻るまで、帰っては来なかった。



                   ☆ .。.:*・゜



 10月の第一日曜。

 この日は毎年聖陵祭の最終日で、その最後を飾るのは管弦楽部による恒例の『聖陵祭コンサート』だ。

 今年の演目のメインはドヴォルザークのチェロ協奏曲。

 数あるドヴォルザークの曲の中でも名曲中の名曲とされ、また、あまたの作曲家たちが書き残した数多くのチェロ協奏曲の中でも名曲中の名曲とされている、あまりにも有名な協奏曲だ。

 しかし、それ故この曲のソロは難易度が高く、だがこれが弾けないようでは一人前のチェリストとは認めてもらえないという、チェリストにとっては『必須』とも言える曲である。

 今回のソリストである守は、すでに中学時代にはこの曲を弾きこなしていたのだが、オーケストラと合わせるのは今回が初めてだ。

 だが不安は少しもない。

 ずっと一緒にやってきた聖陵学院管弦楽部の仲間と演奏して、上手くいかないはずはないのだ。



 客席は夏のコンサートに引き続き、超満員。
 招待客以外の席は、抽選になるという有様だった。

 そんな客席が、まるで誰もいないかのように、全くの無音になる瞬間。

 それは、オーケストラのメンバーが着席し、指揮者とソリストが割れんばかりの拍手で迎えられたその直後のこと。

 チェロを構えて静かに深く息をする守の背中を、すぐ後ろで隆也が見つめている。


 この春、首席奏者になれて嬉しかったけど、今、本当に首席でいられて良かったと思うのは、こうして守のすぐ後ろで一緒に弾けることだ。

 もし去年のようにメインメンバーぎりぎりの第10奏者だったら、自分の席はセカンド・ヴァイオリンの一番後ろで、ソロを弾く守からは随分と遠いから。

 守の小さな息づかいすら感じられるこの席で、こうして大好きな曲を一緒に弾けて…。


 ――僕って、幸せだよね、本当に。


 そう思ったとき、守が顔を上げて指揮台の光安を見た。

 光安が軽く頷き、指揮棒をあげると、オケのメンバーも一斉に楽器を構える。


 そして、クラリネットと低弦から静かに曲は始まる。

 やがてファゴットやフルート・オーボエが加わり、第1、第2ヴァイオリンが加わると、オーケストラはまず最初の高みを目指す。

 そして、ひとしきり管弦がテーマを繰り広げた後、一旦引いた音の波の間から、ソロが現れる。


 その第一音から聴衆を魅了してやまない守の音色に、隆也は鳥肌が立つのを感じてしまう。

 こんなにも胸を打つ響きに、これから先、出会えることがあるのだろうかと。

 優しかったり、激しかったり、まるで守そのものを内包したような艶やかで若い力強さに満ちた音が、一つ残らず隆也の中に染み込んでくる。


 ――ああ…。


 手を伸ばせば、すぐ触れることが出来そうなほど近くにある、広くて頼もしい背中。


 ――僕、守先輩が好きなんだ。


 やっとわかった。やっと認められた。
 自分はこんなにも、守の事が好きだったんだと。


 構えた自分のヴァイオリンの向こう。楽譜越しに見える守をしっかりと見据えたまま、隆也は音の渦に飛び込んだ。


 このまま、時が止まってしまえばいいのにと…願いながら。



                   ☆ .。.:*・゜



「隆也…」

 音楽ホールの屋上。コンサートが終わったのは1時間ほど前。

 拍手は鳴りやまず、カーテンコールはいったい何度続いただろうかと言うほどの熱狂ぶりで、最後には守本人が『ギブアップ』をステージマネージャーの佐伯に告げるほどだった。


「…先輩…」

 そして、時は止まったままではいてくれず、隆也は聖陵学院管弦楽部員としてのステージを終えて、今はただ、二人きり、静かに夕陽の中に身を置いて…。


「キス、して、いいか?」

 そう言われて見上げた先には、見たこともない、守の表情。

 笑っている顔も、怒っている顔も、切なげな顔も、もう知っているけれど、こんなに苦しそうな顔は見たことが、ない。


『うん』

 たった一言そう言えばいいだけ。

 それも言えなければ、ほんの少し頷くだけ…それでいいのだけれど。


「…ダメ」

 自分の身体いっぱいに満ちている、守への想いを全部込めて、隆也はそう告げる。


「たかや…」

 守も、拒絶の言葉は予想していなかったのだろう。
 思わず呼び返した名前が掠れていた。


「…どうして?」

 それは、静かな問いかけ。

「…だって」


 ――そんなコトしたら、僕の決心が崩れてしまうから…。


 そう言えたらどんなにいいだろう。

 でもその一言を吐いたら、守はきっと自分を抱きしめて『何処へも行くな、ここにいろ』…と言うに決まっている。

 そして、自分はその言葉にきっと、うっとりと頷いてしまうに違いない。

 だから、ニコッと笑ってこう言うしかないのだ。


「そんなコトしたら、先輩立ち直れなくなっちゃうよ?」

「隆也…っ」

「僕がいなくなったあと、先輩、いつまでも思い出すよ?」

「隆也!」


 本当はいつまでも覚えていて欲しいけれど。


「…僕、そんなの嫌だから」


 本当は忘れないでっていいたいけれど。


「このまま『尊敬する先輩』でいて、下さい」


 そして、先輩はまた、新しい恋に巡り会って下さい…と、心の中でだけ、告げる。


 守は隆也の瞳を見つめたまま、もう、何も言わなかった。


「守先輩…本当に、ありがとうございました」


 隆也は静かに頭を下げた。


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