Op.3
第1幕「微笑みの眼差しさえあれば」
【3】
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「今、姉貴が持ってきたんだ。仕事先からもぎとってきたらしい。発売は明日だそうだ」 そうか。やっぱり面会だったんだ。さやかさんが来てたのなら、一緒に連れてってくれればよかったのに。 そしたら、この前もらった新発売のお菓子の感想とか言えたのに……なんて、この際どうでもいいことが頭を過ぎるところを見ると、僕はどうやらかなり動揺しているらしい。 さやかさんはきっと、わざと僕を呼ばなかったんだろう。 それがどういう意図なのかは、今の僕の頭ではさっぱりはじき出せない。 それより、何か考えないといけないことがあるはずなんだけど…。 「葵…」 心配げな祐介の呼びかけで、僕はふと我に返った。 意識が今までどこへ逃避していたのか。 随分長いこと漂ってたような気がするけど、きっと2、3分……ううん、もしかしたら数秒かもしれない。 「これ、この前の…だよな」 祐介の問いに、僕は頷く。 10日ほど前のこと。 忙しくドイツと日本を往復している赤坂先生に、たまたま時間の余裕ができて、僕は食事に連れていってもらったんだ。 もちろん悟たちも一緒に、4人でおいで…って誘われた。 けれど運悪く、その日悟たちは音大入試に備えた補講日で、一緒に行くことができなかったんだ。 だから、僕は一人で出かけていって…。 しかも掲載されてる写真ときたら、よりによって先生が僕の肩を抱いたところを狙いすましたようにシャッターが切られたもの。 ちょうど、ホテルのレストランから出てきたところだ。 おまけにもうひとつ。 その帰り道に、先生が春から借りている都心のマンションへ僕たちが入って行くところ。 先生の両親…つまり、僕のお祖父さんとお祖母さんの写真を見せてもらえることになって、ワクワクしている時だ。 僕だけじゃなく、悟にとっても昇にとっても守にとってもお祖父さんとお祖母さんになるわけだから、まさに、僕らを一つに繋ぐルーツって気がして、とても楽しみで。 この時僕は、お祖母さんについての思いも寄らなかった意外な事実も知ったのだけど、ともかく先生と過ごす時間がとても楽しくて嬉しくて、それが表情にも如実に現れている。 だって、こっちの写真と来たら、先の一枚と違って表情が読みとれる程度には鮮明に写ってるいるんだから。 そして、その写真に添えられた記事には、思わず脱力して笑っちゃう文章が並んでいた。 たくさんの音楽家と浮き名を流してきた世界的指揮者が、ドイツでの契約満了を待たずに日本との二重生活を始めたわけは、『美少女モデル』との出会いにあったのだと。 しかも先生の『新恋人』である『美少女モデル』は、化粧品のCMで一躍時の人となったのだけれど、そのプロフィールは未だに公表されてなくて、そもそもデビューからして『赤坂良昭』が絡んでいたのではないかとも書かれている。 つまり、指揮者がその威光を嵩に、若い恋人を芸能界に押し込んだってことだ。 ちなみに、どうしてメイクも衣装もつけていない僕が、CMのモデルだとわかったのかというと、『某CM制作会社のK氏の証言』とあった。 多分あの時の、優男のディレクターだろう。 続編の出演を断ったから根に持ってるんだ、絶対。 それにしても、よくもまあ、こうも嘘ばっかり書けたもんだ。 よく、雑誌の記事に対して『事実無根』を訴える人がいるけれど、僕としてはいつも『火のないところの煙は立たないんじゃないの?』…なんて思ってた。 でも、火のないところにも煙は立つんだ。 いや、違う。立てるんだ、きっと。雑誌を売るために。 「まあ、赤坂先生が日本へ戻ってきた理由は確かに葵だけどな」 祐介がドサッと音を立ててベッドに身体を投げ出した。 「しかし、望遠とは言えここまで撮られておきながら、それでも『美少女』って書かれる葵も葵だよなあ」 呆れたような祐介の口調に、僕は思わず笑ってしまう。 「っていうか、ここまで撮れててなんで未だに葵のプロフィールが暴かれてないんだ?」 それは、そうかもしれない。 素顔が割れたなら、調べようと思えば調べられるはずだ。 『某CM制作会社のK氏』は、契約で『素性をばらさない』と約束させられているから言えないとしても、少なくとも僕は、栗山先生繋がりの音楽関係者――それはもちろん、あのCMのレコーディング関係者も含まれる――には、素性が知れているわけだから。 「でもさ、制服で行かなくてよかったよな。あ、待てよ。制服でも『美少女』とか書かれてたりしてな」 あはは…と笑う祐介は、きっと僕の心中を察してくれているのだろう。 無意味な動揺をしてしまわないように。 周りが見えなくならないように。と。 だから僕も、 「っとにもう…。16にもなって美少女とか書かれるの、屈辱なんだけどっ」 …なんて、わざと怒ってみたりして。 本当は、どうでもいいことなんだけど。 だって、身長は全然伸びないし、肩幅とかだって、祐介たちはどんどんがっしりしていくのに、僕は全然だし、もう諦めの境地って感じなんだ。 だから、言いたいヤツには言わせとけ…なんて、開き直ってるんだけど。 …って、ほら。 僕はまたどうでもいいことをぐるぐると考えている。 どうしよう…。僕は、今何をどうすればいいんだろう。 「…ね、祐介」 「ん?」 「これ、明日発売って言ったよね」 「ああ。すでに書店や駅の売店なんかには発送済みらしい」 ってことは、僕は腹を括らなきゃいけないってことだ。 いつになるのか。 すぐなのか数日後になるのかはわからないけれど、みんなに知れてしまう。 だって、いくら僕の周囲ではあまり見かけない類の雑誌とは言え、千人を超える全校生徒の、誰の耳にも入らず、誰の目にも留まらないなんてこと有り得ないから。 「葵、先輩たちには…」 祐介の言葉に、僕は不意に現実に返った。 そうか。そうだった。これは僕だけの問題じゃないんだ。 こんな大事なこと、思い出せないなんて。 「言っておいた方が…いいよね」 「もちろんな」 迷いのない祐介の答えに、僕は頷く。 「ここへ来てもらってもいいけと、目立つだろうな。となると、時間はまだあるからホールの練習室が一番いいだろう。どうせ、悟先輩はこの時間だと練習室にいるだろうし、あとは、昇先輩と守先輩だな」 祐介が勢いよく立ち上がった。 「葵、その週刊誌もって、先に悟先輩のとこに行っとけ。僕が昇先輩と守先輩を探して伝言してきてやるから」 「…祐介…」 「ほら、急げって」 「…うんっ」 背中を押され、僕は週刊誌を丸めるとそのまま部屋を後にした。 ☆ .。.:*・゜ ホールの練習室は、使用率ほぼ9割ってところでかなり賑わっていた。 だから僕は、こそこそっと廊下を抜けて、悟がいるはずの『練習室1』の前に立つ。 そっと覗くと、そこには見慣れた――でも未だにドキドキする――練習に没頭する悟の姿があった。 音大の実技入試と定演を控えた、悟にとってもっとも大切なこの時期。 なんでよりによってこんなタイミングでこんなことが起こってしまうんだろう。 これが、もう少し後で、入試も定演も終わっていたら、悟たちに掛ける迷惑もちょっとはマシだったのに。 でも、僕は過去の色々で、『僕たちの問題』を一人で抱え込んだらろくなコトがない…って言うのを学んだ。 迷惑を掛けまいとして、余計に迷惑を掛けてしまうってことも。 僕一人の力で何とかなることもあるけれど、何ともならないこともある。 一人で持てば、押しつぶされてしまう荷物も、四人で持てばなんとかなる。 それはもちろん、僕の頼りになる友人たちにも言えることで、今回も祐介は最初から僕の荷物を背後でがっちりと支えてくれている。 だからきっと、大丈夫。 なんとか、なる。 僕はそう信じて、少し力を込めて、練習室1の重い扉をノックした。 ほんの一瞬あって、悟の指が止まった。 上げた視線が僕を捉える。 途端に笑顔になってくれる悟が嬉しくて、でも今は複雑で。 僕は、いつもなら悟が扉を開けてくれるのを待つんだけれど、誰かに見られては困るのと、気持ちが急いていたのと両方で、悟の笑顔を確かめた途端に扉を開けて、部屋に入っていた。 その様子はやっぱりちょっといつもと違ったんだろう。 悟の表情が僅かに翳った。 「葵? 何かあったのか?」 心配そうに尋ねながら、僕をそっと抱き寄せてくれる暖かい腕。 早く話さなきゃ…と思いながらも、僕はその暖かさに甘えるように、しがみついてしまう。 そんな僕を、悟は何も言わず、ギュッと抱きしめてくれたんだけど…。 暫くして、背中の違和感に気付いたらしい。 僕がその手に丸めた週刊誌を握っていたから。 「葵、何持って…」 僕の手をそっと自分の身体から外して、悟は僕が握っているものに触れた。 「何、これ」 一目で雑誌とわかるそれに――僕がそんなものを持っていたことは今まで一度もないから――悟は怪訝そうな顔をした。 僕は一つ深呼吸をしてから、その表紙を見せる。 一際目立つ、『世界的指揮者』という文字に、悟が眉根を寄せた。 「僕と、赤坂先生のことが書いてあるんだ」 一気に告げた僕の言葉に、悟が目を見開いた。 「なんだって?!」 そして、慌てた様子でページをめくる。 やがて、その目が記事を捉えたらしく、真剣な顔で読み始めて…。 悟は小さく息を吐いた。 「これはまた…可笑しくなるほど嘘八百だな」 「でしょ?」 「まあ、強いて言えば『帰国の原因が美少女モデルにあった』ってとこくらいは合ってるのかもしれないけど、そもそも『美少女モデル』ってところが、大間違いだからな」 ほんと、ほんと、その通り。 「『美少女』はいいとして、『モデル』じゃないもんな、葵はもう」 いや、美少女ってとこもぜひ削除をお願いしたいのだけど。 悟は右手で週刊誌を持ち、記事や写真に目を落としたまま、左手で僕を抱き寄せた。 「それにしても…。…ったく、面倒なことになったな」 呟く悟の瞳は、ちょっとだけ険しい。 「……ごめんね、悟。迷惑かけて…」 申し訳なくて、ちょっとだけ涙声になってしまった僕を、悟が慌てた様子で抱きしめ直した。 「こら、葵。何を謝ってる」 「だって…」 「だってもへったくれもない。一番の被害者は葵じゃないか」 「でも…」 「でも、じゃない。僕が心配しているのは、葵の周辺が騒がしくなることだ。そりゃあ、一度はモデルになって世間に出たけれど、あれにはちゃんと理由があっただろう? それにその後葵はそう言う活動はまったくしていない。今は普通の高校生だ。こんな風に、興味本位でプライベートを晒されていいはずがない」 言い切る悟の力強さに、僕は、僕の中の緊張が緩むのを感じる。 「悟…」 そして、くったりともたれかかった僕に、優しく降ってくる暖かいキス。 「葵…大丈夫。僕がついているから…」 と、その時。 「『僕が』じゃなくて、『僕たちが』…だろ? っとに、もう〜」 いきなり聞こえた声は、僕のお兄ちゃん’Sの一人である昇のもの。 もちろん続いて、守の声も。 「しかしお前たちって、隠してるわりにはヤってることが大胆だよな。覗いたら見える角度だったぜ?」 え?! ほんとにっ? 「ま、それはともかくとして、問題発生だって?」 「今、浅井に聞いて、慌てて飛んできたんだけど…」 言いかけた昇が、悟に手にある週刊誌に目をつけた。 「もしかして、これ?」 悟は無言で頷いて、それを二人に見せた。 しばし、室内は沈黙して…。 「ほんと、いやらしい覗き見趣味だなあ」 記事から目を離して、昇が呆れたように言った。 「如何せん、親父がまだ四十でたところのバリバリ現役で、顔の方もそこそこいけてるからなあ。おまけに過去の行状があれこれあっちゃあ、もう格好の標的なんだろう」 ドサッと椅子に腰を下ろした守も、昇と同じく、相当な呆れ顔だ。 「それにしても何だな。この距離で撮られてなお『美少女』ってところが笑えるよな」 だから、それはもういいってば。 「まあな、母さんが買ってくる葵の服ってユニセックスなものばっかだし、パッと見、マジでわかんねえけどな」 そうか。半分は香奈子先生の所為なんだ。よかった…とか言ってる場合じゃなくて。 「で、どうするよ、悟」 ふいに真顔になって、守が言った。 「どうすると言ってもな…。こちらから先手を打てるようなものではないし…」 「周囲の出方待ちってこと?」 昇が上目遣いに悟を伺う。 「ああ。今のところ、それが最良のように思うんだが…。どうだ? 葵」 僕を抱き寄せたままに、悟が見下ろして尋ねてくる。 言葉にはしないけれど、瞳が『大丈夫か?』と、言っている。 もちろん僕は頷いた。 悟がいてくれるから、大丈夫。 昇も守もいてくれるから。 そして、祐介もいてくれるから。 しっかりと頷いた僕を見て、ニッと笑った守が僕の頭を撫でた。 「この前、某ソプラノ歌手のオバサンが言ってたけどさ、ヨーロッパとかアメリカなんかの音楽関係には葵のことは結構知られてるらしいけど、あっちのヤツらって、『どうしてそうなったのか』ってことにはあんまり興味示さないんだってさ。ありがたいことに」 え、そうなんだ。 「それって、セシリア・プライスやシャロン・ギュームが睨みを利かせてるからじゃないのか?」 「ま、それもアリだろうけどさ。とりあえず、『ヨシアキは元気だねー』で、笑い話になってるらしいし」 笑い話って…それもどうかと思うけど。 まあ、それで済んでるのなら、それでもいいか。 「でもさ。この様子じゃ、この先も色々嗅ぎ回られそうだよね」 昇が腕組みをして、唸った。 「そうだな、それがウザイよな」 守も長い足を組み替えて、唸る。 「葵。何かあったらすぐに言うんだぞ?」 悟だけでなく、昇にも守にもそう言われ、僕は頷いた。 でも、大丈夫…だと僕は思った。 その時、僕はもちろん持ちこたえられると思っていたんだ。 自分で言うのもなんだけど、生い立ちの所為なのか、僕自身はこう言うことに対して結構打たれ強い。 ちょっとやそっとの陰口なんて、なんともないから、僕さえしっかりしていれば大丈夫。 けれど、事はそう単純に、一筋縄ではいかなかったんだ。 |
【4】へ続く |