Op.3
第1幕「微笑みの眼差しさえあれば」
【4】
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僕が思っていた以上に早く、例の週刊誌の一件は校内に出回った。 翌日――つまり週刊誌の発売日――こそ何にもなかったけれど、次の日にはちらちらと、いつもとちょっと違う視線を感じるようになり、その次の日には、すでにそこかしこで話題にされるようになった。 もちろん、あの週刊誌の現物も、僕の目には留まらないものの、何冊も校内に出回っている様子で。 で、こそこそと話題にされている中身はと言えば、週刊誌の内容とはちょっとちがうもの。 つまり、『美少女モデル』の正体が実は『女の子ではなくて、しかも普通の高校生』と知っている上に、赤坂先生がここのOBだと言うことも知っている生徒諸君は、『世界的指揮者がその威光を嵩にきて、『美少女』の芸能界入りをごり押しした』…なんてことはこれっぽっちも信じてなくて――まあ、確かにそれは事実無根だし――ただ、『どうして奈月葵が個人的に赤坂良昭とつき合っているのか。しかも一対一でこんなに親密に』…って言う点に注目していたりするんだ。 で、噂されている内容と言えば、『実は本当に恋人同士なのではないか』とか、『奈月が将来のデビューに備えてコネ作りの色仕掛けをしているに違いない』とか、そんなもの。 男子校ならではの発想に、ちょっと呆れたりもするわけだけれど、そんな噂を管弦楽部の仲間たちはこぞって否定して回ってくれた。 『マエストロは、奈月の才能を高く買っているから』…って。 つまり、純粋に音楽の繋がりなのだと。 けれど、週刊誌の写真が、管弦楽部のみんなのせっかくの好意を説得力のないものにしている。 あまりにも、先生と僕が、親しげで、楽しげに写っていたから。 だって、仕方ないじゃないか。親子なんだから。 そんなわけで、僕と先生に関する噂は、日を追って…ううん、時間を追ってエスカレートしていった。 より、おもしろ可笑しく。 より、スキャンダラスに。 先生たちも、ざわついた校内の様子には気付いてはいるみたいだけれど、僕が何にも言わないものだから、今のところ静観の構えという感じ。 昇によると、目だけは光らせてくれてるみたいなので、その方がありがたい。 それに、どうやら古田くんや桐哉も、先生たちとの連絡を密にしてくれているらしい。 僕は、桐哉にはまだ何も話していなかったから、どうしようと思ったんだけど、古田くんが『こっちのことは気にしなくていい。桐哉は、心配はしているけれど余計な詮索はしないヤツだから。落ち着いて、もしその気になったら桐哉にも話してやってくれ』…って言ってくれたから、僕はありがたくその言葉に乗せてもらうことにした。 そんな嬉しい援軍の数々に、『人の噂も七十五日』、そのうちに飽きて、忘れてくれるだろう…という楽観的観測もあった。 それに、僕自身はどんなことを言われても平気なんだ。 事実じゃないんだから。 言いたいヤツには言わせておけばいいし、退屈凌ぎのネタにしたければすればいい。 でも、僕が否定も肯定もしないからなのか、次第に噂の的は先生に集中し始めた。 僕に対する揶揄や中傷なんてのは、身近にいるから少しなりとも遠慮があるのか、妙にバカバカしかったり、下らなくて笑い飛ばせるようなものが多いんだけど、相手が直接の知り合いでもなく、大人となれば、容赦がない。 正直、下劣な…としかいいようのないような、笑い話では済まない作り話で先生のことを貶めるようなことをされるのは、さすがに堪えた。 先生の相手は僕だけじゃなくて、世界中至るところに愛人がいるんだとか。立ち回り先にはすべて愛人を置いているとか。 過去の色々の所為で、先生は無節操な遊び人だと思われている。 先生自身も、そのことについて否定したり言い訳したりってことを一切しない。 ただ、『自分がロクでもない人間だということに、気付くのが遅かったんだ』…なんて言うだけで。 でも、その言葉に対して香奈子先生は、『違うわ。良昭は、自分がロクでもない人間だってことに、あまりにも早くに気付いてしまっただけよ。普通の人間はもっと年を取ってから気付くものなのだけどね』…なんて、謎掛けめいた言葉を返して笑っていたけれど。 僕だって、その存在を知らない時には、ちょっぴり恨みもしたし、どうでもいいと無関心を装ったり、母さんを捨てていくようなヤツ、どうせまともな男じゃない…なんて否定してみたりもしたけれど、でも、僕はもう、色んなことをちゃんと――全部かどうかはわからないけど――知っている。 先生が、ずっと母さんのことを思い続けていてくれたことも。 先生が、どんなに優しくて、真っ直ぐな人であるか…も。 だから、僕は先生のことをおもしろ可笑しく脚色されて噂されるのは堪らなかった。 先生は悟たちのお父さんで、そして何より、母さんが最後まで愛し続けた人…だから。 そして、週刊誌の発売から5日ほど経った日。 寮の電話ではなく、光安先生を通してドイツから僕に連絡を取ってきたのは、その、赤坂先生だった。 『葵…すまなかった』 開口一番、先生はそんなことを言った。 「え? どうして、ですか?」 どうして先生が僕に謝らなくちゃいけないのか、本当にわからなくて、思わず大きな声で聞き返してしまう。 『葵を巻き込んでしまった』 そして、返ってきたのはそんな、心底すまなそうな声。 これには僕も慌てるしかない。 「そんなっ、巻き込んだなんて思わないで下さいっ。だって、僕たち何にも悪いことしてないじゃないですか!」 必死に言い募る僕に、先生は小さく息を吐いた。 『…そうだな。確かにそうだ。だがな…』 先生の声も、困惑しているのがありありとわかる。 守が言っていたとおり、ヨーロッパやアメリカでは、こんな興味本位の追求は受けたことがなかったそうだ。 なのに、日本の記者たちは、先生の事務所にまで突撃してきたらしい。 僕――『美少女モデル』――の正体と、『二人の関係』を聞き出そうとして。 「先生、僕、全然平気です。だから、心配しないで下さい」 『葵……』 僕は本気で言ってるんだけど、先生はまだ納得していないような声を出す。 僕は本当に大丈夫なのに。 だって、小学生の頃なんて、『私生児のクセに』とか『親無しっ子』とか『日陰者』とか、面と向かって言われてきたんだから、これくらいのこと何でもない。 でも、それを先生に言ってしまうわけにはいかなくて――そんなこと言ったら先生はまた絶対自分を責めると思うから――僕は、どうやったらわかってもらえるだろうかと、また言葉を探す。 「先生…約束、しますから」 『葵?』 「何かあったら、必ずSOSを出します。1人で我慢したりしませんから。だから、僕を信じて下さい」 言い切って、一息つく。 すると、電話の向こうで先生がふわっと笑ったような気がした。 『葵は、強いな』 え、そんなことは全然…。 『強くて、優しくて、ちゃんと自分の足で立っているんだな』 そ、そんな風に言われると、恥ずかしいんですけど…。 『わかった。葵を信じるよ。それに、悟たちもついているからな』 先生の言葉に、僕は、こんな時なのに嬉しくなって元気よく返事をした。 それから先生は、電話を代わった光安先生と暫く話し――どうやら僕のことを、念を押しまくって頼み込んでいる風だったけど――ドイツからのラインは切れた。 「何かあったらSOSを出すって言葉、私も信じているからな」 受話器を置いた光安先生は、そう言って僕の頭を撫でる。 「はい。約束します」 僕の周りにはこんなにたくさんの味方がいる。だから絶対大丈夫。 …のはずだったんだけど。 その翌日には、僕は、僕だけが平気ならいいんだ…という考えを改めることになった。 ことが赤坂先生のことだけに、当然と言えば当然、からかいや中傷の矛先は、息子である三人にも向かっていたんだ。 そんなこと、考えなくてもわかりそうなことなのに、そこまで頭が回ってなかった僕は、やっぱりそれなりに余裕をなくしていたってことらしい。 でも、今さら反省したところで、もう十分に遅くて…。 守は一見平然としてるようなんだけど、佐伯先輩に聞いたところによると、結構苛々しているらしい。 同室の森澤先輩は、『あいつ、自分のことなら滅多にあんな風にはならないんだ。けど、自分が何言われたって平気なんだろうけど、奈月のコトとなるとそうはいかないからな。可愛い弟に何かあったら…って、気になって仕方ないんだろう』って教えてくれて、『長年の腐れ縁で、あいつの取り扱いには慣れてるから、あいつのことは心配するな。俺に任せとけ』…なんて、笑ってくれた。 で、昇はと言えば、いつもなら突っかかっていって派手な喧嘩も辞さないところだけれど、僕のことを考えて、我慢をしてくれているようで。 もちろんそのとばっちりというか、はけ口は光安先生らしくて、先生は『久々にやんちゃできかん気で暴れん坊な昇も新鮮でいいよ』なんて、大人の余裕で気を遣ってくれたりした。 そして、悟はというと…。 僕は『その』現場に出くわしてしまったんだ。 それは、三時間目と四時間目の間。 特別教室への移動途中。 今までに、こんなところで出会ったことはなかったんだけど、どうやら向こうは図書室での自習だったらしく、3−Aの人たちがぞろぞろと行くところに遭遇した。 そして、聞こえた揶揄の声。 「なあなあ、悟〜。お前たちの親父さんってさあ、美少年趣味まであるのかよ〜。ホント、無節操だよなあ」 その瞬間、隣にいた祐介が僕の肩を無言でギュッと抱き寄せた。 少し前を歩いていた古田くんは、僕の前に立ちはだかって、視界を塞いだ。 でも、一瞬僕には見えてしまったんだ。 悟の横顔が。 その綺麗な顔が、ギュッと、唇を噛みしめるのを。 その後の声は、なんだかよく聞き取れなかった。 けれど、少なくとも悟は一度も言い返したりしなかった。 黙って、耐えていた。 今までに、どれほどのことを言われてきたんだろう。 毎日のように、僕には『大丈夫か?』って気を遣ってくれていたけれど、悟自身がどんなことを言われてるかなんて、僕はちっとも気がつかなくて…。 このままじゃダメだ。 僕は、強くそう思った。 これはもう、僕だけの問題じゃない。 ううん、最初から僕だけの問題じゃなかったんだ。 これは、僕たちの問題。 僕だけのこだわりで、悟たちを巻き込んじゃいけないんだ。 「大丈夫か? 葵」 心配そうな祐介の声に、僕は『ん…』と小さく頷くだけで、今回ばかりは『大丈夫』とは言えなかった。 そんな僕を、祐介も、そして振り返った古田くんも、まるで自分が痛みを感じているような顔で見つめてきたから、僕は、せめても…と、ちょっと無理に笑って見せた。 遠ざかっていく3年生たちの気配。 悟の姿も見えはしない。 僕は、覚悟を決めた。 |
【5】へ続く |