Op.3
第1幕「微笑みの眼差しさえあれば」

【5】





 覚悟を決めてしまうと、僕は意外な程フットワークも軽く、準備に乗り出した。

 とにかく、赤坂先生。

 寮から電話するわけにもいかなくて、光安先生にお願いしようと思っていたところで、運良く香奈子先生から連絡が入った。

 赤坂先生が、今夜の飛行機でこっちへ来ること。
 そして、いつもの都心のマンションではなくて、1週間ほど桐生家に滞在すると言うこと。

 香奈子先生はきっと、赤坂先生と僕のことを気遣って、人目に触れないところで会わせてくれようとしたに違いない。

 マンションには、もしかしたらまたカメラが向けられるかも知れないし。

 僕は、何とかして赤坂先生と直接会って話がしたかったので、香奈子先生がそれを言い出す前に、今度の日曜に、帰ってもいいですか?…って聞いたんだ。

 もちろん香奈子先生は二つ返事でOKしてくれて、車で学校にも迎えに来てくれることになった。

 面倒をかけて申し訳なかったんだけど、今はちょっとでも用心した方がいいと思ったから、僕はその言葉に甘えることにした。

 で、そのことを悟たちに言おうか言うまいか、少し悩んだんだけど、運良く――と言っていいのかどうかわからないけれど――この日はまた、音大入試の補講日に当たっていたので、僕は三人には何も言わずに桐生家へ向かうことにした。

 祐介に留守を頼み、光安先生に、伝言だけお願いして。



                   ☆ .。.:*・゜



「先生…」

 桐生家のリビングで、先生は僕の到着を待っていてくれた。

 あの、写真を撮られた夜以来だ。

「葵…」

 応えてくれる先生の声は、これ以上ないくらい優しくて、側に駆け寄った僕を、しっかりと抱きしめてくれる。 

「大丈夫か? 葵」

 見上げると、とてもとても、心配そうな顔。

 その顔を見た途端、僕の『覚悟』は、自然に僕の『当たり前』になった。


「先生」

 はっきりと、しっかりと呼びかけた僕に、先生はほんの少し、僕の身体を離して、次の言葉を待ってくれる。

 だから僕は、先生の目をちゃんと捉えて尋ねる。


「僕、みんなの前で、先生のこと、お父さん…って呼んでいいですか?」


 その瞬間の先生の顔を、僕はどう表現すればいいんだろう。

 絶句して、目を見開いた先生は、ほんの少しのあと、深呼吸のように息を吐いてから、言った。

「いいの、か?」

 声に、涙が混じっている。

「だって、先生は本当に、僕の大切なお父さんだから」

 先生が、僕のお父さんだとわかってからすでに1年以上が過ぎていて、心の中ではとっくに『お父さん』と呼べていたはずなのに、僕は未だにその大切な言葉を、この大切な人に言ってなくて、急に、申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 だから僕は、みんなの前で『お父さん』と言うより先に、言わなくちゃいけないんだ。

 今、ここで。大切な一言を。


「…おとうさん…」

 告げた言葉はなんだかちょっと掠れていて、ちょっと照れくさくて、でも、とっても暖かい。

 お父さん…は、きつく目を閉じて、一度天を仰いだ後、僕を固く抱きしめてくれた。


「…ありがとう…葵、ありがとう…」

 そして、僕ももちろん、お父さんにギュッとしがみついた。



                   ☆ .。.:*・゜



「ほんと、この場に立ち会えて幸せだったわ」

 香奈子先生はそう言って、綺麗な薔薇模様のハンカチで、またそっと目尻を押さえる。

 佳代子さんが、久々に訪れた赤坂先生…じゃなくて、お父さんのために用意してくれていた、素材に拘った旬の味満載の和食でランチを堪能した後、香奈子先生とお父さんと僕は、リビングでお茶をしている。

 初めて『お父さん』と呼んでから、しがみつきあっていた僕たちを現実に引き戻したのは、香奈子先生の泣き声だった。

 先生は、嬉しくて、ホッとして、堪らなくなったそうで、暫くその涙は止まらなくて、僕たちは一生懸命に先生の背中をさすったりしたんだ。


「それにしても、こういう展開になると、かえってこの下らない三文週刊誌に感謝したくなるわね」

 当然と言うか何というか、やっぱり桐生家にも例の週刊誌は置いてあったんだけど、あまりにも内容がばかばかしくて、香奈子先生は、佳代子さんと二人して大笑いしたんだそうだ。

 ただ、自分たちは大笑いで済むけれど、聖陵にいる僕たちが、どんな思いでいるだろうと思うといてもたってもいられなくなり、実は一度、光安先生を訪ねて学校へ来ていたのだと教えてくれた。


「きっかけを作ってくれた…って意味では意義のある記事だったわ」

 そう言って香奈子先生は、悪戯っぽくチラッと舌を出す。

「だがなあ…」

 疲れた風に応えるのは、お父さん。

「長らく日本を離れていて、すっかり疎くなっていたのかもしれないが、こっちのマスコミは恐ろしいな。まるでスッポンだ」

「まあね。あちらでは追い掛けられるのは芸能人か王族か…そんなところだものね」

 そうか。そうなんだ。

 あ、そう言えば、パパラッチとかいうのがいたな。カメラ持って追いかけ回すヤツらが。

「ともかく、こっちでの取材は私が引き受けるわ」

「香奈子…」

 自信ありげに宣言した香奈子先生に、お父さんが目を瞠った。

「一緒にいた『美少女』は、赤坂良昭の息子で、すでに認知も済んで、高校の卒業を待って籍を入れることになっている…って、ちゃんと話すわ。もちろんOKね? それが真実なんだから」

 や、あの、それに関しては異議なしですが、今の発言では『美少女』ってところがやたらと強調されていたのがちょっと気になったりして…。

 いや、そんなことはどうでもいいんだけど。


「それは…もちろん当然のことなんだが、それをしなくてはいけないのは、私の責任だから…」

 と、お父さんが口を挟むと、香奈子先生がそれを遮った。

「何言ってるの。こういう下世話なネタを追い掛けてるような輩には、わけ知り風に『元ヨメ』なんかがしゃしゃり出てくる方が、インパクトあってウケるわよ?」

「「はあ?」」

 間抜けな声を出したのは、僕とお父さんと同時のこと。

「ウケる…ってなあ、香奈子…」

 何を言い出すんだ…と言わんばかりのお父さんに、香奈子先生はニッコリと笑ってみせる。

「いいから任せておいて。良昭も葵も、知らん顔してればいいのよ。…ただ…」

 香奈子先生は言葉を止めて、僕を見つめる。

「モデルの正体も世間にわかってしまうことになるけれど、葵、それは大丈夫?」

 あ、なんだ、そんなことか。

「はい、全然平気です。これから先も、もうあんなことをする気はないですし、それに…」

「それに?」

「…もし、将来音楽の世界で生きていけるとしたら、モデルのことはその前宣伝になったと思えばいいことですし」

 クラシック音楽を生業にして生きていくのは難しい。その点、僕には香奈子先生やお父さん、それに栗山先生もいてくれるから、とても恵まれている。
 けれど、それだけじゃなくて、自分の持てるもので使えるものは使わなくちゃ…ということだ。

 守だって言ってるもん。

『きっかけはビジュアルでもなんでもいいから、とにかく、まずこっちを向かせることだ』って。

 そこから先は、もちろん実力勝負なんだけどね。


「まあ」

 香奈子先生が嬉しそうな声をあげた。
 見ればお父さんも笑ってる。

「ほんと、頼もしい末っ子ちゃんね」

 そう言って、香奈子先生は僕を抱きしめてくれた。

「大丈夫よ。あなたには私たちがついているわ。いつでも、どんな時も」

 その言葉に、僕は本当に恵まれている…と、幸せをいっぱいに感じて、香奈子先生に感謝の気持ちを伝えた。



 お父さんは今日の夕方から明々後日まで、日本でレコーディングをしてからまたドイツへ戻る。

 2週間後にはヨーロッパツアーを控えているから、次に会えるのは普通なら2ヶ月後くらいになるはずなんだけど、悟がソロを弾く管弦楽部の定演には、とんぼ返りでもいいから、なんとかして駆けつけたいって言うんだ。

 昇の時も守の時も、こっそりと聞きに来ていたから、今回も密かに聞いて黙って帰るつもりでいるんだろうと思うと、なんだかついお節介をして、『お父さん、来てるよ』なんて言ってしまいそう。

 や、でもきっと言っちゃうとしたら、演奏が終わってから…だろうな。

 ううう、悟の驚く顔が、見てみたい…。




 3時過ぎ、僕とお父さんは、香奈子先生の車で桐生家を後にした。

 途中、お父さんをレコーディングスタジオの前まで送り、その後、香奈子先生と晩ご飯を食べに行ってから、学校へ送ってもらうことになった。

「風邪ひかないように気を付けるんだよ」

 車を降りるとき、お父さんはそう言って、僕の頭を撫でた。

「はい。お父さんも、身体に気を付けて」

 そう応えると、お父さんはまたちょっと照れたように笑って、『ありがとう』って言ってくれた。 

 そして、別れ際、僕とお父さんは一つの約束をしたんだ。

 母さんの思い出は誰にも語らずに、そっと2人の胸にしまっておこうって。

 最後まで、すべてをその胸に秘めて逝った、母さんの『想い』を尊重して。



 それから香奈子先生は、昔からの馴染みだという老舗のイタリア料理店に連れていってくれて、イタリア人のオーナーシェフに僕を紹介してくれた。

『うちの末っ子なのよ』って。

 シェフは驚きながらも歓迎してくれたんだけど、『そう言えば、目元や口元が昇くんによく似ていますね』って言われて僕も驚いたりして。

 でも、『お兄ちゃんに似てるね』って言われることが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。

 ずっと、一人っ子だったから。



                   ☆ .。.:*・゜



 ちょうど寮食での夕食時間が終わる頃。僕は学校へと戻ってきた。

 正門の閉門時間は過ぎているんだけど、保護者の送迎つきってことで届けも出しているから、そこは問題ない。

 ただ、悟たちには伝言だけで、直接何も言ってこなかったから、きっと今頃心配してるだろうな…。

 香奈子先生ってば、『どうせ悟あたりが掛けて来るに違いないわ』って、携帯の電源わざと切っちゃうし。

 そうして香奈子先生の車が来客用の駐車場に滑り込み、ヘッドライトが照らした先にはなんと、見慣れた三人の姿が。


「あらあら、お揃いで待ち伏せとはね」

 笑いながら香奈子先生が言い、そして不意に声色が変わった。

「葵」

 突然の真剣な声に、僕は隣から運転席の香奈子先生を見つめる。

 先生もまた、僕をジッと見つめて…。


「あなたはね、あなたのお母さんとあなたのお父さんの、素敵な愛の結晶なの。だから、どんな時も堂々としていなさい」

「…はい!」

 僕はその言葉に、いつかきっと、そう遠くない日に、僕自身が悟たちと同じように、香奈子先生のことを『お母さん』と呼ぶ日が来るだろうと確信した。





「ったくもう〜、黙って行くから悟が大変だったんだし〜」

 開口一番、昇が文句を垂れて僕のおでこを小突く。

「悟だけじゃないだろ。お前もオロオロしてたじゃんか」

 腕組みした守が、横目でジロッと昇を見る。

「あ、そういう守だって、ブツブツ言ってたじゃん」

 三人は、駐車場から校内へ入るためのゲートで僕を待っていてくれた。

 そして、僕はそのままホールの練習室1へ連行されて…。


「補講が始まる直前にお前が家に帰ったって知って、こいつ、席蹴って音楽室を飛び出してったんだぜ」

 練習室へ入るなり、腕を組んだまま、守は肘で悟の身体をつついた。

「ごめん〜」

 僕は小さくなるしかない。

「まあ、顧問が引き留めてくれたからよかったけどな」

「光安先生が?」

「ああ、『心配するな、葵は大丈夫だ。お前たちの両親がちゃんとついているだろう?』ってさ」

『「だから、お前たちは、今自分がやらなくてはいけないことをきちんとやり遂げろ』って言われて、悟ってばやっと音楽室に戻ってきたんだもんね」

 そう言う昇も、光安先生に『なんでもっと早く教えてくれなかったのっ』って食ってかかったっていうのは、守が横からコソッと教えてくれたことだけど。

 ともかく。

 色々思うところはあったとは言え、三人に黙って帰ったことについては、謝るしかない。


「…ごめんね…」

 チラッと見上げると、そこには僕を見下ろす超不機嫌な悟の顔。

 そう言えば、悟ってばさっきから一言も口聞いてくれないし…。

 更に小さく縮んで行きそうな僕を見つめたまま、重苦しい間の後、ため息を一つ吐いて漸く悟が口を開いた。


「…どうして、黙って帰った?」

 う。ごめんなさい。
 …や、ここは謝ってる場合じゃなくて…。


「…まあ、母さんが共犯だって聞いて、ちょっとは安心したけどな…」

 ほんのちょっと、険しかった表情を緩めて、悟は僕に手を伸ばし、その暖かい胸に包み込んでくれた。

 身体に感じる悟の鼓動が、いつもより忙しないことに気付いて、僕は、今さらながらにどれほど悟が心配してくれていたのかを知る。

「…ごめんなさい。でも…」

「でも?」

「どうしても、先にやっておかなくちゃいけないことがあったんだ」

 僕と、お父さんの、大切な一歩。そして、約束。


「あのね」

 僕はそっと悟の腕から抜け出し――でも、手はしっかり握ったまま――昇と守にも呼びかける。

 三人は、息を詰めて僕の次の言葉を待っていて…。

「みんなに、本当のこと…を、言ってもいい?」

「本当の、こと?」

 悟が僕の目を覗き込む。

「うん。お父さんの、こと」

 三人が一斉に目を見開いた。

「僕、お父さんのこと、みんなに話そうと思うんだ」

「葵っ!」

 叫んで抱きしめてくれたのは、守。

 頭をかき回してくる昇の目は、一気に潤んでいる。

「やっと、この日が来たんだな」

「ありがとう、葵」

 二人の気持ちが嬉しくて、でも、今までどれほどの思いをさせてきたんだろうと思うとかなり申し訳なくて、僕は小さく『今までごめんね』と告げた。

 けれど。

「本当に…いいのか? 葵」

 不安げな声。それは悟の…だった。



【6】へ続く

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