Op.3
幕間「野いちごに寄せて」

【1】





「でもほんとにびっくりした〜。悟先輩たちと奈月先輩が兄弟だったなんて」

「そうですね」

 部活の終わった後、初瀬くんと二人きりの練習室で、ぼくはしみじみと呟いた。


 今日はみんな、そのことで持ちきりだった。

 少し前、奈月先輩と赤坂先生のことが写真週刊誌に載っちゃって、管弦楽部のみんなは随分心配していたんだ。

 先輩と繋がりのない生徒の中に、おもしろ可笑しくいやらしいことを吹聴して回る人がいて。

 けれどぼくたちはみんな、『それがどうしたってわけ?』って思ってた。

 だって、あの奈月先輩だよ? 
 赤坂先生がその才能に目を付けて親しくなったところで、当然じゃない。

 アニー先輩だって、『音楽家』として赤坂先生と個人的に親密なおつき合いがあるって言ってた。

 それと同じじゃないかって、管弦楽部のみんなは納得してた。

 なのに、悪く言いたいヤツはいるもので、『それにしちゃあ、指揮者のセンセがやたらとヤニ下がってるじゃん』なんて言った挙げ句、『まあ、あれだけの美少年だもんなあ。誰でもクラッとくるって』なんて、いやらしい言い回しで笑うんだ。

 ほんと、むかついた。

 紺野先輩や谷川先輩なんて、『殴ってやろうかと思った』って拳を握りしめてけど、赤坂先生の息子である悟先輩たちがずっと沈黙を守っていたから、ぼくらとしてもこれ以上騒ぎにするわけにいかなくて。

 でも、すべてがわかった今、先輩たちの沈黙も理解できた。
 言い訳や弁解する必要なんて、どこにもなかったんだから。


 そう言えば。

 お母さんがもう亡くなってる…っていうのは聞いてたんだけど、お父さんの話って一度も聞いたことなかったなあ…なんて今さらながらに気がついたりして…。


 それにしても。

 ぼくが心底驚いているって言うのに、初瀬くんの『そうですね』は、全然実感がこもってない。

「…どしたの?」

「え? 何がですか?」

 ぼくの質問に、初瀬くんは不思議そうな顔をしてみせる。

「だって、初瀬くんちっとも驚いてないよ?」

 ぼくが見上げると、初瀬くんは少し焦った様にスッと視線を逸らした。

 絶対おかしい。
 だって、いつも初瀬くんはぼくの目をちゃんと見て話すから。


「初瀬くん?」

 ちょっと強気でぼくが呼ぶと、初瀬くんは、はあ〜っと一つ、らしくないため息をついて、何故だか『すみません』と謝った。

「何? 何で謝るの?」

 首を傾げたぼくに、初瀬くんは『実は…』と切り出した。

「あのこと、知ってたんです」

 あのこと?

「ええと、今日の奈月先輩の話…」

 ………。

「ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」

 それってそれって…。

「どうしてっ?」

 思わず初瀬くんのネクタイを掴んで揺さぶってしまったぼくに、初瀬くんはちょっと苦笑して、大きな手で僕の両肩を包んだ。


「今年の春…入学して、そんなに経っていない頃のことでした」

 初瀬くんが静かな口調で語ってくれたのは、お兄さん――弓彦さんに関わる話だった。

「奈月先輩の前で、兄の写真を落としてしまったんです。そしたら、写真を見た先輩がびっくりされて…」

 …そりゃそうだ。ぼくだってびっくりしたもん。
 きっと奈月先輩も、ぼくにそっくりだと思ったはず。


「先輩は、僕が何かを抱えていると、敏感に察して下さったんです。で、よかったら話してみないか…って言って下さって、僕はその言葉に甘えました」

 そうか…。

「奈月先輩、知ってたんだね。お兄さんのこと」

 よかった。
 ぼくの他にも、初瀬くんの痛みを知ってくれている人がいて…。

 ぼくの言葉に頷いた初瀬くんは、立ったまま話し込んでいることに気付いたのか、ぼくをそっと椅子に座らせてくれて、向かい合わせに椅子を持ってくると、腰を下ろした。


「奈月先輩に聞いてもらって、僕は本当に楽になって、それから色んな話を奈月先輩としたんです」

「うん、それわかる。奈月先輩って、お話するのも上手だけど、聞いてくれるのも上手だよね」

「はい。それで僕もとても話しやすくなっていて、つい、先輩に訊いてしまったんです。『ご兄弟はいらっしゃるんですか?』って」

 そうなんだ。
 でも、それだけで、先輩たちがずっとナイショにしてきたこと、言っちゃうんだろうか。


「ところが先輩の答えは、『戸籍上は一人っ子なんだけどね』って言葉で、僕は訊いてはいけないことを訊いてしまったんだと焦りました」

 話が核心に迫ってきて、ぼくは思わず口を引き結んだ。

 そんなぼくの緊張を感じ取ってくれたのか、初瀬くんはその大きな手でぼくの手を包んでくれて…。


「けれど先輩は、『もし嫌でなければ聞いてくれる?』って言って下さったんです」

 それって…。

「もしかして、奈月先輩は、初瀬くんの大切な話を聞いた代わりに…?」

 初瀬くんは大きく頷いた。

「先輩はきっと、僕が晒した僕の心の代わりに、先輩の大切な秘密を、教えて下さったんです」

 …奈月先輩、すごい…。


「でも、お兄さんが三人、しかもこの学校に…と聞いて、そりゃあ驚きました。奈月先輩は高2ですし、上と言えばもう高3しかいない。なのに三人ってどう言うことだろうと思ったんですが、すぐに『もしかして』と思いました」

 うう…初瀬くんもすごい。
 だって、ぼくだったら絶対そんなのピンとこないよ。

 今日だって、悟先輩がはっきりと奈月先輩のこと弟だって言ったのに、理解するのに暫くかかっちゃったくらいだし。


「公表されないのはお兄さんたちの意向かと思ったんですが、奈月先輩は『自分がお願いして内緒にしてもらってる』って。『気持ちの中で、まだ色々と整理し切れてないことがあってね』…って、笑いながら仰った時、なんだか…」

 言葉を切って、初瀬くんは一つ、ため息を漏らした。

「奈月先輩が抱えてらっしゃるものの重さに、身体が震えてしまいました」

 その言葉に僕は頷く。

「うん。今日、悟先輩が話してくれた他にも、きっと色んなことがあったんだろうね」

 あの短い時間だけでは語れないたくさんのこともあるだろうし、言いたくないこともたくさんあるだろうし。

「ぼくたち、ちょっとでも奈月先輩の役に立ちたいよね」

 そう言ったぼくに、初瀬くんはしっかりと頷いてくれた。



                    ☆ .。.:*・゜



 その夜、ぼくは昼間の色々のせいか、なかなか眠れないでいた。

 今までのことをよく考えてみると、『そう言えば』って思えることが数々あって、やっぱり先輩たちが兄弟だっていうのはとっても納得できるなあ…なんて、ぼんやりと思った時…。

 ふと、思いついた。

 そう言えば、奈月先輩は実は悟先輩の恋人なんじゃないか…って言ってた先輩、いたっけ。

 ほとんどの人は、奈月先輩の恋人は浅井先輩だと思ってるけど、でも、本当は違うんじゃないかって。

 でも、これで決定…だよね。

 だって、悟先輩は奈月先輩のお兄さんで、だから、悟先輩はとても奈月先輩を可愛がっていたのであって。

 だから多分、やっぱり、奈月先輩の恋人は、浅井先輩…。

 って、わかってたことなのに、なんで今さら苦しくなるんだろう。

 それに、特に2学期になってから頻繁なんだけど、浅井先輩、よく不機嫌になるんだ。

 でも、浅井先輩のご機嫌が何をきっかけにナナメになるのか、ぼくには未だによくわからなくて、ぼくはここのところちょっと疲れていたりする。

 いっそのこと、ぼくが何かをやらかした…ってはっきりわかってたら、気の付けようもあるんだけど…。

 ダメだ、眠れない…。

 浅井先輩…。

 ぼくはやっぱり浅井先輩のこと……。



                    ☆ .。.:*・゜



 練習室の廊下の隅っこで、先輩が二人、親しげに話している。

 英彦と同じフルートパートで管弦楽部長の浅井祐介と、一つ先輩の藤原彰久。

 彰久は、長身の祐介を見上げて楽しそうに笑い、祐介は小さな彰久を見下ろして、優しげに話している。

 遠くから見る二人はいつもこんな感じだ。

 だが、何故か祐介は時々不機嫌を露わにする。
 そんな時、彰久はいつも緊張に身体を固くして、そしてしょげる。

 見ていていたたまれない。

 あの時もそうだった。
 夏休み明け。2学期の入寮日のこと。


 最寄りの駅が同じだから待ち合わせて登校したのだが、偶然正門で出会った祐介は、二人を見かけるなり露骨に不機嫌になったのだ。

 その瞬間、隣に立つ小さな身体が緊張に強張ったのを感じて、英彦は思わず抱き寄せて、庇った。

 幼い頃から、小さな兄をそうしていじめっ子たちから守ってきたように。

 小さな彰久を、この手で守るのだ…と。


 だが、秋も深まり始めた頃から、英彦は祐介が不機嫌になるきっかけに気がつきつつあった。

 なぜならば、自分が彰久といる時に限ってそれは起こるように思えたから。

 だから、何度か試してみた。

 それとなく、二人の視界に割り込む。そして、彰久に近づく。
 するとやはり、祐介の機嫌は急降下するのだ。

 となると、やはり原因は自分。

 何かしてしまったのだろうかとも思ったが、思い当たることがない上に、普段、彰久のいない場所では祐介との関係は何ら変わらない。

 ごく普通の、先輩と後輩だ。
 よく面倒も見てもらっているし、的確なアドバイスもしてくれる。

 じゃあ、何故だろう。何故、彰久への態度があんな風に変わるのか。

 祐介にとって、彰久は可愛い後輩には違いない。
 それは誰もが認めること。

 何か、特別に意識しているのだろうかとも思えたのだが、祐介には葵というあんなにも麗しい恋人がいるのだから、彰久をそう言う対象で意識しているはずはない。

 考えれば考えるほどわからなくて、英彦はここのところ頭を悩ませていた。


 今日も自分が割り込んだために、祐介は不機嫌になった。

 しょげる彰久が可哀相で、英彦はそっと抱きしめる。

 自分を慰めてもらう振りをして。


『死んだ兄の身代わり』


 そんな重荷は誰も背負いたくないし、背負わせたくない。

 ましてやそれが、たった一つ年上の、小さくて可愛らしい人ならば、なおのこと。

 けれど、その小さくて頼りなげな体で精一杯自分を抱きしめて、『…いい、よ』…と言ってくれたあの一言で、自分は赦されたのだと思った。

 その時に決めた。自分はこの人を守るのだと。

 守りきれなかった兄の代わりではなく、藤原彰久と言う人を、守るのだと決めた。


 その想いがやがて、兄には感じ得なかった情動へと変化するのは、13歳という思春期の入り口に立った少年にはごく当たり前の事だったのかも知れない。

 庇って上げたいと思う気持ちはやがて抱きしめたいと言う想いに変化し、見つめていれば満足だった時期はすぐに過ぎて、やがて見つめて欲しいと思うようになった。

 そして、叶うことならば、誰にも渡したくない…と…。



「初瀬くん?」

 大きな身体が覆い被さって、彰久の小さな体を包み込む。

「…すみません。少しだけ、いいですか?」

 頼りなげな英彦の声に、彰久は何の躊躇いもなく、その細い腕を一生懸命大きな身体へと回す。

「うん、いいよ」

 柔らかい声には慈愛の色が満ちる。


『死んだ兄の身代わり』


 そんな重荷を負わせるつもりはなかったのに、けれどこの小さな先輩は、事も無げにそれを引き受けてくれた。

 そして、もうすでに、『身代わり』ではないと気がついているのは、自分だけ…。

 けれど、『誰にも渡したくない。自分だけのものでいてほしい』という欲にまみれた思いが、その事実を彰久へ告げることを拒む。

 とん、とん…と、優しく背中をあやされて、英彦はゆっくりと深く息を継ぐ。


 どうすれば、この手は自分だけのものになるだろうか。


 ついさっき、思わぬ事に気がついてしまった。

 彰久の視線がある人を熱心に追っているのだ。遠くても、近くても。

 自分たちに最も近しい先輩だから、いつも側にいて当たり前の人だから、気がつくのが遅れた。

 不機嫌な態度の理由にばかり気を取られていて、あの人がこちらをどう見ているのかばかりを考えていて、気がつかなかった。

 いつからなのだろう。
 彰久が、あの切ない視線であの先輩を追い始めたのは。

 もしかして、自分が入学するより前なのだろうか。

 そう思うと、言いようのない焦燥感に苛まれる。

 けれど幸いなことに、あの人は気がついていない。
 見つめられていることに。

 今のうちだ。
 今のうちに、この小さくて優しい人を、自分だけのものに……。


「先輩…」

 抱きしめて、小さく呼んで、偶然を装ってその耳元にそっと、唇をつけた。



【2】へ続く

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