Op.3
幕間「野いちごに寄せて」

【2】





 それは、例の週刊誌事件が一件落着して少しばかり経った、ある日の部活終了後のことだった。

 最初に中高合同でパート練習を行い、その後別れての合奏練習を終えて、葵が再びフルートパートのたまり場である練習室に戻って来た時、それを見つけた。

 机の下に、楽譜用のバインダーが落ちていたのだ。

 葵はそれを拾い、前後を確かめる。
 名前が入ってないだろうかと。

 学校の購買で売っているバインダーなので、持ち主の数はなかり多い。
 誰もが持っている可能性があるものだ。

 だがここにあると言うことは、9割方フルートパートの誰かのものに違いない。
 ここは、自分たちのたまり場なのだから。


 しかし残念ながら外から見ただけでは持ち主がわからなかったので、仕方ないな…と、中身を確かめることにした。

 譜面を見れば、誰のものかわかるかも知れない。

 そっと開いてみると、そこには中等部Aグループが現在練習中の曲のフルート譜が挟まれていた。

 現在、中等部のAグループは中2の彰久と中3の康裕の二人。

 しかし、病欠などの時の代奏に備えて、英彦も同じ楽譜を持っている。

 けれど、中等部の3人の誰かであることは確かだ。

 さらに手がかりはないかと、一つ、二つ…と、ファイルをめくっていった先…。


 ――藤原くんのだ…。


 これ以上ない証拠が在った。

 いくつも挟まれた祐介の写真。

 合奏中のもの、準備室で同級生とふざけあっているもの。

 汗を流し、真剣な表情で前方を見据えているのは多分、球技大会で悟と対決した時のものだろう。

 見覚えのないものも少しだけあったが、葵がこっそりカラーコピーして渡したレアものもいくつかある。

 特に、聖陵祭の衣装合わせの時に撮った、メイクもなく鬘も着けていない素の状態で十二単を着せられて、これ以上ないほど不機嫌顔をしている祐介の写真は、今や葵も持っていない超レアアイテムなのだ。

 このショットを収めた愛用の最新極薄高機能デジカメ――この春、父親が買ってくれたものだ――は、メモリーカードごと祐介に没収されてしまい、返ってきたときには祐介に関するデータは綺麗さっぱり消去されていたのだから。

 何故か悟の衣装合わせのデータはきっちり残されていたのが可笑しかったが。


 ――あ、こんな写真もあるんだ。


 祐介と彰久が仲良く二人で写っている。

 二人とも楽器を持っていて、舞台袖らしき場所だが聖陵のホールではない。


 ――そうか、花のワルツをやった時だ。


 外部依頼のコンサートで二人はデュエットを演奏したのだが、練習につき合っていた葵も、あの時の二人の充実した表情を見て幸せになったものだった。


 ――祐介ってば、肩なんか抱いちゃって。


 あの頃にはもう、彰久は十二分に祐介に惹かれていた。

 追いかけている視線が、いつの間にか憧れから切ないものに変わっていて、葵としても、一時はお門違いの焦りも覚えたものだ。

 だが、祐介はいったいいつ頃からあの小さな後輩を意識し始めていたのだろう。

 本人がまったく無自覚なのだから、周囲としても憶測でしか量れないが、少なくとも去年の秋頃までは、祐介は葵しか見ていなかったはずだ。

 けれど、バレンタインの頃…いや、ホワイトデーの頃にはすでに、彰久は祐介の中で『特別』になっていたはずなのだ。

 まあ、いずれにしても、大切な親友と大切な後輩が幸せになってくれるのなら、それらもどうでもいいことではあるのだけれど。


 ――さて、どうしよう。


 思案した時。

「葵、何やってんだ?」

 一向に部屋から出てこない葵に、廊下から覗き込んだ祐介が声を掛けてきた。

「…ん、と」

「あ? 何だ、忘れ物か?」

「えっと、うん、そうみたい」

「誰の?」


 瞬間、葵の頭の中に分岐点が現れた。

 このまま自分がそっと彰久に返すか、もしくは…。

 ここで選択を間違えると、もしかしたら取り返しがつかないかも知れない。

 そうは思ったが、たかがこの分岐点でダメになるものならば、きっとこの先、いつかどこかでダメになるに違いない。

 …と、後から考えるとかなり無責任な判断を勝手につけて、葵は小さく一呼吸した。


「や、ごめん。ちゃんと見てないんだ」

 そして、差し出す。

「祐介、見てよ」

 そのまま渡してもよかった。
 そうすれば、祐介は最初の2、3枚を見ただけで、多分、彰久に渡すだろう。

『これ、お前の? もし違ったら谷川に渡しといて』…とでも言って。


 だが、多分性分なのだろう。

 子供の頃から、色恋に長け、世事に通じた逞しい女性たちの中で育ってきた所為なのか、葵はちょっと――いや、大いに――世話焼きなのだ。

 だからついやってしまった。

 渡すときに、写真の入っている部分に人差し指を挟み、少しばかり隙間を開けてみたりなんかして。

 案の定、祐介はすんなり引っかかってくれて、その隙間に親指を突っ込んで受け取り、そのまま開いた。

 僅かな瞠目と、微妙に変化した表情に、葵はしてやったりとほくそ笑む。

 多分、きっと、これは成功したのだろう。

 だってほら。


「どう? 誰のだった?」

 わざとらしく聞いて覗き込もうとしてみれば、らしくもなく慌てた様子で祐介はバインダーを閉じ、視線を逸らした。

「あ、ああ。藤原のみたいだ。葵、返しておいてくれないか?」


 ――やったね。意識しまくり。


「なんだ、藤原くんのだったんだ。うん、わかった。返しておくね……って、祐介、パートリーダーなんだから返しといてくれたらいいじゃん」

「…え?」

「それともなに? 不都合でもあるの?」

「そ、そんなものあるわけないだろっ」

 可笑しいほど動揺している祐介に、内心で葵の笑いは止まらない。

 普段の祐介なら、『たかが忘れ物を渡すくらいでパートリーダーとか何だとか、関係ないだろ』…くらいの突っ込みはしてくるはずなのだ。

 しかも祐介はパートリーダーだが、葵は管楽器全体のリーダーなのだから、そこを突っ込み返すこともできるのだ。

 まあ、そう言われれば葵としても『祐介、部長じゃん』と、更に突っ込み返しを繰り出して、この不毛な議論に決着をつけてしまうだろうけれど。


「じゃあ、お願い」

 にっこりと、一撃必殺の笑顔で押しつければ、祐介からの反論はもう、なかった。



                  ☆ .。.:*・゜



 ――さて、どうしたものか。

 件のバインダーを手に、祐介はちょっとばかり途方に暮れていた。

 いや、途方に暮れたところで、いつまでも持っているわけにはいかないのだ。

 さっさと返してやらなければ、明日の部活で困るだろう。

 だが。

 祐介は、意を決してもう一度バインダーを開いてみた。

 几帳面に注意事項が書き込まれた楽譜たち。

 ふと見れば、『浅井先輩からアドバイス』という文字があり、祐介から受けたのであろう注意が数々書き込まれている。

 そして、数枚めくった先には、葵から渡されたときに目にした、写真が…。


 女子高校生ではあるまいし、普通の男子高校生なら自分の写真にはそう興味はないだろう。

 もちろん、祐介はナルシストでもなんでもないし、どちらかというと、中学入学時分に『美少女』だの何だのとからかわれたおかげで、『自分の容姿』などは完全に興味の対象外だったから、こうしてマジマジと見ることなどなかった。


 ――こんな顔してるんだ…。


 誰が撮ったのか知らないが――抹殺済みだったはずの十二単姿は多分、葵から流れたものだろうけれど――意外にも写真の中の自分は生き生きとしていて、日々の学校生活の充実振りが伺える。

 そして、これを大切に集めて持っていたのは彰久で。

 ふと思いついた。

 もし、これを集めていたのが他のヤツだったら。


 ――即刻没収だな。


 有無を言わさず――多分、肖像権なんてものを盾にして――取り上げて速攻焼却処分だ。

 けれど、自分は今、これを何も言わずに返そうとしている。

 心のどこかで、このまま大切にしてもらえたら嬉しいな…と感じながら。


 ――これって…。


 この気持ちはいったい何なのだろうか。

 そして、彰久はどうしてこんなことをしているのか。

 考えてもわからない……というのは嘘だろう。

 考えないようにしているだけ…だ。


 ――とにかく、早く返してやらないと。


 色々考えるのは後だ。
 とにかく今日中に返してやらねばと思い、祐介は勢いよく立ち上がった。



                   ☆ .。.:*・゜



「これ、部活の後、忘れていっただろ?」

 できる限りさりげなく差し出したのに、彰久は固まった。

 夕食後、ホールの練習室で掴まえた彰久は、一生懸命に何かを探しているようで、その姿に祐介は、もっと早く持ってきてやればよかったと後悔した。


「あっ、あのっ、これっ」

 漸く絞り出した声は可哀相なほど震えていたから、祐介は安心させるように、殊更明るい笑顔を作った。

「葵がさ、藤原のみたいだから渡しておいてくれって。預かってきたんだ」

 その一言に、彰久があからさまにホッとした表情を掃いてくれたものだから、祐介としても複雑な想いに囚われざるを得ない。


「ごめんな。持ってくるの遅くなって」

「えっ。と、とんでもないですっ。お手数おかけして、すみませんでしたっ」

 慌てた様子で祐介の手からバインダーを取り返し、彰久はそれを、しっかりと胸に抱いた。


「あ、あのっ、ほんとにすみませんでしたっ」

 さらに謝罪を口にしてぺこりと頭を下げると、彰久はそのまま祐介の顔を見ることもなく、練習室を走り出ていく。

「…っ」

 その背中に思わず伸ばした手。

 掛けようとした声は、何を言おうとしたのか。
 そして、引き留めて、どうしようと思ったのか。

 何もかもが意識の外の出来事のようにも思えたが、不意に抱きしめたい衝動に駆られたことだけは、何故かはっきりと自覚してしまえた自分に、祐介は今までに経験したことのないほどに狼狽えて、伸ばし掛けた手をギュッと握りしめた。




 その日から、祐介の視線は知らず彰久を追うようになっていた。

 もちろん、数多い後輩の中でも特に近しい後輩だから、今までもそれとなく気を配ってきたし、見守っても来た。

 だが、これまでのように『わざわざ気を付ける』のではなく、何の意識もないままに、視線はいつの間にか彰久の姿を探している。

 そればかりか、ホールを出て目の届かないところへ彰久が行ってしまうと、今度は気になって仕方がない。

 が、祐介が心配しなくてはいけないことは何もない。
 校内は安全だし、彰久の周囲には彼を可愛がっている人間ばかりだ。

 可愛がりすぎて邪な思いを抱くヤツもいないとは限らないが、それでも授業時間内はいつも同室の剣道部員――とても中2とは思えないガタイの子――がべったり張り付いているし、部活になれば、これまた…。


 ――初瀬…。


 中1のクセに、どうしようもないほど落ち着き払った後輩の姿が脳裏を過ぎる。 

 入学当初からそうだった。

 さも当たり前のような顔をして、いつも彰久の側に影の如く張り付いている。

 彰久だって、最初は戸惑っていた風だったのに、いつの間にかそれを自然に受け入れているように感じられて、その事にムッとして…。


 ――ムッとして?


 そうだ。ムッとしたような気がする。

 二人が言葉もなく視線だけで意志を疎通させているような気がして、妙に気分が悪くなった。

 そして、その気分の悪さを隠しもせずに垂れ流し…。


 ――そう言えば…。


 唐突に、怯えて身を固くする彰久の様子を思い出した。

 もしかして、自分は今までずっとこんな風だったのだろうか。

 高2にもなって、小さな後輩を怯えさせるようなことを平気でしていたのだとしたら。


 ――しまった…。


 そんなつもりではなかった…と言っても後の祭りで、出るのはため息ばかりだ。


 ――とりあえず、気を付けよう…。


 そして、これからは…。


 ――これ、から?


 これからいったいどうするんだ…と、祐介はまた途方に暮れて、頭を抱え込んだ。



 もちろん、祐介が葵の目論見にまんまと引っかかったことに気付くのは、随分と後のことになる。



END

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