Op.3
第2幕「Allegro,con fuoco」

【2】





 悟たちが、入試で家へ帰った。

 今日からの入試に備えて昨日の午前中に学校を出たんだけど、昨日は金曜日だったから、僕は見送ることができなかったんだ。

 いってらっしゃい、がんばって…って、言いたかったのに。


 ちなみに、香奈子先生は悟たちが受験する大学のピアノ科の主任教授で、入試の時は本当ならものすごく忙しいはずなんだけど、今回は息子たちが受験するとあって、推薦入試には一切タッチできなくて、しかも構内に入ることすらNGなんだそうで、暇で仕方がないって愚痴ってた。

 で、土日なのをいいことに、僕を連れだして遊び回りたい…って思っててくれたようなんだけど、残念ながら管弦楽部は定演の直前で、土日も休みナシ…なんだ。

 おまけにコンチェルトのソリストの悟が入試でいないから、その間にオケだけの演奏箇所を徹底的にさらい直す…って光安先生が言ってたし。

 でも、コンマスの昇も、チェロの首席の守も、次席の西村先輩も、コンバスの首席の篠山先輩も、みんな一緒に入試に行ってて不在。

 こんな状況でオケの練習も成り立つのかなあ…と思っていたら、そこはそれ、さすがに層の厚い聖陵学院管弦楽部。

 先輩たちがいなくても、どうにかこうにか、よろめきつつも踏ん張りが効くあたり、来年からの活動にもちょっとは自信を持ってもいい…ってところだろうか。

 特に、今回も周囲から当たり前のようにコンマス代理に押し上げられた司の、次期コンマス就任は決定っぽくて――まあ、オーディション次第ではあるけれど――司としては、できれば堪忍して欲しい…って思ってるみたいで、やっぱりちょっとブルー…って感じ。

 でも、そんな司をさりげなくアニーがフォローしてるけどね。


 それにしても…。

 今頃悟たち、がんばってるかなあ。


 入試一日目は実技で、2種類の課題曲をこなさないといけない。

 一つ目の課題曲は、入試要項であらかじめ指定されている複数の中から1曲演奏するんだけど、どれを演奏するかは当日の控え室で個別に指定されるから、演奏5分前くらいまでわからない。

 でも、この課題は毎年決まっていて、ピアノはJ.S.Bachの平均律全曲、チェロは同じくJ.S.Bachの無伴奏チェロ組曲全曲、ヴァイオリンはパガニーニのカプリス全曲ってなってる。

 で、その『全曲』の中から、当日1曲を指定されるってわけだ。

 つまり、どれを指定されるかわからないから、全曲やっておかないとダメってこと。

 これってキツイなあと思う。

 ちなみにフルートにはこの手の課題はないからすごくラッキー。


 そして二つ目の課題曲は、これもあらかじめ提示されたコンチェルトの中から1曲選ぶんだけど、これは自分で決めることができるので、集中して練習しておくことができる。

 もちろん、悟も昇も守も、聖陵のコンサートでやった曲を選んでる。
 あ、悟の本番は入試の後だけど。


 二日目は筆記その他。

『楽典』と呼ばれる音楽理論一式と、ピアノで演奏される曲を聴いて書き取る『聴音』。

 それから、渡された楽譜をその場で歌う『新曲視唱』。そして『小論文』。

 あと、ピアノ科以外の楽器は、副科としてピアノの試験がある。

 これが僕としては一番問題なところだ。

 昇と守に関しては、どの程度弾けるかなんて僕は全然知らなくて、ついこの前初めて2人が入試の曲を弾くのを聞いたんだけど、『ピアノ科受ければ?』ってくらい上手くて――3歳から香奈子先生が教えてたんだから、当然と言えば当然なんだけど――ちょっとムッとしちゃったり。

 とにかく、一年後には僕も試験官の前でピアノを弾かなくちゃいけないわけで、でもまさかピアノで落ちましたとはいえないわけで……がんばるしかない…な、ってわかってるんだけど、やっぱりだんだん気持ちが萎えてきたりして。

 …はあ…。

 まあ、いずれにしても僕が心配するまでもなく、悟たちの実力を持ってすれば合格は間違いないわけだけど、でもそこはそれ、こんな心配をしてしまうのも恋人ならではというか何というか。

 だって、光安先生だって、よーく観察してみれば結構そわそわしてるんだ、これが。

 先生だって、教師の部分とは違うところで昇の心配をしてるに違いない。

 大丈夫だ…って、わかっていてもね。





 そんなこんなで、悟たちが受験している間、僕は僕で間近に迫った定演の練習や準備に追われていて、結局あっと言う間に3日間は過ぎて、日曜の夕方になった。

 さすがに悟たちは部活の時間内には帰って来られなくて、光安先生によると、多分帰校は午後6時頃。

 だから僕は、部活を終えて5時半頃から練習室1で悟たちを待っていた。

 特に何の待ち合わせもしてないけれど、ここにいたら絶対に会えると思ったから。

 こうなると、兄弟だって告白しちゃったおかげで僕は堂々とここにいられるわけだから、やっぱり結果オーライだったのかな…って思う。

 だって、管弦楽部員全員が『悟のお城』と認識している練習室1に、誰もいないのに僕だけがいるなんて、『特別な関係』でなければマズイことになるもんね。

 それにしても、悟たち遅いなあ。

 待っていると、時間って本当にゆっくり進む。
 悟といる時間はいつもあっと言う間に過ぎてしまうのに。

 手持ちぶさたになった僕は、いつも悟が弾いているグランドピアノの蓋をそっと開ける。

 今年の春までは、僕はここで悟にレッスンを受けていた。

 でも、2年になって先生が代わったから、今は3階の講師用の部屋でレッスンを受けている。

 だから、このピアノを弾くのは久しぶりで…。

 そっと椅子を引いて腰かけて、僕はゆっくりと、今レッスンしている曲を弾きはじめた。

 始めた頃に比べると、ほんのちょっとは弾けるようになった…ような気がするんだけど、苦手意識と言うのはいつまでも僕の中に根強く居着いていて、いくら練習をしてもし足らない感じがする。

 フルートだと、ある程度吹けばそれなりの手応えを感じるんだけど、ピアノに関してはなかなかに『のれんに腕押し』って感じ。

 こうなったら、冬休みもみっちり悟と香奈子先生に見てもらわなきゃダメだよなあ…。

 ほんと、いくら先生が上等でも、生徒がこれじゃあね…。

 と、弾きながらどんよりとブルーになっていたところで、ドアロックが音を立てた!


「おかえり!」

 もちろん、開いたドアに姿を見せたのは、悟たち。

「ただいま!」

 明るい笑顔で悟が僕を抱きしめてくれる。

「どうだった?」

 多分、大丈夫だとは思うんだけど。

「大丈夫。ばっちりだよ」

 ほらね! 
 …と、思ったら。

「昇はわかんないけどな」

 僕の頭をかき混ぜながら、守が笑った。

「え? 昇…」

 まさか、何かあったんだろうか…。

「何言ってんだよ。あれくらいどってことないって。落とせるもんなら落としてみろってんだ。落ちたら一般入試で入ってやるっ」

 え? ええええええええ!?

「あはは。お前なあ、一般入試は英語もあるんだぞ」

「げっ」

 昇が『英語』の一言で、顔を顰めた。


「…のぼる…?」

 何が起こったのか、様子がさっぱりわからなくて、思わず情けない声を出してしまった僕に、悟が『大丈夫だって。あれくらいで落ちたりしないって』っと、また抱きしめてくれた…んだけど。

「ほらー、守が余計なこと言うから、葵が不安がってんじゃんか。もうー」

 昇が僕を『ヨシヨシ』と撫でながら、『ちょっとやっちゃったんだ』って舌を出す。

「ピアノの試験でさ、もうそろそろベルが鳴るだろうと思ってたのに、予想してたところを過ぎても全然鳴らなくってさー。んっとにもう、いつまで弾かせるんだって感じで…」

「昇のヤツ、ストップ掛かりそうなところより後の部分、暗譜してなかったんだぜ。横着だろ〜」

 守が半分呆れ顔で昇のおでこを弾いたんだけど…。

「で、どうしたの…? 昇」

「ん? 勝手にやめるわけにもいかないからさあ、仕方ないから弾いたよ。適当に作ってさ」

 ひ…ひえぇぇぇぇ〜。入試のピアノで適当に作ったぁぁぁ〜?

 それはまた、度胸があるっていうかなんて言うか…。


 副科のピアノの試験では、『任意のソナタの第1楽章、もしくは第3楽章』という規定があるんだけど、1曲を最後までまるごと弾かされることはまずない。

 だいたい、『再現部』と呼ばれる、冒頭のメロディに曲が戻ってきたところでベルが鳴らされたりして、そこで演奏終わり…ってことになるんだ。

 副科のピアノは一定レベル以上弾けていればいいのだから、全部聴く必要はないってことで。

 つまり、昇は『ここまでしか弾かされないだろう』と予見していた場所から先を、暗譜していなかったがために、ストップが掛からなかったから弾けなくなったということで…。

 …恐ろしすぎる…。


「ほ、ほんとに、大丈夫…?」

「大丈夫だって」
「心配ないよ」

 悟と昇が両側からステレオで言うんだけど…。

「ま、結果は1週間後のお楽しみ…だ」

 パチンと鮮やかにウィンクをして、守はまた僕の頭をくちゃくちゃにかき混ぜた。

 で。

 翌日には、一緒に受験してた西村先輩と篠山先輩によって、昇の『暴挙』は何故か『快挙』として管弦楽部内に伝わっていて『さすが昇先輩!』なんて、『それ、ちょっと違うだろ』…って話になっていて笑うしかない。

 ほんと、昇ってば、いつ何をやらかすかわからなくって、びっくり箱みたいなんだから。

 光安先生も結構大変なんじゃ…と思うんだけど、そこはそれ、大人の余裕たっぷりでいつも昇を包んでるんだけど、さすがに今回のピアノの試験に関しては、『だから横着せずにちゃんと最後まで覚えておけって言っただろう?』って、お小言を垂れていた。

 昇は『だってあの曲、再現部から後が長くて全部覚えるの面倒だったんだもん』って、むくれてたけど。

 それでも、それが原因で落ちるということはまずないだろうから…って、お小言も一回だけだったんだけど、その後、実は演奏を止めるはずのベルが鳴らなかったのは、ベルを担当していた試験官の先生が、昇に見惚れてぼんやりしてたからだった…ってのを香奈子先生から聞かされて、超不機嫌になっちゃったのが可笑しかったっけ。

 センセ、ほんと苦労が絶えないよねえ。色んな意味で。





 そして、月曜から5日間の期末試験を経て――昇は『入試の次の日から期末だなんて、さいてー』ってぼやいてたけど――僕たち管弦楽部が一年で一番大きな行事『定期演奏会』に向けて、再び動き始めた土曜日。

 いよいよ合格発表の日となった。

 悟たちは全員寮生だから、合格通知も学校宛てに送られてくるってことで、僕は朝からそわそわしている。

 当の悟たちは平然としてるみたいなんだけど。

 土曜日だから、昼まで授業があって、その後は部活。

 部員全員がホールに入り、10分後に迫った合奏開始の準備をしている中、光安先生がやって来た。

 いつもなら、先生が手を叩いて、ざわついている全員の注目を集めるところなんだけど、今日ばかりはみんな、先生がホールに入ってきたところから、息を詰めて待っている。

 それはもちろん…。

「桐生悟、桐生昇、桐生守、西村英治、篠山恭太郎」

 先生が、5人の名前を呼んだ。
 ホール全体が静まり返る。

「おめでとう。全員合格だ」

 その瞬間、歓声と拍手が沸き起こり、悟たちは、3年生にもみくちゃにされていた。

 …よかったあ。

 もちろん『もしかしたら』なんてことは思いもしなかったんだけど、でもやっぱりこうしてはっきり『合格』と聞くのは何とも言えない安心感がある。


「先輩たちも、大学生になるんだな…」

 ちょっと離れたところから、もみくちゃの様子を見ていた僕の隣でポツッと祐介が言った。

「中1の終わりから、毎年こうやって音大に合格していく先輩たちを見てきたけどさ、さすがに悟先輩たちがこうして合格通知を手にしたのを見たら、なんだか…」

「寂しい?」

 珍しくもメランコリックな声色の祐介に、ちょっと茶化しつつも突っ込むと、意外にも反論はなかった。

「ん〜、そうだな。確かに、これを『寂しい』って言うのかもな」

 とは言え、本当に寂しそう…な表情ではなく、落ち着きながらもどこか感慨深げな様子。

 確かに、5年という期間の、かなりたくさんの時間を共有してきた先輩たちの巣立ちには、一言では表せない色々があるのだと思う。

 まだ、たった2年足らずしかここにいない僕でさえ、何か胸を掴むものがあるのだから。

 それに…。

 そう、ただの先輩じゃない。悟たちは。

 3人は僕の兄で、そして、悟は誰よりも大切な恋人で。

 ふと、悟と目があった。

 僕は、手を振って、口の形だけで『おめでとう』と伝える。

『ありがとう』と返ってきた満開の笑顔が、周囲の後輩たちが見惚れてしまうほどに眩しくて、僕もまた、ちょっと妬けちゃったりしながらも嬉しくて…。


 大学合格。それは、悟がここを巣立つということ。

 その日まで、あと3ヶ月しかない。

 でも、そのあと一年を頑張れば、僕たちはきっと、ずっと一緒にいられるはずだから、我慢するしかなくて…。



                   ☆ .。.:*・゜



 それからの僕たちは、もちろん大忙しだった。

 24日の定演に向けて、練習練習の充実した毎日を過ごし、コンチェルトではもちろん、悟のピアノとの息もぴったり。

 そして、今回もまた生徒の参加希望が多くて、今度はPTA・OB枠が抽選になったりして、その準備なんかで本当に寝る間もないくらい。

 そんな中で、今年もまた管弦楽部には謎のサンタクロース――ま、僕は正体を知ってるけどね――が現れて話題をさらい、いよいよ本番当日がやってきた。

 悟たちにとっては、聖陵での最後の演奏会。

 プログラムは、中等部選抜による『ベートーヴェン/エグモント序曲』。
 高等部選抜による『ドヴォルザーク/謝肉祭』。
 そして、悟とメインメンバーによる『チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番』。


 普通、オーケストラの演奏会では、コンチェルトは3曲立ての真ん中に持ってくることが多くて、最後を交響曲で締める…っていうのがパターンなんだけど、プロのオケでも、コンチェルトのソリストがメイン格の大物だったら、最後にコンチェルトを持ってくることもある。

 今年の聖陵のコンサートは、『コンチェルト・イヤー』なんてコンセプトでやっていたりするので、昇の時も守の時も、コンチェルトがコンサートの最後だった。

 もちろん今回も悟が最後で、すべての演奏を締めくくることになる。

 そして、香奈子先生経由でお父さんから連絡が入ったのは前夜のこと。

 向こうでの仕事を終えて、その足で飛行機に乗り、どうにか開演時間には間に合いそうだって聞いて、僕はホッとしていた。

 お父さんにとっては、ただでさえきついスケジュールの中での休みなしの移動で、身体のことが心配ではあるんだけど、今回の悟のコンチェルトはどうしても聴いて欲しかったから。

 でも、昇と守の時もそうだったように、きっと本人には何も言わずに帰っちゃうんだろうな。

 僕にだけ、こっそり感想を残して。

 それぞれが、楽器の最終調整を終え、中等部Aグループの面々が、舞台袖にスタンバイをする。

 そして、開演のベルが鳴った。



【3】へ続く

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