Op.3
幕間「ストロベリー・スクランブル」

【2】





「お、ちゃんと着込んできたな」

「はい。いつも薄着で先輩に心配かけちゃってますから」

 5分前には着いたのに、先輩はもう、待っていてくれた。

「お待たせしてすみません」

「いや、さっき来たところだし」

『さ、行こうか』と言って、先輩はぼくの肩をさりげなく押して、促してくれる。

 …って、もしかして、二人きり?

 うわあ…ドキドキかもっ。


「えっと、先輩」

「なに?」

 チビなぼくの歩調に合わせて少しゆっくりと歩いてくれる先輩は、駅を離れてどんどん銀座の賑やかな方へ向かっている。

「何かのお手伝いじゃないんですか?」

「手伝い? どうして?」

 歩きながら見つめられて、またちょっとドキドキしてしまうぼく。

「え、ええと…」

「お前さ、今日誕生日だろ?」

「あ、はい」

「去年もこうしてデートしたよなあ」

 わ、先輩も覚えててくれたんだ! ものすごく嬉しいかも!

「だから、今年もデートな」

 …え?

「えええええええっ?!」

 ぼくの素っ頓狂な声に、先輩は声を上げて笑った。

「あはは、なんでそんなに驚くんだよ。おかしなヤツだなあ」

 って、くちゃっと頭をかき混ぜてくる手がとっても温かくて優しくて。

 もう、めちゃめちゃ嬉しいかもっ!



 先輩が向かったのは、銀座にあるでっかい有名楽器店。

 楽器も楽譜もCDも、豊富に扱っているんだけど、なかなかここまで出てこれる機会は少なくて、ぼくはあっちこっちキョロキョロと見回してしまう。


「さて、今年の誕生日プレゼントなんだけど…」

 わあ! 今年もプレゼントもらえるんだ! 
 もしかして、やっぱり楽譜かな? 今年はなんだろう。ワクワクしちゃう!


「あった。これこれ」

 先輩がずらっと並んだ楽譜の棚から引っぱり出したのは、やっぱりフルートデュオの定番曲、『ドップラー作曲/AndanteとRondo』だった。

 これ…難しいんだ。
 2本のフルートを合わせるだけでもかなり難しいのに、花のワルツとは桁違いの技量と音楽性が必要で、練習を重ねてもしっくり来ないこともある…って奈月先輩が言ってた。

 ちなみに奈月先輩は、紺野先輩の練習用にこの曲を選んで、1学期の間、2人で組んでつきっきりで指導してた。

 紺野先輩は、『めちゃめちゃハードだったけど、格段に自信がついた』って喜んでたし、奈月先輩も『紺野くん、すごくがんばった』って誉めてたし、光安先生も『紺野は一皮剥けたな』って評価してた。

 その時から、ぼくもいつかはやってみたいと思っていたんだけど…。


「去年は花のワルツをがんばったからな。今年はこれ、やってみないか?」

 え? えええええええええええええ!


「せんぱいと、ぼく、ですか?」

「あ、なんだよ、僕じゃ不服か?」

 って、先輩は笑いながら言うんだけど。

「そ、そうじゃなくてっ。ぼ、ぼくが足手まといになりそうで…」

 嬉しいけど…ものすごく嬉しいけど、ほんと、花のワルツの比じゃないしっ。

「大丈夫。葵に話は付けてあるからやってみよう。僕と藤原でがんばるから、練習見てくれって頼んであるから」

 え、奈月先輩が?

 それも、ものすごく嬉しいけれど、ぼくの何処かがチクリと痛んだ。


「それと、伴奏はやっぱり悟先輩な」

「え? でも悟先輩は卒業で…」

「大丈夫。葵のことが心配で、しょっちゅう聖陵に来るに決まってる。現に『4月以降の伴奏って無理ですか?』って聞いたら、『できるだけ来るようにするから大丈夫』って言ってたし」

 ほんと、ブラコンだよなあ…って、浅井先輩は笑うけど、ぼくは、悟先輩と奈月先輩が兄弟じゃなくて、恋人同士だったらよかったのにな…なんて、とんでもなく勝手なことを考えてしまって、そんな自分が凄くイヤになった。


「ってわけで、今年のプレゼントはこれ。がんばろうな」

 優しい笑顔で頭を撫でてくれた先輩に、ぼくは無理矢理気持ちを切り替えて、元気よく返事をした。

 ぼくと、デュオをがんばろうって言ってくれる、それだけでとんでもなく幸せなんだと言い聞かせて。



 それから先輩は、ぼくを美味しいお昼ごはんに連れていってくれて――あの超美人のお姉さんの親友のお店らしい――洋服とか雑貨とかのお店もたくさん見て、昇先輩御用達だって言うケーキ屋さんにも連れていってもらって、すっごく楽しい時間を過ごした。

 で、当たり前のように全部先輩が奢ってくれて。

 そしてもちろん、先輩はぼくを遅くなることなく、うちまで送ってくれた。

 1人で帰れます…って言ったんだけど、『せっかくの誕生日を連れ回してしまったお詫びをお母さんにしておかないとな』って、茶目っ気いっぱいに見せかけて、気を遣ってくれて。

 ぼくは、ちょっとでも先輩と一緒にいられることをとても幸せに感じながら電車に揺られて…。





「あの、ほんとにありがとうございました。すっごく楽しかったです」

「そうか? よかった。僕も楽しかったよ」

 ニコッと笑ってくれる先輩は、とんでもなく格好良くて。

 短い冬の日はもうすっかり暮れてあたりは真っ暗だけど、時間はそんなに遅くない。

 ぼくのうちの前まで来て、ぼくと先輩は向き合っていた。

 楽しい時間って、ほんとにあっと言う間に終わっちゃう…。

 なんだかやっぱり離れ難くて、ジッと見つめてしまった僕の頬に、ひんやりとしたものが添えられた。

 先輩の、手、だった。

 そして、スッと近づいてくる先輩の顔。

 息がかかりそうなほど至近距離で見つめられて、ぼくの心臓が飛び出しそうなほど鳴った。

 先輩、どうしちゃったんだろう…。

 先輩の沈黙の意味がわからなくて、ぼくは思わず首を傾げてしまう。

「…せんぱい…?」

 小さく声を掛けてみると、先輩はなんだか夢から覚めたように、目をパチパチとしばたかせて僅かに苦笑した。

 そして、ぼくの肩の横にあった、インターフォンを押した。

 奥からパタパタとスリッパの音がする。
 お母さんだ。

「まあ! 送ってきてくださったの?」

 喜色満面…とはこういう顔を言うのかな?

 お母さんは、やけに張り切った声で先輩と挨拶を交わしてる。

「遅くなってすみませんでした。それと、せっかくの誕生日に、一日連れ回してしまって…」

「とんでもないわ〜。こちらこそごめんなさいね。一日あーちゃんのお守りなんて大変だったでしょう〜」

 ちょっと、お守りって、なにっ。

「いえ、ちょうど欲しい楽譜があったので、つき合ってもらえて助かりました」

 なんて、先輩は超大人なフォローを入れてくれて、ぼくとしては恥ずかしいばかり。

「よろしければちょっと上がって行かれません?」

 わあ、お母さんってば、ナイスなお誘い! でも、あんまり引き留めるのも…って思ったら。

「すみません。せっかくなんですが、実は姉貴に呼び出されてまして」

「まあ、あのウルトラ美人のお姉さんね」

「あはは、伝えておきます。喜ぶと思います。でも、女らしいのは見た目だけですから」

 なーんて、先輩の冗談に、お母さん、めちゃめちゃ盛り上がってるし。

「じゃあ、また学校でな」

 いつもの優しい笑顔に戻って、先輩はぼくにそう言ってくれた。

「はい!」

「風邪ひくなよ」

「はい!!」

「じゃあ、失礼します」

 先輩は、お母さんに向かって礼儀正しく挨拶すると、もう一度ぼくに手を振ってくれて、駅へ向かう暗がりに消えていってしまった。



「ほんと、素敵な先輩くんよね〜」

 心底感心したように、お母さんがため息混じりで言った。

「で、あーちゃんってば、本当にお守りしてもらってたわけ?」

 見下ろされて、ぼくはちょっと小さくなる。

「あ、ええと……うん」

「あらまあ…」

 今度は呆れたようにため息をついて、お母さんはぼくの頭を抱き寄せた。



 ぼくはその夜、一日のあれこれを何度も思い出しながら、とっても幸せな気持ちでベッドに入った。

 そして、明日は初瀬くんちにお邪魔してちょっとでもお兄さんの代わりができたなら…なんて、すっかり前向きになっていたんだけれど、実際ぼくは、初瀬くんの気持ちなんてこれっぽっちもわかってなんかいなかったんだ…。



                    ☆ .。.:*・゜
 


 浅井先輩に遊んでもらった翌日、ぼくはお昼ちょっと前に、初瀬くんのうちにお邪魔した。

 初瀬くんってば、わざわざぼくのうちまで迎えに来てくれて――うちのお母さん、実は初瀬くんのこともすごく気に入ってるんだ。『浅井くんとタイプが違って、硬派のハンサムくんよね。礼儀正しいのは一緒だけど』って――ぼくたちは真冬とは思えない暖かい日差しの中を、話ながら自転車でゆっくりと初瀬くんのうちに向かった。


 迎えてくれたのは、もちろん初瀬くんのお母さん。

 去年の夏以来何度かお邪魔したんだけど、いつもとっても歓迎してくれて、ぼくはほんの少しでも、お母さんのお役にも立てるといいなあ…なんて思ってる。

 お母さんは、今日もすごいご馳走を用意してくれて、しかも手作りケーキまであった。

 お店で売ってるようなデコレーションケーキでびっくり。

『あきひさくん、お誕生日おめでとう』ってチョコで書いてあって、ちょっと恥ずかしかったけど、でもすごく嬉しかった。



 お腹いっぱいになってから、暫く3人で楽しく話をしていたんだけれど、そのうちに初瀬くんがお母さんに『そろそろいいだろ?』なんて言って、渋るお母さんをリビングに残して、ぼくを2階の部屋に連れて来てしまった。

 ぼくとしては、もうちょっとお母さんとお話ししててもよかったんだけど。

 でも、だいたいいつも初瀬くんが痺れを切らしたみたいになって、こうして部屋へ来てしまうんだ。


 2人になった初瀬くんの部屋。

 いつものように、部活でやってる曲のCDなんかをかけて、主にフルートの事とか、先輩の事とかを話してたんだけど、この日の初瀬くんは、そう言えば最初からちょっと様子が違った。

 どこかしら、ぼくに触れていて、決して離れようとしなくて。

 ほら、今もCDの再生が終わったのに、初瀬くんは立とうともしない。

 …何かあったのかな。

「ね、初瀬くん」

 ぼくなんかでは役には立たないと思うけれど、もし何か悩みとかあるのなら、聞いてあげられたらなあ…なんて思ったんだけど。

「はい?」

 見返してくる初瀬くんは、いつものように優しい笑顔………のはずだったのに、何故かそこには恐ろしいほどに真剣な瞳があった。

「はつせ…く、ん…」

 クッションに腰を下ろしたまま、思わず後ずさったぼくの腕を、初瀬くんの大きな手が掴んだ。

「先輩…」

 ぼくなんかより、ずっと低い声が、静まり返った部屋の空気を揺する。

 でも、引っ張られるかと思った腕はそのまま。

 そして、真剣な眼差しのままに初瀬くんが言ったのはこんな言葉だった。


「僕は、先輩が好きです」

 え? そんなの…。

「ぼくだって、初瀬くんのこと、好きだよ?」

 どうしたんだろう、急にあらたまって。

 そんなぼくの疑問が伝わったのか伝わらなかったのか、初瀬くんはやっと小さく笑って『そうではなくて…』と言って、今度こそぼくの腕を引っ張ってギュッと抱きしめてきた。

 こんな時、ぼくは反射的に初瀬くんを抱きしめ返してしまう。

 いつも、お兄さんの面影を追って『少しだけ、いいですか…』と言って、彼がぼくを抱きしめてくる、その時と同じように。

 けれど…。

「僕の好き…は、多分先輩の『好き』とは種類が違うと思います」

「…え?」

 どういう、こと?

 確かめたくて、初瀬くんの顔を見ようとするんだけど、きつく抱きしめられていて叶わない。


「僕は、先輩が好きです」

 初瀬くんは、もう一度繰り返した。

 初瀬くんは…、

「ずっと、こうして抱きしめていたいほど、好き、です」

 ぼくが…、

「この手の中から、離したくないほど、好き、です」

 好き?

 そ、それって…。


「あ、あのっ」

 急に慌てた僕を見て、初瀬くんはまた小さく笑った。

「やっとわかってもらえましたか?」

「あのっ、でもっ、ぼく、男だよ?」

「わかってますよ、そんなこと」

 ちょっとだけ苦笑いして、またぼくを抱きしめる。

「気持ち悪い、ですか?」

 ううんっ。違う!

「違うよっ、そういうことじゃなくて…」

 だってぼくは、きみのお兄さんの代わりで…。

「僕のこと、嫌いではないですか?」

「嫌いなはずないよっ、だって…」

 だって、だって……。ぼくは、きみの………。

「じゃあ、僕はこのまま、この気持ちを抱いていていいですか?」

「…初瀬くん…」

「先輩への思い、温めていて、いいですか?」

 ぼくが浅井先輩への思いを、ずっと抱きしめていようと思ったのと同じように、初瀬くんはぼくへの気持ちをずっと持っていてくれるって言うの…?


 そんな……。


 そして、ここでぼくははっきりと確信した。

 ぼくは、浅井先輩が好きだ。

  そう。はっきりと、種類が違う、好き。
   
 奈月先輩に取られて悔しいと思うくらいに好きで、できることならぼくが先輩の『一番』になりたいと思うくらい好きで、好きで、好きで……。


「…初瀬くん……ぼく…」

 でも、浅井先輩には、奈月先輩がいる。

 ぼくの目尻から、熱いものがこぼれ落ちた。

「…先輩…」

 初瀬くんは、途端に狼狽えた顔になって、今度は柔らかく、まるで子供を抱きしめるように、ぼくを大きな腕の中に抱え込んだ。

「ごめんなさい。先輩を困らせるつもりではなかったんです。だから、泣かないで下さい…」

 そうじゃないんだ、そうじゃなくて…。

 どう説明していいか、自分自身の頭の中がもうごちゃごちゃになっていて、ぼくはぼんやりと初瀬くんを見上げる。


「いいんです、今すぐに答えをもらわなくても。僕が僕の気持ちを伝えておきたいと思っただけなんですから。だから…」

 切なげにそう言う初瀬くんに、ぼくは堪らなくなった。

「ぼ、ぼくなんかで、いい、の?」

「…せんぱい…?」

 初瀬くんが目を見開いた。

 どうせ、浅井先輩は手の届かない人。永遠に片想い。

 それなら、今ここで初瀬くんの気持ちを受け入れる方が、ぼくにも初瀬くんにも、きっといいことに違いない。

 そう、きっとこれが一番いい選択。

 でも、もう言葉にならなくて、ただ、ぎゅっと初瀬くんの大きな身体にしがみついた。

「先輩…」

 初瀬くんの、ちょっと不安げな声が落ちてくる。

 大丈夫。大丈夫だから、もうちょっとだけ、待って。

 そうすれば、ぼくはこの気持ちにけりをつけて、きっと素直な気持ちでこの腕の中にいられるはずだから。

「先輩……」

 熱いくらいの初瀬くんの腕の中で、抱きしめられたまま、ぼくは長い間目を閉じて、ぼくの中の浅井先輩に、勝手にさよならを言い続けていた。



【3】へ続く

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