Op.3
幕間「ストロベリー・スクランブル」
【3】
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あんなに焦るつもりはなかったのに。 英彦は、手のひら上の笑顔をジッと見つめる。 この写真は、演奏旅行の時に撮ったもの。 本番を終えて、緊張感から開放された彰久の笑顔が眩しい。 今日、想いを告げてしまった。 どうしてこのタイミングで言ってしまったのか、自分でもわからない部分があった。 彰久の、同室の同級生たちを除けば、もっとも長い時間を一緒に過ごしているのは自分だ。 それは、高校生の先輩たちの比ではない。 彼らは校舎も寮も違うから、部活の時間以外には基本的に接点はなく、自分は圧倒的に有利なはずなのだ。 それに、彰久の思い人には恋人がいる。 だから、こんなに焦らなくてもよかったのに。 けれど、告げてよかったのだろう。 結果は英彦の予想以上のものだったのだから。 ☆ .。.:*・゜ 「僕は、先輩が好きです」 告げた言葉への答えは、想像通りのものだった。 「ぼくだって、初瀬くんのこと、好きだよ?」 この小さな先輩は、きっとこういうことにはまだまだ疎いはず。 オコサマ扱いをされるとすぐふくれるけれど、英彦の同級生たちだって言っているのだ。 『藤原先輩って、可愛いよね』…と。 今時、中学にもなれば、知識だけは大人並みだ。 身体だってすぐに追いついてくる。 ともすれば、心が一番最後…という困った事態も往々にしてあるのだが、彰久の場合は、その反対のような気がする…と、英彦は感じている。 小さくてオコサマな外見に反して、彰久には意外なほどの包容力がある。 年に似合わぬ懐の深さがあるのだ。 本人はわかっていないと思うけれど。 けれど、それに身体と知識がついてきていないのだ。 だから、しっかりと言わないといけないのだろう。 「そうではなくて…」 小さく笑ってギュッと抱きしめる。 すっぽりと腕の中に納まってしまう小さな身体からは、なんだか甘い香りがしていて、一瞬目眩がする。 しかも――いや、これはもう条件反射なのだろうが――細い腕はキュッと抱き返してくれるのだから。 「僕の好き…は、多分先輩の『好き』とは種類が違うと思います」 「…え?」 身じろぐ小さな身体をさらにきつく抱きすくめる。 「僕は、先輩が好きです」 もう一度繰り返した。 「ずっと、こうして抱きしめていたいほど、好き、です」 どうかこの気持ちをわかって欲しいと、 「この手の中から、離したくないほど、好き、です」 まっすぐに、違うことなく受けとめて欲しいと、それだけを願って熱く語りかける。 「あ、あのっ」 半ば呆然と聞いていた様子だったのが、急に慌てた始めたのを感じ、英彦はまた小さく笑った。 「やっとわかってもらえましたか?」 「あのっ、でもっ、ぼく、男だよ?」 慌てる様子が可愛いのだけれど。 「わかってますよ、そんなこと」 今さらそれを言いますか?…と、英彦は内心で笑った。 3つ上の先輩を、あんなに熱い瞳で追い掛けているあなたが…と。 「気持ち悪い、ですか?」 問いかけてみると、案の定、慌てて首を振った。 「違うよっ、そういうことじゃなくて…」 けれど、続きは言葉にならない様子なのを見て取り、英彦はそっと息を整えて、柔らかく髪を撫でた。 「僕のこと、嫌いではないですか?」 「嫌いなはずないよっ、だって…」 その言葉だけで、今は十分だ。 「じゃあ、僕はこのまま、この気持ちを抱いていていいですか?」 「…初瀬くん…」 「先輩への思い、温めていて、いいですか?」 それさえ許してもらえれば、当分は我慢が効くだろう。 今までのように…いや、今までと同じようにとはいかないけれど、それ以上の気持ちで、彰久を守っていける。 そして、その先に、叶うことならば…。 腕の中の彰久が見上げてきた。 お願いだから、『うん』といって欲しい…そう思って見つめ返すと…。 「…初瀬くん……ぼく…」 彰久の目尻から、涙がこぼれ落ちた。 「…先輩…」 まさか涙を見ることになるとは思っていなくて、英彦はらしくもなく狼狽えた。 大慌てで――だがそれを彰久には悟られないように――力を抜き、やわらかく、あやすように抱え込む。 「ごめんなさい。先輩を困らせるつもりではなかったんです。だから、泣かないで下さい…」 頼むから泣きやんで…。 そう願って肩をさすり、髪を撫で、少し冷えている身体を温める。 「いいんです、今すぐに答えをもらわなくても。僕が僕の気持ちを伝えておきたいと思っただけなんですから。だから…」 堪らなく、切なくなった。 自分は急ぎ過ぎたのだろうか。 まだ、この小さくて可愛い先輩には、重荷だったのだろうか。 そんなつもりはなかったのに…。 「ぼ、ぼくなんかで、いい、の?」 「…せんぱい…?」 思わず目を見開いた。 今のは幻聴だろうか。しかも、この上なく都合のよい…。 けれど、彰久はそれ以上なにも言わず、ただ、ギュッと英彦の大きな身体にしがみついてきた。 「先輩…」 本当に? できることならば、もう一度いって欲しい。その、可愛らしい声で。 「先輩……」 ☆ .。.:*・゜ それから暫く、彰久は英彦の腕の中でじっと目を閉じていたけれど、漸く見上げてきた瞳にはもう涙の跡はなく、彰久は儚いくらいの笑顔で英彦に『ありがとう』と告げてきた。 そして、英彦が願ったとおり、もう一度、可愛らしい声で『本当にぼくなんかでいいの?』と、言ってくれた。 「今夜、寝ないようにします」 そう言うと、彰久はきょとんとした顔で、どうして…と尋ねてくる。 「だって、これが夢だったら困りますから」 その言葉に、彰久は小さく笑い、『そんなことないよ。大丈夫』と言って、いつものように抱きしめてくれる。 そんな何もかもが嬉しくて、英彦は本当にこの幸運が信じられなかったが、やはりどこかにずっと、戸惑いも残っていた。 そもそも、彰久は祐介を見つめていたはずだ。 あれほど熱い視線で追っていながら、諦めてしまったというのだろうか。 確かに祐介には葵がいる…と、校内ではほとんどの生徒が認めているが、確かめたわけではない。 それに、他の生徒よりはずっと2人の身近にいる英彦には、解せない点もあった。 自分自身が彰久に恋をしたからわかるのだが、あの2人にはそういう雰囲気がないのだ。 『好き』とか『一緒にいたい』とか『離れたくない』とか。 そんな、恋人同士なら当然のように湧いてくる感情が、まったく感じられない。 ただ、心許し合う『親友』が存在しているだけで、そういう意味では『恋人同士』よりももっと親密で深いところも許し合っているようではあるのだが。 けれど、結局それらも憶測に過ぎない。 まさか最下級生の身の上で『本当のところ、どうなんですか?』なんて聞けるわけもなく、いずれにしても、祐介と葵が恋人同士でいてくれる方が英彦には都合がよいのだから、このままにしておくしかない…と、漸く考えをまとめて、冬休みを乗り切った。 そして、始まった新しい年の学校生活。 そこで、英彦はまた悩みを抱える羽目に陥った。 祐介が少しずつ彰久に接近しているように見えるのだ。 最初は警戒しすぎで考え過ぎたのかと思った。 けれど、やはり祐介は何かと彰久に声を掛け、側にいる。 しかも、時々その視線で追っているし。 さらに、気がついてしまった。 そう言えば『あの不機嫌』がさっぱりご無沙汰だ。 自分が側にいようが割り込もうが、祐介は何事もないように、彰久を可愛がっていて自分への態度も以前と変わらず面倒を見てくれる。 これはいったい…。 ☆ .。.:*・゜ 「どうしたの? 遅れるよ?」 音楽ホールの階段で、ついうっかり物思いに耽ってしまった英彦に声を掛けてきたのは彰久だ。 相変わらず愛らしい笑顔だが、あの日以来、ほんの少しの憂いを含んでいるように思えてならない。 「先輩…手、繋いでいいですか?」 「え?」 そんなに驚くことはないだろうに…と、内心で苦笑してしまうのだが、もちろんそんなことはおくびにも出さずに、英彦は柔らかい笑顔で彰久の返事を待つ。 「えっと、いい、よ」 そして、そっと差し出された手を、ギュッと握り込む。 「あれ? それってドップラーのデュオ曲ですよね?」 彰久が片手に抱えていた楽譜を覗き込み、英彦が尋ねる。 「うん、そう」 心なしか、返事が気落ちしている。 「えっとね、浅井先輩が、一緒にやろうって買ってくれたんだ」 今度は一転してやたらと作り笑顔だ。 「浅井先輩が、ですか?」 「うん。先月の誕生日の時にね、一緒に出かけて、買ってもらったんだ」 くるくるとめまぐるしく変わる表情は、今度は遠い目をして、ずっとずっと昔のことを語っているかのようだ。 だが、英彦にその様子を観察している余裕はなかった。 ――そうだったのか…。 よもや…の事実だった。まさか、あの日の『先約』が祐介だったとは。 もしかして、どこかで大きな誤解…もしくは勘違いが生じているのではないだろうか。 …などという、自身にとってはまったく嬉しくない思いが浮かんできたが、英彦は敢えてそれを流した。 なにがあろうとも、彰久を手放したくないと言うのも、最早隠しようのない正直な気持ちなのだ。 ならば、この手を離さないために、どこかで自分は行動を起こすべきなのだろうか。 「初瀬くん?」 彰久が覗き込んできた。 けれど、その心がこちらを向いてくれるまで、無理強いなどはしたくない。 抱きしめたいのは、身体だけでなく、心も…だから。 ☆ .。.:*・゜ 冬休み明けの授業再開を、祐介はこれ以上なく上機嫌で迎えていた。 思い切って誘ってみた5日のデートはこの上なく大成功で、終始ご機嫌だった彰久の笑顔を思い浮かべては、自分も優しい気持ちになる。 なにより、あの子の笑顔は、どんな疲れも癒してくれる。 秋から年末にかけてはとんでもなく忙しくて、体力には自信があった自分でさえ、ちょっと弱音を吐きたくなるような瞬間があるくらいには、大変だったのだ。 そんな中でも、彰久の笑顔はとびきりの特効薬のように、疲れた気持ちにすうっと入ってきて、柔らかなものにしてくれた。 そんな気分にしてくれたのは、ついこの間までは葵の笑顔だった。 天使のように――中身が随分と小悪魔なのはもうすでに知り尽くしているけれど――何人をも魅了してしまう笑顔には、確かに随分と癒された。 だが、現在の葵との関係はというと、天使だの悪魔だのという非現実的なものではなく、まるで最前線で支え合って戦っている戦友のような気がするのだ。 命さえ預け合えるような信頼関係に結ばれて、『死ぬときは一緒だ!』…な〜んて、青春映画の照れくさいワンシーンでも演じられそうな、どちらかというと甘くない、むしろ何だかちょっぴり男臭い――葵は相変わらず『美少女』だけれど――関係になってきたような感じで。 だが、今でも何かがあったら葵を守るのは自分だと思っているし、そのためのカモフラージュなら苦もなく続けられる。 ただし、それも卒業までのこと…だが。 そのあとは、葵には悟がずっとついている。 自分の役目は一部、終わるのだ。 もちろん、誰が相手であろうと、親友の位置を譲る気はさらさらないけれど。 いずれにしても、現在の祐介は、以前の葵に求めていた『色々』を彰久に求める傾向があって、祐介もどこかでぼんやりとそれに気付きつつあるのだけれど、自身では深く追求せずに、今の緩やかな状況にどっぷりと浸っている…といったところだ。 だが。 ここに至って、またも気になる状況が発生した。 年度末も近い部活では、大きな行事もないために、中高合同で基礎練習に励むことも多い。 そんな中、どうにも気になって仕方がないことがある。 何故だか、彰久と英彦の距離が更に近くなっているように感じるのだ。 特に英彦は、以前なら遠慮していたであろう場面でも、躊躇わずに触れたりしている。 ――何かあったんだろうか…。 少なくとも、年末の演奏旅行の時はそんな感じではなかった。 ということは、その後…だ。 もしかしたら冬休み中に何かあったのかもしれない。 気になって仕方はなかったけれど、だからといって自分がどうするわけにもいかなくて、祐介はちょっぴり憂鬱な息を吐いた。 ☆ .。.:*・゜ 『なあなあ、藤原ってこの頃、ちょっと物憂げな美少年って感じしねえ?』 部活が終わって30分ほどした頃。 僕と祐介は、別件の雑用を終えて、もう一度練習室のあたりへ戻ってきたところでその会話をキャッチした。 声の主は、僕らの仲間、フルートパートの紺野くんと谷川くん。 『あっ、それわかりマス〜! なんかオコサマっぽいのが抜けて、ちょっとヤバい雰囲気デスよね』 2人の会話に、僕と祐介は顔を見合わせた。 …やっぱりね。紺野くんと谷川くんも気付いてたんだ。もちろん僕はとっくに気付いてたけれど。 たった10日余りの冬休みの間に何があったのか、藤原くんの雰囲気はかなり変わっていた。 良くも悪くもオコサマらしかった彼が、どこか思慮深げな…というとちょっと難しい感じになってしまうけど、ともかく、ちょっぴり大人っぽくなっていたんだ。 でも、可愛いことには変わりないんだけれど。 『そうそう、そうなんだ。これはちょっと気をつけてやらないと…だなあ』 『そうデスよね。俺、藤原の同室のヤツ、よく知ってるんで、気をつけてもらうように頼んでおきマス』 『うん、頼むぞ。あいつ、ぼんやりだから、どこかに連れ込まれて…なんてことにならないとも限らないしな』 『節操のない先輩、多いデスからねえ』 2人の心配ももっともだ。 あまりにオコサマ過ぎて出せなかった手も、こういう変貌を目の当たりにしてしまうと『ついうっかり』なんてことにもなりかねない。 僕はちらっと祐介の様子を伺った。 …あらま、かなり動揺してらっしゃる。 『そうだ、初瀬にも頼んでおかないとな』 『そりゃもう、藤原の背後霊デスからね』 あはは…と笑う2人に、僕もつられて笑ってしまいそうになる。 背後霊とはまた上手いこと言ったもんだ。 ちょっと初瀬くんに失礼な気もするけど。 『そう言えば、藤原ってば、いつの間にか初瀬のこと、名前で呼んでるだろ』 『あ、先輩も気付いてまシタ? 可愛い〜声で、『英彦』…なんて言ってマス』 …え? なに、それ。 藤原くんが、初瀬くんを呼び捨てにって、ホントに? あの子は礼儀正しい子で、呼び捨てにするといったら同級生しかなかった。 中1の子に対してでさえ、ちゃんと全員を「君づけ」で呼んでいる。 『もしかして、できたのか? あの二人』 『ん〜。確かに最初から初瀬って、藤原の側に張り付きまくってマシたからネ〜』 『って、もしかして、藤原の変貌の理由って、それか?!』 『…あ、もしかして、そうかも…デス』 ちょっと待った。超ヤバイよこれ。 慌てて見上げた祐介の顔は…。 「ちょっと祐介、顔色悪いよ。大丈夫?」 「…なんか、気持ち悪……」 胸を押さえてしゃがみ込んだ祐介に、僕は慌てた。ものすごく。 「と、とりあえず、保健室行こう」 残念ながら軽々と抱き上げられることは多々あるけれど、僕が祐介を抱き上げるなんて芸当は、何か細工でもしない限り絶対無理で、僕は仕方なく、どうにかこうにか祐介に肩を貸して保健室へと向かった。 「お。なんだ、今日は奈月じゃなくて浅井なのか?」 斎藤先生が驚いた顔で迎えてくれた。 恥ずかしながら、僕は一時ここの常連で、そんな僕を懸命にフォローしてくれていたのが祐介で。 「どうしたんだ? かなり顔色悪いな」 先生が僕から祐介を受け取って、肩を貸しながらベッドに寝かせた。 「奈月、ネクタイ外してやってくれ」 「はいっ」 急いでネクタイを解くと、祐介はほんのちょっと深呼吸ができたみたいで、眉間に寄っていた皺が、ちょっと取れた。 「何があったんだ?」 「えっと、気分が悪いって胸を押さえてしゃがみ込んじゃったんで、慌てて連れてきたんですが…」 「急にか?」 「はい、突然」 「原因に心当たりは?」 ええと…。原因に心当たりは無きにしもあらずなんだけど…。 まさか先生にそれを言うわけにもいかなくて、僕は仕方なく適当に誤魔化した。 「あの、ちょっと忙しくて、寝不足だったりはしたんですけれど…」 先生は脈だとか熱だとか、慌ただしく祐介の様子を確認しながら僕の話を聞いていたんだけど…。 「浅井が? 忙しいとか寝不足だとかで?」 う。さすが先生。 「ええと、あの…」 言い淀んだ僕を、先生はジッと見つめてから、フッと笑った。 「何か別の心当たりがあるんだろう?」 「あ、あの…」 「で、奈月としては、浅井のこの状況は深刻な病気だと思うか?」 「や、それはあんまり…。多分ショック性のものじゃないかと…」 僕の言葉に先生は目を丸くした。 「浅井がねえ…。さては恋でもしたか」 …センセ…鋭すぎですぅぅ…。 この道十数年、プロフェッショナルの洞察力を見せつけられてすっかりギブアップの僕は、先生に『内緒にしておいてくださいね』…なんて頼み込んでしまった。 もちろん先生は、内緒にしておくことを約束してはくれたけど、『浅井がなあ〜。成長したもんだなあ〜』なんて、妙に嬉しげで感慨深げで。 それから程なくして祐介はそのままベッドで寝入ってしまった。 その寝顔が苦しそうではなくなっていたので、僕はとりあえずホッとはしたんだけれど。 それにしても。 僕は祐介の寝顔をぼんやりと眺めながらため息をつく。 せっかく誕生日にはいい雰囲気でデートをしたらしいと安心していたのに、どうやら肝心な部分で初瀬くんに先を越されてしまったみたいだ。 けれど、あれだけ祐介に想いを寄せていた藤原くんが、たとえ初瀬くんに熱心に告白されたところで簡単に気持ちをひっくり返すとは思えない。 可能性があるとしたら、それは、『諦めた』ということだろう。 それって、もしかして、僕の所為…かも…。 …うーん、困った。 これはもう、言ってしまった方がいいのかも。 でも肝心の祐介がはっきりと自覚して、藤原くんをつなぎ止める努力をしてくれないことにはどうしようもないことだし…。 祐介…暢気に寝てる場合じゃないって…。 |
END |