Op.3
第3幕「ただ憧れを知る者だけが」

【1】





 冬休みが終わって3学期の続きが始まった学校で、僕はここのところ、周囲からあることを疑問に思われ、そして期待されている。

 さらにそれは、聖陵名物(?)トトカルチョにまで発展してしまい、僕としては呆れるしかない。

 ことの発端は、休み明けの最初の部活での、ヴィオラ奏者の新藤明彦の一言だった。


「なあ、葵って、何で先輩たちのこと、先輩って呼んでるんだ?」

「へ?」

 何の話かわからなくて、間抜けな声で返事をしてしまった僕。

「先輩を先輩って呼ぶの、普通じゃん」

 僕の答えに隣で祐介が吹き出した。

 何がおかしいんだろ。

 だって、上下関係のキビシイ部活で、先輩を先輩と呼ばなくてなんて呼ぶって言うんだ、いったい。

「だから、明彦が言いたいのは、『葵はどうして、悟先輩たちのことを先輩と呼んでるんだ?』ってことだろう?」

 祐介の言葉に、明彦がうんうんと頷く。

 それってもしかして。

 嫌な予感が僕の頭を過ぎる。

 僕は相変わらず、みんなの前では悟たちのことを『先輩』と呼んでいて、悟も昇も守も、特に何も言わないからそのままになってる。


「何かさ、違和感ありありなんだけど」

 明彦の言葉に、真後ろにいた茅野くんまで参戦してきた。

「お、それ、俺も思ってた! 兄弟で先輩って、なんかヘンじゃんか」

「だ、だって今さら…」

 思わず言葉に詰まった僕に、羽野くん――相変わらず茅野くんに掴まってる――まで、突っ込みを入れてきた。


「今さらってさあ…。でも、俺たちがその事を知ったのはついこの前だけどさ、奈月や先輩たちは、一昨年の秋にはわかってたんだろ? もう一年以上経ってるじゃん。もしかして、その間もずっと先輩って呼び続けてたわけ?」

「そうそう、俺たちの手前『先輩』って呼ばなきゃならなかったのはわかるけど、もうその必要もないしさ」

 あああ、茅野くんがノリノリになってきた…。

 助けを求めるように祐介を見上げたけれど、祐介ってば視線を明後日の方に泳がせて、知らん顔の構えだ。

 っとにもう。こう言うときは全然助けてくれないんだからっ。


「あ、もうひとつ疑問」

 明彦が目をキラキラさせて身を乗り出してきた。

 あああ、またしても嫌な予感…。

「葵って、何で『奈月』なわけ?」

 …明彦の質問って、文章端折りすぎてわけわかんない…っていうか、言葉通りに受け取るとしたら、これはえらく『深淵』な質問じゃないか。


『キミはどうしてキミなのか?』


 って、哲学問答じゃないんだから。

 もちろん、僕はもう、明彦の端折った質問の意味がわかってる。

 つまり、休みの間は桐生家にいて、すっかり桐生さんちの子供と化してるのに、どうして苗字が『奈月』のままなのか…ってことだ。


「あ、もしかして奈月、『桐生さん』じゃなくて『赤坂さん』になるのか?」

 茅野くんが言うと、羽野くんが『そっか、その可能性もあるんだ』なんて、同調しちゃって。

 うーん。お父さんには悪いけど、その可能性は考えてなかったなあ…。

 それに、いずれ『桐生』という苗字になるとしても、香奈子先生の籍に入るとは限らないし…。

 でも、実は、香奈子先生にははっきりと言われてる。

『悟の籍に入るのは反対よ』って。

 対外的に『四兄弟』と公表したのだから、四人が同じ籍に入るのが自然だという香奈子先生。

 これから先、一生『兄弟』というのはついて回るし、まして僕らは演奏家になるのを目標としていて、そうなれば、当然世間への露出も高くなるから、何かあった時のためにも、戸籍上でもきちんと『兄弟』になるのが望ましいって。

 確かに香奈子先生の意見は正論だと思うんだけど…って悩んでいたところへ、光安先生が『実はな…』と、香奈子先生が僕には告げていなかったもうひとつの『理由』を教えてくれた。

 それは、桐生家の財産を、四人の息子に等分に残したい…ということ。

 四人が法の下でも平等であるように…という思いが香奈子先生には強いのだと。
 だから、多分折れてはくれないと思うから、覚悟しておいた方がいいぞって。

 香奈子先生がそこまで考えていてくれていたと言うことが、僕は本当に嬉しかったんだけど、でも、僕としては、桐生家の財産なんてもともと縁のないものだと思っているし、大人になったら自立して、自分が生きていく分は自分で稼ぐのは当たり前だと思ってるから、この件については当分頭を悩ませることになりそうで…。


「でもさ、『赤坂葵』より『桐生葵』の方がゴロがいいぞ」

「『桐生葵』って、やたら青々して瑞々しい感じだよな」

 …って、放っておいたら話はどんどんエスカレートしてるしっ。

「あ、あのねっ」

 慌てて止めに入った僕に、いつの間にか増えてる同級生たち一同は、『なんだ、葵いたの?』って感じで、もう完全に僕のことなんか忘れて勝手に盛り上がってる。


「えっと、名前の件は、卒業してから…なんだ。僕が『奈月』で卒業したいってお願いしたから」

 そう言うと、あたりはやっと、でもちょっとだけ冷静になった感じで。

「そうか」

「そうだよな」

「生まれてからずっと奈月だったんだもんな。愛着あるよな」

 そうかそうか…と、この件に関してはみんなして、思いっきり納得してくれたんだけど…。

「でさ、なんで『先輩』…なわけ?」

 あああ、忘れてくれてなかった…。

「兄弟なのに、先輩って、なんか納得できないし」

 や、明彦ってば、そんなマジな瞳で迫られても…。

「あ、あのね。ちゃんと家に帰ったときは、名前で呼んでるし」

「先輩…って付けないで?」

「も、もちろんっ」

「呼び捨てか?」

 茅野くんが割り込んできた。

「そ、そうだよ」

「え? なんで?」

 またしても羽野くん。

「なんで…って」

 だって他にどう呼ぶわけ?

 疑問に思った僕に、明彦が爆弾を投下した。

「普通、お兄ちゃん…って呼ばない?」

 げ。

「え、ちょっと待てよ。高校生にもなって『お兄ちゃん』はちょっとキモくねえ?」

「え〜! でもさ、葵が『兄貴』なんて、柄じゃないじゃんかよ〜」

「そりゃそうだ」

「やっぱ、奈月は『お兄ちゃん』…だよな」

「うわ〜! 俺も葵に甘えた声で『お兄ちゃん』とか言われてみてえ〜!」

「おいおい、それちょっと腐ってるぞ」

「なんだよ、お前は呼ばれたくないのかよっ」

「え? そりゃ呼ばれてみたいって」

「だろ〜?」

「奈月に『ねえ、おにいちゃん』なんて呼ばれたら、もう腰砕けだぜ〜」

「いや、『お兄さま』も捨てがたいぜっ」

「うわっ、それいい!」

「『お帰りなさいませ、お兄さま』ってか〜!」

「ぎゃはははっ」


 ………あのさ、それ、ちょっと…っていうか、全然違う話じゃん…。

 あまりの展開に、僕が疲れ果てて脱力していると、隣では祐介が、呆れたように肩を竦めた。


 そうして。

『奈月葵はいつ、桐生家の三兄弟を『お兄ちゃん』と呼ぶのか』という、果てしなく腐ったテーマのトトカルチョが始まってしまった。

 賭の対象は、『一月中』『二月中』『卒業式まで』の3パターンで、有効期間は悟たちがこの学校を去るまで。

 それを教えてくれた生徒会副会長の桐哉は、『葵も大変だねえ』と口では言いながら、結構満更でもなく楽しんでいる風で、またしても僕は脱力したり。

 しかも、僕の卒業までに、あと何回僕をネタにトトカルチョができるか…まで、トトカルチョのネタになっていて、僕としてはほんと、呆れるばかりだ。

 そして、それからというもの、校内・寮内・ホール内、至る所で僕の言動は注目を集め、何か一言発そうものなら周囲が一斉に耳をダンボにするような状況に、僕はちょっとばかり疲れていたりして。

 で、疲れてしまうだけならまだしも、そのおかげで僕は、みんなの前で普通に悟たちに接することができなくなってきたんだ。

 周囲のやたらとワクワクした期待に満ちた鵜の目鷹の目に晒されて、今までのように『先輩』とも呼べず、さりとてあっさりと『悟』なんて呼び捨てにするのもなんだか照れくさくて、部活中に用があって声を掛ける時だって、『あの…』とか『えっと…』とか、ちょっとあり得ない状態で。

 悟はそんな僕に、『仕方ないよ。僕がここにいるのもあと少しだから、葵は無理しなくていいからね』って、この状況に苦笑しながらも抱きしめて――もちろん人目のない『練習室1』で、だけれど――くれたんだけど、反対に昇と守は悪のりしまくり。

 みんなと一緒になって、なんとか僕に『お兄ちゃん』って呼ばせようと、わざとみんなの前で声をかけてきて会話を誘導したり、周りを先導したり…とやりたい放題。

 受験も済んで、あとは楽勝の卒業試験のみ…って状況で、いくら暇だからってそれはないだろうって感じだ。

 だいたい、昇も守も本気で僕に『お兄ちゃん』って呼んでもらいたいなんて思ってない。

 今までのように、『昇』『守』って、呼び捨てでいいと思ってるクセに、ほんと酷いんだから。

 …や、でももしかして、一回くらい呼んで欲しいなあ…とか思ってるのかな…。

 昇と守は、たまにふざけて悟の事を『おにーちゃん』だとか呼んでいる。 

 茶化して悟をからかう時に出る言葉だけど、その事に関して、昇が一度だけ僕に言ったことがあった。

『守ってさ、僕と一緒になって、悟のことはそうやってからかうクセに、僕のことは一度も『おにーちゃん』って言ったことがない』って。

 あれってもしかして、冗談でも茶化してでもいいから、一度は『おにーちゃん』って呼ばれてみたい…ってことかなあ。

 守は守で、僕が弟だってわかった時、『やっと末っ子という情けない立場から解放されるんだ』って言った。

 守としては、兄弟で一番大きいのに、たった数ヶ月遅く生まれただけで末っ子…というのが納得いかなかったらしい。

 悟はその件に関して、『あいつは自分が精神的に一番大人だと思ってるからな』って、ちょっと憮然とした顔で言ってたけど。

 ともかく僕としては、そんな3人の、ちょっと――いや、かなり――普通とは違う兄弟の形をすぐ側で見ていた所為で、僕が3人のことを『お兄ちゃん』とは呼ばないことが当たり前のようになってしまっている…という気はしてる。

 僕は3人とは違って完全に年下なのだから、『お兄ちゃん』って呼ぶのが本当は普通なんだろう。

 ま、悟だけは嫌だって言ってくれると思うし、僕もそれは勘弁…だけど。


 うーん、どうしよう。
 一度くらい呼んでみようかなあ…。

 でも、今さら、いつ、どこで…って思っても、良いアイディアは浮かばないし、みんなの前でって言うのもなんだか癪だし…。

 …って、こうして僕が自分のこと――しかも結構どうでもいいこと――に、振り回されていたある日、行きがかり上、つい立ち聞きしてしまった紺野くんと谷川くんの会話に祐介がショックを受けて寝込む…という事態が起こった。

 確かに僕より遙かに大きい祐介を1人でホールから保健室まで連れていくのは大変だったんだけど、それでも僕は周囲に見つからないように気をつけてたんだ。

 だって、祐介は全校的にも常に注目を集める生徒の1人だし、未だに親衛隊なるものも健在で、何かあったらすぐ騒ぎになってしまうだろうから。

 けれど、いくら広い敷地とは言え全校生徒が1000人を越える校内で、誰にも見つからずに…というのはやっぱり無理だったようで、『真っ青な顔した浅井先輩が、奈月先輩に支えられて保健室に向かった』という話は、僕がまだ保健室で祐介に付き添っている段階であっと言う間に広まってしまったんだ。

 当然保健室前の廊下には生徒たちが溢れたんだけど、それは、斎藤先生に呼ばれて駆けつけてきた僕らの担任・翼ちゃんが追い払ってくれて、とりあえず事なきを得た。


「びっくりだな。奈月じゃなくて浅井だもんな」

 現実逃避するかのように、そのまま爆睡してしまった祐介の枕元で、翼ちゃんが潜めた声で言った。

 まあ、確かに僕も、1学期の間は相当心配掛けちゃったけどね。

「で、検査とかはしなくても大丈夫なんですか?」

 翼ちゃんの問いに、斎藤先生は『大丈夫だろう』って頷いた。

「一過性の過呼吸のようなものじゃないかと思うんだがな。…なあ、奈月」

 って、どうしてここで僕に振るんですか。

「ええと、はい、まあ」

 確かにあの状況だと、『突然の不安に見舞われて、一気にストレスがかかった』…ってのが正解のような気がするんだけど、それにしても、祐介がそこまで思い詰めてる状態だとは思わなかった…っていうか、多分本人もわかってないだろう。

 だから、余計に始末が悪いのかもしれないけど。


「なんだ、奈月には心当たりがあるのか?」

「はあ、まあ、なんといいますか…」

 煮え切らない僕に、翼ちゃんは不可解な顔を見せたんだけど、そこはそれ、諸事において敏感な斎藤先生がさらりとフォローに入ってくれて――って、それなら最初から僕に話を振らなきゃいいのに…ってとこだけど――何とかやり過ごした。


「とりあえず、今夜はここへ泊めた方がいいか」

「「えっ。そんなに悪いんですかっ?」」

 斎藤先生の言葉に、思わずハモってしまった僕と翼ちゃんなんだけど、斎藤先生は『そうじゃなくて』…と笑った。

「さっきの保健室前の騒ぎを考えてみろ。このまま浅井を寮に返したらまた大騒ぎだぞ」

 そう言えば、そうか。

「明日の朝、ここから登校させるか、もしくは今夜の消灯後に俺が寮まで連れて帰ってやるのがいいと思うんだがな」

 さすが、斎藤先生。聖陵の生徒たちの行動形態を熟知してる。

 翼ちゃんも、『その方がいいですね』って同意して、とりあえず祐介はこのままここで寝かせておくことになり、僕は暫く付き添った後、夕食時間が終わらないうちに…と寮へ帰されることになった。


「じゃあ、お願いします」

 斎藤先生と翼ちゃんにそう言って、僕は保健室を出た…んだけど。

「…藤原くん…」

 扉から数歩離れた暗がりに、所在なげに佇んでいたのは藤原くんだった。



【2】へ続く

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