Op.3
第3幕「ただ憧れを知る者だけが」

【2】





「…奈月先輩…」

 そんな、心配そうな顔しないで。

 その、あまりにも不安げな様子に、僕は思わず藤原くんを抱きしめていた。


「心配して来てくれたんだ?」

 尋ねると、腕の中で小さくコクンと頷いた。

「…ごめんなさい。こんなところで待っていても、迷惑になると思ったんですけど…」

 それでも、どうしても心配で、ここで待つしかなかったんだね。

「大丈夫だよ、ちょっと気分が悪くなっただけだから」

 けれど、その原因が自分だと知ったら、きみはどうするのだろう。

 そんなこと、今は告げられないけれど。


「あ、あの…それで浅井先輩は…」

「うん。ちょっとね、疲れとか寝不足とか、そんなのだと思う。ほら、部長になってからこっち、大変だっただろ?」

 僕の説明に、藤原くんはまだ不安そうに、それでもしっかりと僕の目を見て話を聞いている。

「寮にだって、もう帰ってもいいくらいなんだけど、ほら、騒ぎになっちゃっただろ? だから、もう少しここで休んで帰ることになったんだ。だから、心配いらないから」

 そこまで言うと、やっとホッとしたように表情を緩めて、藤原くんは小さく息を吐いた。

「…よかった…」

 可哀相に。きっと気が気ではなかったんだろう。

 僕は、宥めるようにそっと小さな後輩の髪を撫でた。

 その時。

「藤原先輩!」

 少し控えめな声量で、でも慌てたような声をかけて走ってきたのは初瀬くんだった。

「…よかった…。どこにも姿が見えないから…」

 こちらもまた、気が気でなかった…という感じ。

「奈月先輩…あの、浅井先輩が…」

 藤原くんをしっかり確認してから、初瀬くんはジッと僕を見下ろしてくる。

「うん、大丈夫だよ、ちょっとした寝不足」

「…本当、ですか?」

 初瀬くんも心配顔。
 まあ、びっくりするよね、祐介が抱えられて保健室行き…なんて。

「ほんとだよ?」

 だから、できるだけ安心させるように、僕は笑ってみせる。

「あ、あのっ、すみませんでした、ぼく、帰りますっ」

 いきなり藤原くんが僕の腕の中を抜け出した。

「じゃあ、僕も…」

 と、初瀬くんが藤原くんに手を伸ばした…んだけれど。

「大丈夫っ、ぼく、1人で帰れるからっ」

 2、3歩後ずさり、藤原くんはあっと言う間に踵を返して走り出した。

「先輩っ!」

 その後を、当然初瀬くんが追う…のだけれど。

「初瀬くん!」

 僕は思わず、大きな声で引き留めた。

 同時に、中1とは思えないほどしっかりとした腕を掴んで引っぱると、初瀬くんは驚いたように振り返った。

「少し、1人にしてあげて」

「…奈月先輩…」

「心配なのはよくわかる。でも、彼だって多分…たまには1人で考えたいこともあるだろうし」

 実はなにも考えずに咄嗟に引き留めてしまったので、僕の口から出たのは、完全に後から付け足した『でっちあげ』だ。


「…わかりました」

 でも、初瀬くんはそうとは思わなかったのだろう。

 真剣に僕の言葉を聞いてくれたみたいで、ほんの少し、肩を落とした。

 そのことは、僕に少し、罪悪感を起こさせて…。


「ごめん」

「…先輩?」

 どうして謝られたのかわからなかったのだろう。
 初瀬くんが不思議そうに僕を見る。

 男らしい、しっかりとした視線。

 藤原くんの思い人が祐介でさえなければ、そして、祐介もまた、藤原くんを思っているのでなければ、僕は本当に、君の恋を心から応援できたのに。

 でも、ごめん。僕は、2人の思いが向き合っている以上は、彼らの味方でいたいんだ。


「ね、初瀬くん」

「はい」

 腕を掴んだまま、僕は初瀬くんを見上げて、初瀬くんはそれをしっかりと受けとめてくれている。

 だから、聞いてしまったのかもしれない。


「もしかして、藤原くんと、つき合ってる?」

 瞠った目が、答えだろう。

 けれど、初瀬くんはどこまでも初瀬くんで、僕から一切視線を外すことなく、しっかりと頷いた。

「はい。告白して、一応受け入れてもらえました」

「一応?」

 僕の問いに、初瀬くんは切なげに、小さく笑った。

「…でも、まだ僕は…片想いだと思っています」

「…初瀬くん……」

「いつか、届けばいいと思っています。藤原先輩が、その人のことを忘れるまで、頑張ろうと思っています」

 …初瀬くん、やっぱりわかってるんだ…。

「だから、奈月先輩は何にも心配されなくても、大丈夫です」

 …ちょっと待った。ここにもやっぱり『祐介×僕』が根付いてるってか。

 ってことは、やっぱり諸悪の根元は僕じゃないか…。

 初瀬くんの視線は、去年の春、お兄さんの話を聞かせてくれたときと変わらず、真っ直ぐで、透き通っていて…。


 …だめだ。彼に嘘はつけない…。


 僕は決めた。本当の事を言おうと。

 それでどう動くかは彼が決めることだ。
 藤原くんに、それを言うのか言わないのか。それも彼が決めればいい。


「残念だけど」

 ニコッと笑った僕に、初瀬くんがほんの少し、眉を寄せた。

「祐介はフリーだよ」

「…先輩…」

 一瞬だけ揺れた視線が、初瀬くんの珍しい『動揺』を僕にはっきりと伝えてきた。

「僕と祐介の間には何にもないよ。一番の親友ではあるけれどね」

 揺れた視線が定まり、少し、強くなる。

「それ、本当ですか」

「うん。本当。それと、色々あって、僕も祐介もその事を否定しないから、みんな誤解したままなんだけどね」

「じゃあ、どうしてわざわざ僕にそれを?」

「君が、『僕と祐介が恋人同士だ』と、誤解しているのはフェアじゃないと思ったから」

「互角に戦えということですか?」

 さすがだね初瀬くん。
 やっぱり君は、並の男じゃなさそうだ。
 ほんと、これで中1だなんて、ちょっと末恐ろしいかも。


「そうとってくれてもいいけれど、でも、頑張るって決めたんだろう? だったら、最後まで頑張って欲しいと思っただけだよ。人を好きになるってね、それが失恋に終わったとしても成就したとしても、いずれにしても中途半端は駄目だと思うんだ。自分自身が納得できるまで頑張らないと、必ず何か悔いが残る」

 初瀬くんの瞳に、強い光が宿った。

「では、奈月先輩は、僕にも最後まで頑張れ…と」

 言葉の裏側に、『諦めろとは言わないんですね』…というニュアンスが、見えたような気がした。

 もちろん、そんなこと言わないよ。
 祐介だって、頑張らなきゃ悔いが残るんだから。


「それもあるけれど、でも本心を言えば、僕は藤原くんに頑張って欲しいと思ってる」

 絶対後悔して欲しくないから。

「先輩…」

「だって、この場合、最後に決めるのは彼だろう?」

 ぼくの言葉に、初瀬くんはキュッと唇を引き結んだ。

 初瀬くんは、今はっきりと、祐介を恋敵と認識しただろう。
 そして、きっと全力でぶつかってくるはず。

 祐介、これを受けて立たなきゃ男じゃないよ。



                   ☆ .。.:*・゜



 カーテンの向こう側で声がした。

『先生、どんな様子ですか?』

『ああ、悟か。もう大丈夫だろう。消灯を過ぎたら寮へ帰すつもりだ』

『そうですか、よかった』

『びっくりしたろ?』

『はい、それはもう。…あの、少し話しても大丈夫ですか?』

『ああ、いいぞ。一番奥のベッドだ』

『ありがとうございます』

 足音が静かに近づいてくる。
 そして。

「浅井…」

 仕切られたカーテンに、背の高い影が立った。

「あ、はい」

「入ってもいいか」

「どうぞ」

 カーテンが静かに開く。

「よかった。もう大丈夫そうだな」

 顔色で判断したのだろう。
 そう言って悟は表情を緩め、枕元の椅子に腰を下ろした。 

「はい、もうすっかり。ご心配おかけしました」

 だが、起きあがろうとするのは制された。

 ひっくり返った勢いのまま、これ幸い…というわけではないけれど、熟睡していた祐介は、もちろん騒ぎになっていたことなどまったく知らない。

 だから、こうして悟が訪れたことを不思議に思ったのだが、考えてみれば、ここまで連れてきてくれたのは葵だ。だから多分葵から話がいったのだろう…と、納得する。

 だが。

「驚いたよ。みんなして、真っ青だったとか、冷や汗流してたとか言うものだから、何が起こったのかと思った」

「あの、みんな…って?」

「ああ、大騒ぎだったんだ。浅井が倒れたって。今までそんなこと一度もなかったからな、みんな右往左往していたよ」

 その言葉に、祐介は『あちゃー』とばかりに、額をおさえる。

 どうしてこの学校の生徒は人をネタにして騒ぐのが好きなのか。

 だいたい冷や汗なんて流した覚えはないし、倒れた覚えもない。葵には支えてもらっていたけれど、自分の足でここまで来たのだから。

 確かに呼吸は苦しかったし気持ちも悪かったけど、それだけだ。


「過呼吸だって? 葵が言ってたが」

「あ〜、はい、なんかそうらしいです」

 過呼吸なんて、未だかつて経験したことがなかったから、これが過呼吸だと言われても実のところピンとこない。

「…何かあったのか?」

 不意に声を潜めて、悟が尋ねてきた。

 やはり、悟にとっても『異常事態』なのだ。

 症状はどうあれ、祐介が保健室にかつぎ込まれる――いや、本人に言わせると『自分の足でやって来た』のであってかつぎ込まれたわけではないのだが――などということは。

 だが、悟の問いに、祐介自身が首を傾げる。

 何かあったのかと言われても、よくわからないのだ。
 どうしてあんなことになったのか。


「いえ、特に何にもなかったんですが…」


 あの時、立ち聞きをしてしまった会話の内容に、どうしようもない不快感を感じたのは確かだ。

 だがそれだけで、あんな症状が急に起こるものなのか、祐介にはさっぱりわからない。


「…そうか。それならいいんだが…」

 一旦言葉を切って、悟は祐介をジッと見つめてきた。

「何かあったら、いつでも相談に乗るから」

 それは、先を歩いてきた者の思いやりだろう。

 中等部の時もそうだった。

 生徒会長と中等部管弦楽部長の両方を引き継いだ時、悟はやはり、何かあったらいつでも相談においで…と言ってくれたのだ。

 目標であり、強いて言えば唯一のライバルでもあった悟だが、傲慢でもなんでもなく、ただ、『自分が一年先に経験していることが役に立つのなら、いつでも力になる』…と、同じ目線で語ってくれたことを随分と嬉しく感じたものだった。

 だから、その一年後には、自分も後輩に同じようにしてやりたい…とも思った。


「ありがとうございます。今のところ問題は起きてませんが、何かあったときは頼りにしてます」

 そう言った祐介は、ニッと笑ってさらに続けた。

「悟先輩は来年度もきっと、頻繁に聖陵に来て下さるはずですから」

 葵が心配で心配で堪らないのだから。

 そして、その言葉に悟は一瞬目を瞠り、『そう言えば、見抜かれてたな…』と、小さく笑った。

 それから少し、部活のことなどを話して悟は腰を上げた。



「とにかく、無理するなよ」

 その言葉に、素直に返事をした祐介だったが…。

「悟先輩」

 呼び止められて、悟は足を止めた。

「もしかして、まだ何か話があるんじゃないですか?」

 そして、振り向かないままにまた、小さく笑った。

「そっちもお見通しか…」

 観念したように振り向くと、悟はまた同じ場所に腰を下ろした。

「…卒業していった先輩たちはみんな、中高の6年間なんてあっと言う間だった…って言ったけれど、本当だな…と思う」

「…先輩…」

「特に、葵と出会ってからの2年間は一瞬のうちだったような気がする」

「…大変…でしたからね」


 そんな言葉で語りきれないのはわかっているけれど、でも、言葉を尽くしても結局語りきれないほどのことばかりだったから、仕方がない。

 祐介の言葉に悟は頷いた。おだやかな表情で。


「その時々には、乗り越えるだけで精一杯だったけれど、今となっては何もかもが必然だったんだろうな…って、思えるようになった。 これからも、多分色々なことが起こると思うし、道のすべてが平坦だとも思わない。でも、それもすべて、葵との『これから』のために必要なことだと覚悟している」


 少し目を伏せたまま語る悟を、祐介は今、素直に『眩しいな』と感じていた。

 本当の意味で、この人は、大人の男になりつつあるのだと。

 自分も、いつかこんな風になれたらいいなと思う。
 誰よりも大切な人を、自分のすべてで守っていける大人に。


「ただな、これから一年のことを考えると…」

 途端に気弱な様子を見せた悟に、祐介は内心で小さく吹き出す。

 確かに2年前までは、この先輩の、こんなにも揺れ動く表情など見たことがなかった。

 柔らかな微笑みで本心を綺麗に覆い隠し、その表面こそがあたかも本心のように思わせてしまえるほどに、『完璧』を演じていた悟。

 その厚い壁を突き崩した葵の存在は、もちろん祐介にとっても、悟同様にかけがえのないものだった。

 けれど今、葵の存在は、それぞれにとって違う意味を持っている。
 だが、その重さは変わらない。


「浅井」

「はい」

「葵のこと…」

「先輩」

 咄嗟に祐介は悟の言葉を遮った。

「申しわけありませんが、そこから先はお聞きするわけにいきません。僕は、誰に頼まれるのでもなく、僕の意志で葵を守りたいんです」

 その言葉に、悟が目を見開く。

「葵は、僕の一番の親友なんですから」

「…浅井」

「ご心配なく。一年後には、ちゃんと元気いっぱいの葵を先輩にお返ししますから」

 ほんのちょっと、いいカッコし過ぎたかな…とは思わないでもないけれど、でもこれは紛れもない本心だから。

 悟が笑った。

「頼りにしてるよ、浅井」

「お任せ下さい、悟先輩」

 中等部の頃からよく似ていると言われていた2人が、しっかりと手を握り合った。



                   ☆ .。.:*・゜



 消灯点呼15分前。

 慣れた寮への坂道を登りながら、悟は『葵を守ってみせる』と言った祐介の頼もしい笑顔を思い出していた。

 彼になら、無条件で葵を託せる。

 葵に巡り会えた幸運は何度も感謝してきた悟だが、こういう後輩に巡り会えたこともまた、とてつもない幸運だったのだと思い知る。


 寮の灯りが見えてきた。

 振り向けば、眼下に広がる学校の広い敷地。
 そしてその向こうには、街の灯り。
 見上げれば、都会にしてはたくさんの星。


 当たり前だった6年間の光景も、あと10日ほどで見納めだ。


 葵は今頃、祐介のいない部屋に一人でいるのだろう。

 子供の頃から大勢の中で育って来た葵は、1人でいることをあまり好まない。だからきっと『早く帰ってこないかな』…と思っているはずだ。


 あと一年ある葵の高校生活が、何事もなく、穏やかで楽しいものであるようにと、悟は願う。


「あれ、悟? 何やってんのこんなところで」

 昇が坂道を駆け上がってきた。
 おそらく、顧問のところにいたのだろう。

「もうすぐ点呼だよ、ほら、早くっ」

 腕を引っ張られて一緒に駆け出す。

 点呼5分前の放送が流れる寮内は、慌ただしく自室に戻る生徒で賑やかだ。

『お休みなさい』と声を掛けてくれる後輩や、『お、この時間まで悟がお出かけとは珍しいな』などと茶化してくる同級生。

 それらの一つ一つが暖かくて愛おしい。
 けれど時間は止まることなく流れていく。

 OBたちの多くが、どうして母校に拘り、執着し続けるのか、悟にもわかった。

 ここでの日々と、得た友情は、何ものにも代え難い宝物…だから。



【3】へ続く

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