Op.3
第3幕「ただ憧れを知る者だけが」

【3】





 管弦楽部の根城。

 音楽ホールの客席の、一番後ろの真ん中で、祐介は腕を組んで目を閉じていた。

 ステージにいるのは中等部Aグループの面々。

 演目はすでにこのグループの定番の一つとなっているモーツァルトの交響曲第40番だ。

 どちらかというと、モーツァルトは中学の頃から苦手な祐介だが、部長として、こうして後輩たちの演奏を聴く立場になるとそうも言っていられないし、何より後輩たちの演奏を聴くのは好きだ。

 合奏の最初の頃はぎこちなさが目立つものの、回数を重ねるに連れ全体がまとまっていく様子を体感するのは気持ちがいい。

 間もなく年度が終わろうという今は、更にアンサンブルの結束は固くなり、信頼関係の中に自由な演奏を聴かせてくれるようになる。

 そして、全体によい仕上がりを見せている合奏の中、一際輝いた演奏を繰り広げているのは、ただ一本のフルートを担当している中学2年の彰久。

 目を閉じて聴いていればとても14歳の演奏には聞こえない。

 淀みない音程と確かなリズム、そして澄みきった音色で合奏全体を引っ張っている。 

 彼はこの春休みにジュニアのコンクールに再挑戦する予定なのだが、おそらくファイナルの5人に残るだろう。できれば優勝して欲しいところだが、如何せん、本人にその欲はまったくない。

 それに、全国中学選抜オーケストラのメンバーにも選出されることが内定していて、活躍著しい逸材だ。 

 高等部に葵がいて中等部に彰久がいて、さらに高等部の管楽器には将来を期待されている奏者がゴロゴロといて、自分たちが卒業した後は、アニーや司ががっちりと固めてくれるであろう聖陵学院管弦楽部は、桐生家の3兄弟が卒業する穴は大きいとは言え、まだまだ旬のまっただ中と言ったところだ。

 そんな管弦楽部を現在部長と言う立場で統括している祐介は、閉じていた目をそっと開いて壇上の彰久をジッと見つめる。

 今度こそは、葵に続く次席の座を彰久に持っていかれるかも知れないと言う危惧が祐介にはある。

 危惧と言うよりは確信かも知れない。

 彰久の能力がすでに自分のそれを上回っているだろうことには当然気がついていたし、それを悔しいとも思わなかった。

 むしろ先輩としては喜ばしいことではある。彰久が順調にその能力を伸ばし、活躍してくれるのは。

 ただ祐介は『葵の隣の席』という一点に拘り続けている。


『ずっと葵の隣で吹いていたい』


 そう思い、そのために最大限の努力を自身に誓った高1の春。
 その誓いは卒業するまで……いや、大学を出るまで違えるつもりはない。

 だから、葵の隣の席だけは最後まで誰にも譲りたくない。
 たとえ彰久であっても、負けるわけにはいかなないのだ。

 もしかすると、新年度の次席争いのオーディションは、どのパートよりも熾烈になるかもしれない。

 でも、勝ち残らなくてはならない。

 ジッと見つめていた視線をふと外すと、客席中程の左端に、英彦の姿があった。

 やはり、ジッと彰久を見つめている。

 小さな彰久を、いつも守るように寄り添う英彦。
 英彦の存在は、祐介にとって不快なものではない。

 むしろ、自分たちが卒業した後々の管弦楽部を守るのは彼だろうと言う確信もあるくらいに信頼をおいている。様々な面において。

 だが、彰久の隣に立つ彼の姿にいつも言い様のない焦燥感を覚えるのも事実だ。

 自分自身が英彦に焦りや恐れを感じなくてはならない要素は何も無いというのに。


 あの時もそうだった。

 何気なく立ち聞きしてしまった、フルートパートの後輩たちの会話。

 自分が思っていた以上に、親密な仲になっているらしき彰久と英彦の関係を想像した途端、急に胸が苦しくなって、息ができなくなった。

 その後のことはあんまり覚えていない。
 ただ、葵が細い身体で一生懸命自分を支えてくれているのだけは、朧気に感じていたのだが。

 あの二人は多分、1年後か2年後には、メインメンバーのトップコンビになるだろう。

 自分が葵の隣の席に執着したのと同じように、彼らも、お互いに離れたくないと思っているのだろうか。

 そう思うだけで胸のどこかがちりりと焦げる。



 いつの間にか合奏が終わっていた。

 ステージから降りた彰久が、祐介の元へとやってきた。

「先輩、どうでしたか?」

 周囲の評判通り、ほんの少しだが子供っぽさが抜けて、かなり美人になったその頬が少し紅潮している。

 合奏の感想を求められ、祐介は立ち上がるとその小振りの頭を大きな手で包み、優しく撫でる。

「良い出来だったよ。木管は申し分ない。あとはチェロとコンバスがもう少し自信を持ってくれるといいな」

 そう言うと、彰久は小さく頷いた。どうやら同じ感想を持っていたようだ。

「そうですね。弦楽器とのミーティングでしっかり話し合ってみます」

 彰久は春から中等部の管楽器リーダーになることが内定している。

 少し大人に近づいたとは言え、やはり小柄で誰よりもオコサマに見えるのに、部員の誰もが彼に絶大な信頼をおいている。

 彼らの『交響曲第40番』は間もなく一応のゴールに到達するだろう。
 そして、また新しい目標に向かって歩き出す。



「藤原先輩」

 少し離れた場所から、英彦が彰久を呼んだ。

「光安先生がお呼びです」

「あ、ありがと、初瀬くん」

 英彦…と、名前で呼んでいるという噂を聞いたが、どうやらこういう場面では別らしい…が、本当に…呼んでいるのだろうか。

 その、可愛い口で、可愛い声で。

 英彦を振り返っていた彰久が、もう一度祐介に視線を戻してきた。


「あ、あの、先輩…」

「ん? なんだ?」

 つい、他の後輩たちよりも優しい声で受け答えしてしまうのは、いつからだったろうか。

「こ、今度、中等部の管楽器分奏につき合ってもらえませんか?」

 中等部の管楽器リーダーなら当たり前に考えるであろうことを、何故か意を決したように、けれどどこか遠慮がちに、彰久は言った。

 頬の紅みが増してきた。 

 そんな様子も可愛いな…と、祐介は頭のどこかで感じているのだが、それについて深く考えたことはあまりない。


「ああ、もちろんいいけど。…でも葵の方がいいんじゃないか?」

 後輩たちの指導はもちろん部長としての大切な役目の一つだが、管楽器の分奏を見る…ということは、技術的にも音楽的にも、葵の方が適任だろうと純粋に思ってそう言ってみれば、彰久はキュッと唇を噛んで、視線を下げた。


「…そ、そうです、ね。 じゃ、あ、奈月先輩に、お願い…してみま、す」

 少し息苦しそうに、途切れ途切れにそう言って、くるりと踵を返した。


 ――…え?


 予想外の反応な上、そのいいざまがあまりに悲しげで、祐介は咄嗟に彰久を呼び止めた。

 しかし、振り向いたのは、英彦だけ。

 そして、英彦の大きな手が彰久の肩をしっかりと抱き留めた。

 視線が絡む。


 ――その手を、離せっ。


 内心で咄嗟にそう叫んだ自分に、祐介は微かに戸惑った。



                   ☆ .。.:*・゜



 静まり返った広い講堂の中、生徒会長の古田くんが、いつものようによく通る声で『送辞』を読んでいるのを、僕はぼんやりと聞いている。

 何だか、嘘みたいだ。

 本当に、卒業式がやってきてしまった。

 悟は今日、卒業証書を受け取り、午後から管弦楽部の送別会、夜は学食で3年生と父兄の謝恩会があって、明日の午前中には退寮してしまう。

 そして、僕たち2年生は午後から修学旅行。

 悟たちに会えるのは5日後になる。

 でも僕は3月末に演奏会に出ることになっていて、修学旅行から帰ったらすぐに、もう1人のソリストとオケとの『合わせ』があるから結構忙しくなりそうで。

 オケは国内のオケなんだけど、もう1人のソリストは海外からやってくることになっていて、その人が明日にも来日するらしいんだけど、なんだかちょっと嵐の予感がしないでもなくて、僕は演奏以外のところで小さな不安を抱えてる。

 ともかく、その演奏会が終わったら、短いけれど楽しい春休み…にはなるんだけれど、休みが明けても悟の姿はこの学校にはない。

 僕は3年生になってこの学校に戻るけれど、大学生になる悟は、ずっと家にいるから。

 って、ぼんやりと落ち込んでいたら、いつの間にか『送辞』が終わり、名前を呼ばれて壇上に立ったのは、最後まで学年1位を守り抜いた、悟。


 講堂内からすすり泣きが漏れ始めた。

 ここ1〜2週間、悟の靴箱とか寮の郵便受けとか教室の机の上とかは、手紙やプレゼントで溢れていた。

 もちろん、ずっとこの学校のカリスマ的存在だった『悟さま』は人気も絶大だったのだけれど、悟自身が纏っていた鎧の所為で、あからさまにアプローチをする生徒は少なかったそうだ。

 けれど、『卒業』という『別れ』を前にして、捨て身のアプローチを試みた生徒のなんと多いこと。

 僕としては、妬けちゃう以前に呆然って感じで。

 しかも、僕のところにまで、『これ、悟先輩に渡してくんないかなあ』なんて、手紙を預けに来るヤツが現れる始末。

『兄弟告白効果』は、いい意味でもたくさんあったけど、まさか『ラブレター』の使いっ走りをやらされることになろうとは、さすがに僕も――もちろん悟も、思ってなかった。

 当然、昇と守にはウケまくってたけど。

 そうそう、昇や守宛ての手紙やプレゼントは一つも頼まれなかった。

 昇と守には直接『突撃しやすい』らしくて、みんな盛大にぶち当たって派手に玉砕してたっけ。


 悟の凛とした声が、講堂に響き渡る。

 恩師や学校関係者への感謝、共に学校生活を送ってきた仲間たちへの感謝、そして、ここで学んだことを生かし、これからも努力を惜しまないことを誓う言葉…などが、悟らしい真摯な口調で語られて、すすり泣きに混じって嗚咽まで聞こえてくる始末。

 悟ってば、本当に、最後の最後まで『聖陵のカリスマ・悟さま』なんだから。

 なんだか僕まで泣きたくなってきちゃった。

 本気で泣くつもりはなかったんだけど、あんまりにも悟がかっこよくて、あんまりにも周りが悟に熱い視線を注いでいて、寂しいのとか妬けちゃうのとか誇らしいのとかときめいちゃうのとか悲しいのとかが一度にごっちゃに襲ってきて、僕は思わず『ぐす…っ』と鼻を啜ってしまった。

 そうしたら、すかさず隣の祐介が僕の鼻を摘んできて、『泣くなって悟先輩に言われたろ?』なんて小声で突っ込んでくる。

 確かに昨夜、『泣いちゃダメだよ』とは言われたけど。
 いいじゃん。そんなの黙ってりゃわかんないんだし。

 そう思った途端、僕の視界は本格的に曇った。

 見納めの、悟の制服姿が滲んで見えなくなり、『卒業生代表、桐生悟』…という言葉だけが、僕の耳に届いた。



                   ☆ .。.:*・゜



 翌朝。
 3年生たちが退寮する時がやってきた。

 高校寮は早くからごった返し、それに優るとも劣らないのが、正門周辺だ。

 親しい先輩を見送ろうと、中1から高2までがひしめいていて、騒然としている。

 退寮の服装は自由だ。

 昨日卒業証書を受け取って、3年生たちはすでにOBとなっているから、どんな格好で退寮しても構わないことになっている。

 で、そうなると大人しくしていないのが聖陵の生徒――じゃなくてすでにOBだけど――の性だ。 

 もちろんお洒落に私服で決める人もいれば、思い出の制服で出ていく人もいる。

 部活のユニフォームと言う人も多くて、ついさっき、森澤先輩はテニス部のお洒落なポロシャツで、加賀谷先輩は袴姿で学校を後にした。

 ちなみに茶道部の坂枝先輩はなんと着流し。
 超似合ってて、バカウケしてた。

 そして、管弦楽部は演奏会用の制服着用の先輩が多い。

 そうそう、去年なんて、美術部の元部長がモナリザの扮装して、自分で額縁持って歩いてたもんね。

 あ、今年もヘンなのが来た。あれは、確か映画研究会の前会長。

「すご〜い、ゴジラの着ぐるみだ〜」

 雄叫びを上げながら進むゴジラ――しかも片手にラジカセもってテーマ音楽を流しながら――に、明彦がはしゃいで手を振ってる。

 あれ、高いんじゃないかなあ。
 作るにしても買うにしてもレンタルにしても。


「お、先輩たちだ」

 祐介の言葉に振り返ってみれば、管弦楽部の卒業生ご一行さまの登場だ。

 あ、守は管弦楽部の制服。やっぱりカッコいい〜。

 その周辺だけ強烈に黄色い声が飛び交ってる。

 カメラに囲まれてる守はまるで、某映画賞授賞式でレッドカーペットに立つスターみたいだ。


「…昇先輩…」

 祐介が脱力した声で呟いた。

 周囲は大歓声で、何事かと見てみれば。

 昇…そのカッコは…。

「やっぱり昇先輩って、最後まで昇先輩だったなあ…」

 感慨深げに祐介が唸る。

「俺、もしかして昇先輩のこと、一番尊敬してるかも…」

 反対側の隣で、これまた魂が抜けたように言うのは茅野くん。
 小脇に抱えられた羽野くんは、もはや声もない。

「やるねえ、昇先輩。最後に超ミニ・ドロシーだって」

 ワクワクした声は、僕の後ろにいるアニー。

 まさか、光安先生のリクエストじゃないだろうな…と、思ってみれば。

「あれ、昇先輩のお母さんのリクエストなんやって」

 教えてくれたのは司だ。

「誰よりもインパクトのある格好で出てきなさいって言われたから、これなんかどう?…って聞いたら、それがいいって言われたんだ…って、昨日先輩に聞いたよ」

 香奈子先生…なんてことを。

 まあ、似合ってるし綺麗だからいいんだけどね…。

 僕は、来年は絶対普通の制服で出ていこうと心に決めた。

 で、それを固く心に誓っていると…。

 悟…制服だ。僕の大好きな、いつもの悟の制服姿…。

 目があった。悟がこっちへやってくる。


「葵、昨日泣いたんだって?」

 え?! どうしてそれを〜!

 ゆ〜すけ〜、裏切ったなあ〜…。

 ジロッと隣を見上げて見ても、祐介はしれっと視線を流して知らん顔。

「葵が泣かなくてすむように、これ、おいてくよ」

 悟がサッとブレザーを脱いだ。そして、ふわっと僕に着せかける。

 暖かい…。

「いい、の?」

「もちろん」

 僕たちの会話に、周囲は『聞きしにまさるブラコンだなあ』なんて茶化してくるんだけど、ここで『お兄ちゃん』なんて絶対言わないからね。

『奈月葵がいつ桐生家の3兄弟を『お兄ちゃん』と呼ぶか』…っていうトトカルチョはまだあと少し有効なんだから。

「修学旅行、気をつけて行って来るんだよ」

「うん。電話するね」

「ああ、待ってる」

 そう言って悟は、悟の大きなブレザーにすっぽりと包まれた僕を一度だけ抱きしめた後――ほんとはキスしたかったんだけど――みんなの『お元気で』とか『これからも頑張ってください』なんていう声ににこやかに応えながら、正門へと向かっていった。


 悟が、昇が、守が、聖陵学院を後にする。

 それぞれに、6年間の思い出を抱きしめて。

 僕も、あと一年がんばるよ。

 ここでたくさんの友達と、たくさんの思い出を作る。

 3人に、負けないくらい。




 悟たちが、正門を出た。

 ボーダーラインを越えたことを確認して、僕は叫んだ。

「お兄ちゃん!」

 あたりが一瞬静かになった。

 振り返る悟たち。

「お兄ちゃん! 卒業おめでとう!」


 その瞬間、溢れかえったのは歓声やら悲鳴やら。

『やられた…』なんて、地面に突っ伏す同級生まで現れて、あたりは大混乱になったんだけど、悟たちは、正門の向こうで大笑いをしていた。

 そして、僕に向かって『葵、Good Job!』と親指を立てた。



「トトカルチョの有効期限は、先輩たちがこの学校にいる間。…葵、見事な確信犯だな」

 祐介が心底感心したように言う。

「あったりまえ。誰が素直に餌食になんかなってやるかっての」

 してやったり。
 あと一年。トトカルチョつぶしにも頑張ろう!


 ちなみに。

 悟が僕にブレザーを着せかけていったことは、翌年から『好きな子にブレザーを残していく』…という、聖陵の伝統行事になってしまったのだった。



END

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