Op.3
幕間 「ララバイ」

【1】





 枕元の電話がなった。
 この呼び出し音は、内線だ。

 羽布団の中から金色の頭がもそっと現れた。
 続いて細い腕が手探りで受話器を取る。


『昇、いつまで寝てるの。朝ご飯よ』

 365日24時間、いつも元気な母の声が『さっさと降りてきなさい』と告げる。

「はぁい…」

 気の抜けた返事だが、寝ぼけているわけではない。

 目は覚めていたのだ。

 自宅へ帰省するたび感じてきたことだが、『規則正しい寮生活』というのは、いつの間にかしっかりと身体に染みつくもので、休みが始まった当初はちゃんと『いつもの時間』に目が覚めてしまうのだ。

 ただし。
 ダレた生活はそれ以上のスピードで身体を侵食してくれるので、休みが終わる頃にはすっかり寝坊になってしまうのだが。

 しかも今回は『卒業』による帰省だから、あの『規則正しい』自分には戻れそうもない気がする。


 ――それにしても、悟も守も元気だよなあ…。

 2人は昨日帰ったばかりだと言うのに、今朝は早くからジョギングに出かけていった。

 お前も来い…と、一度は叩き起こされたのたが、ご冗談でしょ…と、二度寝を決め込んだ。

 テニスやサッカーは好きだけれど、ただ走るだけ…なんてのは性に合わない。

 なんであんなストイックな行為が好きなのか、疑問だ。


 ――とりあえず、起きよ…。

 ノロノロとベッドから這いだして、昨夜ソファーの上に脱ぎ散らかしていた服を適当に身につける。

 チラッと時計を見てため息をついた。

 ――直人、もう飛行機に乗っちゃったな…。

 昇の恋人、光安直人は藤原彰久の付き添いで、ジュニアコンクールの本選に向かった。

 明日がセミ・ファイナル、明々後日がファイナルなのだが、彰久がファイナルに残るのは確実だろうと思うから、帰ってくるのは早くて4日後だ。

 しかも、その後すぐに同じ場所で葵の演奏会があるから、一度帰ってきても、また数日で行かなくてはならない。

 まあ、その時には『葵の兄』という立場を大いに利用して、リハーサルの段階からくっついていくつもりではあるけれど。


 直人からは、4月になったらどこかへ旅行しようと言われてる。
 でも、聖陵は7日が入寮日だけれど、大学の入学式は6日なのだ。

 休みは5日しかない。
 となると、行けても2泊3日がいいところだろう。

 お互いに学校が始まってしまえば暫くはゆっくり会うことも叶わない。

『挨拶にも行かなきゃ…だしな』…と、卒業式の夜には言ってたから、ここへも来るつもりではあるのだろうけれど、とりあえず、少なくとも4日間は会えないのだ。

 しかも、今日明日には何だか憂鬱なことがありそうで…。


 ――ま、うじうじ考えてても仕方ないや。

 無理矢理気持ちを切り替えてドアを開けた途端。

「昇、何やってんだ。さっさと降りてこい」

 一向に現れない昇に痺れを切らしたのだろう、守が仁王立ちで見下ろしていた。



                   ☆ .。.:*・゜



 いつもより遅い朝食を終え、リビングのソファーでゴロゴロしていると何だか眠くなってきた。

 守はすでに、向かい側で寝入っている。

 どうせ寝るならそんなに早起きしなくてもいいのに…と思って、横に視線を転じて見れば、悟は何やら本を読んでいる。

 アレはアレでくつろいでいるのだろうけれど、とにかく葵が修学旅行から帰ってこないことには、春休みも始まらない…と言ったところなのだろう。


 何だか平和だなあ〜…と思ってから僅か数分後。

 遠来の客がやってきた。


「げ、マジで来たの、あの人」

 香奈子は玄関へ迎えに出たが、昇は相変わらずソファーに寝そべっている。

 守は一応起きたみたいだが、やはり歓迎している風ではない。

 悟は若干警戒の色を浮かべている。


「いい度胸してるよね。ここまで乗り込んでくるなんて」

「って言うかさ、ちょっと不気味だよな。何狙ってんだろ」

 昇と守は容赦がない。

 だが、悟は黙ったままだ。

 もしかすると、一番何か言いたいのは悟かもしれないが、とりあえず様子を見るつもりらしい。

 しかし、昇としては、黙っていられるよりも何か言って欲しい。

 こんな気の重い話、3人でバカでも言って分け合わないと、鬱陶しくてやってられないからだ。


「悟は心配じゃないの? 葵のこと」

 だから、ついストレートにきいてしまったのだが。

「大丈夫さ、葵は僕が守る。嫌な目になんて絶対合わせないから」

 絶対に自分は揺るがないという決意。

 生真面目に言い切った悟に、だが守は暢気な声をだした。


「…や、俺的には葵は大丈夫だと思うんだけどなあ」

「根拠は?」

「根拠って言われると返す言葉がないけどさ、何となく、葵はダシにされただけ…って気がするんだよな」

「ダシ…ってなあ」

 思わず腰を浮かせた悟を、守が笑いながら止める。

「まあ、落ちつけって。確かにダシだって気分のいい話じゃないけどさ、少なくとも、葵目当ての何かがあるよりはマシじゃねえ?」

 言われてみれば、確かにそうではあるし、実のところ、悟もほんの少し、そんな気がしないでもない…のだが。

「けどな」

 やはり不安には違いなく、守に言い返そうとしたとき、足音が近づいてきた。

「さ、どうぞ」

 ドアが開いた。

 そこでまず、3人は違和感に気づく。

 今、母は日本語ではなかったか。
 今日のお客は日本語は話せないはずなのだが。

 しかし、そこへ現れた、小柄だけどどこか勝ち気そうな美人は、鮮やかなブロンド巻き毛と見事なブルー・アイを持っていて、やはり予定の人物だった。

 年齢よりずっと若く見えて、少女のような笑顔を見せるのは相変わらずだ。


「こら、あなたたち、何座ってるの。ご挨拶は?」

 香奈子の叱責に、珍しく悟までが渋々の様子で腰を上げる。

 それを目の当たりにすれば、歓迎されていないことくらい容易に想像できるだろうと思うのだが、お客はニッコリと微笑んだ。

 そして。

「久しぶりね。昇、悟、守」


 ――あんた、誰?

 昇の内心の突っ込みは、おそらく悟も守も同じだったのだろう。

 全員が言葉をなくしていた。


「ほらね、みんなびっくりしてるわよ」

 香奈子が笑った。

 美人の名はシャロン・ギューム。
 昇を『産んだ人』…だ。

 香奈子の言葉に、小さく肩を竦めてまた3人に向き直る。

「昨日、high schoolを卒業したんですってね、おめでとう」

 にこやかに言われて、最初に我に返ったのは悟だった。

「ありがとうございます。すみません、ちょっと驚いて」

「ってか、どういうこと、これ」

 守はすっかり不信感を露わにしている。

 昇に至っては、ブスッとふくれたままだ。

 3人が驚くのも無理はない。

 シャロンは今までフランス語しか話さなかったのだ。

 いつも香奈子が通訳に入っていて、香奈子を通じてしか会話をしたことがなかったのだから、突然の日本語――しかもかなり流暢――に、面食らってしまうのは致し方ないだろう。

 勉強したのだろうか。
 そう思ったのだが、香奈子は更に驚くことを言った。


「シャロンはね、元々日本語は堪能なのよ」

「はあ? じゃあどうして今まで話さなかったんだよ」

 明らかに咎める色になっている守の声に、シャロンはほんの少し目を伏せたが、昇は相変わらず無言のままだ。

「まあまあ、みんな座りましょ。そのあたりはお茶でも飲んでゆっくりとね」

 昇の様子にはもちろん気付いているだろうが、香奈子はわざと明るい声で、昇をソファーに座らせた。



                   ☆ .。.:*・゜



「出会った頃、良昭はまだフランス語が話せなかったの」

 手にしたティーカップに目を落としたまま、シャロンが言う。

「英語とドイツ語は堪能だったのだけど、フランス語は全然でね。私との会話は主に英語だったんだけど、私は英語があんまり好きでなくて、でもドイツ語はもっと好きでなかったから、この際だからって日本語を勉強したの」

 フランス語で話している時と違い、かなり小さな声で自信なさげに話すのだが、それは日本語に自信がないから…というわけではなさそうだ。

 実際シャロンの日本語は語彙も豊富で、音楽家らしく、発音も正確だ。

 プロの音楽家は耳がいいので、外国語の発音も流暢にこなす場合が多いのだが、それでも日本語は難しい部類に入るらしく、得意だと言い切れる者は案外少ないというのに。


「それから、良昭との会話も香奈子との会話も、ずっと日本語だったのだけど…」

「昇との会話はフランス語だったわけだ」

 守がうんざりした口調で言った。

「ま、あれは会話にもなってなかったけどな」

 昇にとっては、通訳してくれている母の香奈子がいてくれればそれでよくて、意味不明の言葉を話すシャロンと親しく会話を交わす必要性など感じていなかったのだ。

 けれど、こういう事情なら話は別だ。


「なんで昇に日本語で話しかけてくれなかったんだ?」

 すっかりタメ口の守だが、香奈子が咎める様子はない。
 静かに落ち着いた様子で、しかも優雅に紅茶を飲んでいる。

「…それは……」

 シャロンが言い淀み、その視線が更に下がった時。

「とにかく」

 いきなり昇が立ち上がった。

「どうぞごゆっくり。僕たち出かけるから」

 シャロンが来てから初めて発した昇の言葉に、さすがの香奈子も少し驚いたようだ。

「何処へ行くの? 昇」

『僕たち』と言われた割に、悟も守も『何処へ行くんだ』という顔をしている。


「ケータイ買いに」

 香奈子とも目を合わせないまま、昇はさっさと応接間を出ていこうとしている。

「あ、そっか。休みに入ったらすぐ買いに行こうって約束してたよな」

 守が明るい声で同調して立ち上がった。

「ほら、悟も早く行こうぜ。今日中に買えば、明日から葵が携帯にかけてきてくれるぞ」

 葵と言われれば、悟に反論の余地はない。

「わかった。行こう」

 悟も立ち上がる。

「中座してすみません。失礼します」

 香奈子の手前、悟は一応きちんと非礼を詫びて――しかし香奈子にも有無を言わせないまま――2人の後を追った。





 一刻も早く家を出たそうな昇の様子を察して、特急で支度をして出てきたのだが、外へ出た途端、昇の動きは酷く緩慢になった。

 最寄りの携帯ショップは徒歩20分ほどのところにあるのだが、この調子では30分以上はかかりそうで、しかも帰りにも真っ直ぐ家へ戻るとは思えなくて、悟は密かに、買ったばかりの携帯で最初に取る連絡は、桐生家におけるシャロンの存在の確認…ではないだろうかとため息をつく。

 一応都内にホテルを取っているようなので、宿泊はそちらへ行くだろうが、もしかしたら夕食時にはまだいるかもしれない。

 そうなると、悟も守も家へは帰れないだろう。

 けれど、つき合ってやるしかない。昇の気持ちはよくわかるから。


 ――それにしても…。

 何か騒動にならなければいいが。



「悟、あのオバサンに何で来たのか聞かなくてよかったの?」

 昇が声を掛けてきた。
 一見平静を装っているように見えるが、悟たちにはすぐわかる。

「…ああ、それな…」

「なに、その、気のない返事」

 僅かに尖る口調に、苛立ちが感じられる。

「いや、気にはなってるんだけど…」

 昇とは反対に、実はすでに、悟の毒気は抜かれていた。

 自信なげに日本語で話すシャロン・ギューム。
 時々、昇を盗み見る、少し悲しそうな瞳。

 それらを目にしてかなり確信していた。目的は葵ではなくて、昇だ…と。

 そうなると、もしかすると事態はより厄介な方向へ向かうのではないだろうか。


 去年の秋、守にも危機が訪れた。

 セシリア・プライスほど強引なことはないかもしれないが、反対に思い詰められても困る。


 ――嫌な予感がする…。

 悟は、昇の様子を注意深く見守っていなければ…と思った。

 昇は今、頭に血が上った状態だ。
 しかも頼みの直人は側にいない。

 隣を歩く、守と目があった。

 おそらく同じ事を考えながら歩いていたのだろう。
 昇にわからないように、微かに頷いて寄越したから。


 シャロン・ギュームの来日。

 それが昇に知らされたのは3月に入ってからのことだったが、悟は随分前に聞かされていた。


 今回の火種は、数ヶ月前に熾っていたのだ

 あれは確か12月。
 大学の合格発表の前日だったと思う。



【2】へ続く

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