Op.3
幕間 「ララバイ」
【2】
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「先生、お呼びですか?」 冬の気配が濃くなってきた聖陵学院。 悟は直人に呼び出されて、音楽準備室の並びにある私室を訪れた。 「ああ、少し耳に入れておきたいことがあってな」 そう言いながら身振りでソファーへ座るようにと促す。 「悟はブラックでよかったな」 「あ、はい。すみません」 悟が座ったのを見ると、直人はカップをとり、淹れたばかりのコーヒーを注いでテーブルに置いた。 そして、その瞬間にため息をついた。 「…先生?」 「ん…。あ、いや、すまん」 らしくなくソワソワとした様子を見せる顧問を、悟はいぶかしげに見上げる。 やがて、直人も自分のカップを手に、悟の前に座った。 「実はな、ジュニアコンクール事務局から連絡があって、来年の春休みに『優勝者記念コンサート』をしたいと言ってきたんだ」 現在聖陵に通う生徒の中で、ジュニアコンクールの優勝者と言えば、葵ただ一人だ。 「それは、葵のことですか?」 「ああ、そうだ。ヴァイオリン、ピアノ、フルートの3部門の過去の優勝者の中から一人ずつ選んで、コンチェルトをしようって話なんだが…」 「それに葵が選ばれたんですねっ」 すでに悟は興奮気味だ。 「曲は何ですかっ?」 悟に押されて、直人は次に言いたかったことを、らしくもなく飲み込んだ。 「あ、ああ。モーツァルトの『フルート・ハープ』だ」 モーツァルトの「フルートとハープのためのコンチェルト K.299」は、フルートとハープが管弦楽を従えて、繊細で美しいメロディを奏でる、数あるモーツァルトのコンチェルトの中でも特に知られた曲の一つで、演奏会のプログラムにもよく取り上げられる人気の曲だ。 「すごい…。僕に練習ピアニスト(*)をやらせて下さい!」 悟はもう、一人で話を進めている。 とにかく嬉しくて仕方がない。 確かジュニア・コンクールは次が16回目のはずだから、葵は15人いるフルート部門の優勝者の中でもナンバー1に選ばれたということなのだ。 「そりゃ、お前しかいないだろう、葵の相手が務まるのは。まあピアノ付きの練習は2月くらいからで十分だろうから、年が明けたら相手をしてやってくれないか」 「はいっ。…それで、本番のハープは誰が?」 気になるのはもう1人の『ソリスト』だ。 ジュニア・コンクールにはハープ部門はないから、当然部外者ということになるだろうが、そこへ妙な男がやって来ては困る。 日本ではハーピストと言えば女性がほとんどだが、海外へ出てみれば、男性ハーピストも数多く存在するのだ。 恋人のエゴだと言われようが何と言われようが、危険物はあらかじめ排除するのが適切な判断なのだ。悟の基準では。 だが、悟の問いかけに、直人は持っていたカップをテーブルに置いた。 彼にとってはそれこそが『本題』なのだ。 「それなんだがな…」 暗く低い声に、自然と悟の声も小さくなる。 「はい…?」 「一応、国内の若手に決まっていたらしいんだが、それをひっくり返してきたのがいてな」 「それは、横やりが入ったって言うことですか?」 音楽の世界もご多分に漏れず、学閥や師弟関係のしがらみが多い。 ましてコンクール絡みとなると、売り込みの意味も込めて、椅子取り合戦は熾烈になる。 「横やりも横やり…。国内の、まだまだこれからっていう無名の若手ハーピストの席を、世界の第一人者が横取りしたんだからな」 「は?」 椅子取り合戦というのは普通実力の伯仲しているもの同士で行われるのが普通だ。 それを、普通ならば同じ土俵にも上がれないような大物が力ずくで横取りしたとは…。 それも、言ってみればたかが、遙か極東の地・日本のジュニアのコンクールで…。 「先生…まさか…」 悟も手にしていたカップを置いた。 世界の第一人者…。そして、この直人の様子からすると恐らく間違いではない。 悟の『まさか』を、直人はため息で肯定した。 「シャロン・ギュームが来るんですね…?」 次のため息はもっと大きかった。 「何が目的だと思う?」 来日の時期は来年の3月末。 3月中旬には悟たちは卒業して、その後、昇は直人の籍に入ることになっている。 「こっちにも横やりが入るんだろうか?」 直人の、見たこともないような不安そうな顔に、悟は思わず吹き出してしまった。 「悟っ」 「あははっ、すみません」 昨年の夏以来、昇のこととなると途端に大人の顔を取りこぼしてしまう顧問に、なんだか嬉しいものを感じて、悟は笑いを止められなかった。 「悟。お前笑ってるがな、もしかしたら葵が目的かも知れないんだぞ」 「え?」 悟は瞬間に笑いを止めた。 「どういうことですか?」 「葵は昇の弟だ。赤坂氏にもう一人息子がいたということは、すでにヨーロッパでも知られていることだからな」 「それで、シャロン・ギュームが葵をどうしようって言うんですか?」 正面切って突っ込まれても、直人には返す言葉がない。 なにしろ、もともと思いつきで吐いた言葉なのだから。 「もしかしたら…」 「もしかしたら?」 「葵を見に来るとか」 「かまいませんよ。見るだけなら」 悟はそう言って胸を張った。 「葵は僕たち兄弟の中でも1番能力のある子ですからね。興味を持たれても当然です」 これでもかというくらい、自信満々である。 「やはり目的は…」 悟は追いつめた顧問の目を見てニヤッと笑った。 「昇でしょう」 昇の何が目的なのか…は、皆目わからないけれど。 ☆ .。.:*・゜ …と、あの時はかなり安易に考えていたのだが、やって来た当事者の様子を見て、悟は考えを改めていた。 だが、直人の心配は杞憂だろうと思っている。 たとえ昇との仲に横やりがはいろうと、香奈子が認めている以上、シャロン・ギュームに出せる口はない。 むしろ今では、昇自身に何かのアプローチがあるのではないだろうかと言う気がしてならない。 ――とにかく、注意に越したことはない。 悟は漸く辿り着いた携帯ショップで、小さくため息をついた。 店頭での昇の迷いっぷりは見事なものだった。 『卒業したら、すぐに携帯買おう』と言っていた時には、『これかこれ、どっちかにする』と決めていたはずなのに、とにかく今は、『本当に買う気があるのか』と思えるほど、片っ端から違う機種を手にとって『遊んで』いる。 春休みを迎えて店内はそれなりに混んでいるから、本当はこんなお客は迷惑に違いないのだが、昇の――いや、昇だけでなく悟も守も、なのだが――人目を引く容姿が女性店員を釘付けにしてしまい、昇1人に店員が4人ほどぶら下がっている有様だ。 当然、店内に入ってきた時は悟も守も同じような状況だったのだが、2人はさっさと機種を決めてしまい、手続きもあっと言う間に終わってしまったので店員としても構いようがないのだ。 「昇のヤツ、相当キてんな」 守がボソッと呟く。 こちらもある程度は疲れてきているようだ。 いや、疲れていると言うよりは、この店内に『飽きて』いるのだろう。 「そうだな…」 返事をしてから、悟は手にしたばかりの携帯を開いた。 やはり最初の連絡は、自宅になりそうだ。 「母さんに聞いてみるよ」 「ああ、そうしてくれ。俺、腹減った」 待合い用の小さなテーブルに頬杖をついて、守がため息を落とす。 その姿がまた、店内の女性陣を釘付けにしているのだが、この状況ではそれを楽しむ余裕もない。 隣で悟がぼそぼそと何事かを話していたが、『わかった』というと、携帯を閉じ、昇を呼んだ。 「昇」 「…あ? なに?」 「もう帰れるからさっさと決めろ」 「え? ほんと?! じゃ、これにする〜」 やはり決まっていたのだ。 悟と守は顔を見合わせて、またため息をついた。 ☆ .。.:*・゜ 悟の携帯が鳴った。 この着信音は、葵だ。 携帯を買ったその夜。 修学旅行の宿泊先から電話をしてきた葵に、携帯を買ったと言うと、葵は早速翌日の電話から悟の携帯へとかけてくるようになった。 「もしもし」 設定したこの着信音が初めて鳴ったということは、葵は無事に学校へ戻ったのだろう。 だがそれにしても、メモリーの1番に葵の名前を入れるのは当然としても、その番号が寮の番号では何とも頼りない話だ。 かけたところで即、葵に繋がるわけではないのだから。 『あ、悟ー。今ね、学校に着いた』 「おかえり」 『ただいま』 「これから部屋替えだろう?」 新高校3年生は、修学旅行から学校へと戻った後、寮の部屋替えを済ませてから帰省する事になっている。 『うん。でも荷物少ないから、部屋替えは1時間くらいで終わると思うんだけど、その後ちょっとミーティングがあるから、3時間くらいかな』 「じゃあ、それくらいのつもりで行くよ」 『え? 悟も来てくれるの?』 「当たり前だろう」 当然のように香奈子は車で葵を迎えに行く算段をしていて、もちろん悟もそれについて行くつもりではいたのだが、できることならさっさと免許を取って、自分自身がいつでも動けるようにしていたい。 夏休みまでにはそのつもりでいるのだが、きっと昇と守もそのつもりで、また誰が一番に免許を取得できるかで競争になってしまいそうな気がする。 まあ、今までもそのおかげで随分と『がんばる』という事をやってきたとは思うのだが。 「僕が行くまでちゃんと校内で待ってるんだよ」 『うん、わかった!』 寮から電話を掛けているのだから、そう長くは話せないとわかっているし、何よりあと3時間ほどで会えるのだから…と思うのだが、もう少し声を聞いていたいなと思うのは、相手が恋人である以上、致し方ないことだろう。 それでも無理をして通話を切ろうとしたとき、葵があたりを憚るような声で聞いてきた。 『あの…』 「何? どうかした?」 不安そうな声に聞こえて、思わず携帯を握りしめてしまった。 『あの人、もう来てるんだよねえ…』 誰と言わなくともすぐわかった。 直人から共演者を知らされた時。 目を瞠り、一瞬だけ見せた不安そうな葵の顔が悟の脳裏を過ぎる。 「…ああ、来日してるよ。うちまでやって来た」 『え、ほんと?』 「驚いたけどな」 悟の言葉に、ほんの少し沈黙した葵だったが、やがて今度はもっと深刻そうな声でたずねてきた。 『昇は…大丈夫?』 険悪ではないけれど良好とも言えない関係は葵も知っているが、シャロンが日本語を話したことで昇が酷く不安定になっていることは、帰ってからゆっくりを話そうと考え、悟はわざとらしくない程度に明るい声を出した。 「ああ、大丈夫だよ。光安先生も今日中には来てくれるようだから」 『そっか! 先生がいたら大丈夫だよね』 直人の名を聞き、よほど安心したのだろう。葵らしい明るい声に戻った。 『そうそう。藤原くんね、2位だったんだって。さっき、先生から祐介に電話があったんだ』 そう言えば昨夜、悟にも電話があったがコンクールの話は出なかった。 その時は昇のことで精一杯になってしまったのと、聞かなくとも楽勝でファイナルには残っただろうと思っていたから。それに…。 「なんだ、だめだったのか」 てっきり優勝するだろうと思いこんでいた。 『んー、やっぱりそう思うよね。祐介もそう言ってた。僕たちも、優勝できると思ってたからちょっとびっくり。藤原くん、ちょっとアピールが弱いところあるからねえ』 「そのあたりが藤原のこれからの課題だな」 『うん、そうなんだ。そういうことも含めて、ミーティングで話そうって……あ! ごめん、呼ばれてるから、切るね』 「わかった。じゃあ、後で」 『うん、後で! 気をつけて来てね』 プツッ…とラインが切れる音を確認して、悟も携帯の通話終了を押し、少しばかりため息をついた。 昨夜、直人から悟にかかった電話は、案の定、昇を心配するものだった。 昇も毎夜、直人の携帯に連絡を入れていたようなのだが、やはり、不安定な様子はしっかり伝わっていたのだ。 『本人は何にもないけど…って、しらばっくれるんだけどな』 特にテンションが高いわけでも低いわけでもないけれど、何かにつけて、どこか緩慢な様子の昇に、疲れでもだしているのかと聞いてみれば『元気』だと言うし、『何かあったのか』と聞けば『心配性だなあ』と笑うのだけれど、直人にはどうしても気になったのだ。 だからこそ、番号を聞いたばかりの悟の携帯に電話を寄越してきたのだが。 『シャロン・ギュームが来たと思うんだが』 原因にも当然気がついていたというわけだ。 だが、昇にそれを追求しても無駄だと判断し、悟に聞こうと思ったと、直人は率直に告げた。 そんな直人に悟は、シャロンが現れた日のことを打ち明けた。 直人にとっても、シャロンが日本語を流暢に話すなどとは初耳だったようで、『どうして今まで…』と呟いたが、ここでそれを言っても仕方がないと思ったのか、口を噤んだ。 「昇にしてみれば、18年も経って、何を今さら…という感じなんだと思うんです」 あの夜、守が悟に言った言葉は、言い得て妙…ではあったが、笑えるわけはなかった。 『エイリアンが、いきなり地球人の着ぐるみ被って親しげに近寄ってきたようなもんだよな』 悟がシャロンにあったのは、ごく幼い時期の2回ほどしかないからまったく覚えていなかったのだが、守と昇は一緒に『生母詣で』に連れて行かれていたため、物心ついてからでも、何度もシャロンに接している。 それだけに、その身勝手な変貌が腹立たしいのだろう。 「守も、『あれだけ徹底して自分から距離開けといて、今さらお友達になりましょ…はない』って、腹を立てていました」 考えてみれば、葵が不在でよかった。 あの、なんとも言えず、気まずい空気の中になど、一刻でも置いておきたくはないから。 電話の向こうで、直人がため息をついた。 『…お前たちの言うとおりだろうな。 今までの昇は、意志の疎通がない中でもそれなりにシャロン・ギュームという人間を認識してはいたんだろう。だがそれが18年も経って、今さら意志の疎通を図ろうと近寄って来られても、昇は困惑するばかりだ…』 本当は、昇の元に飛んできたいのだろう。 だが彼には今、教師としての大切な役目がある。 『明日、夜には戻れると思う。東京についたら、真っ直ぐそちらへ向かうから、香奈子先生にもよろしく言っておいてくれ』 「わかりました。お待ちしています」 『悟…』 「はい」 『言うまでもないんだろうが…昇のこと、頼むな』 それでも言わずにはいられなかった、直人の心情を思い、悟は力強く応えた。 「もちろんです。ご心配なく」 電話の後、悟はベッドに身を投げて、暫く天井を見つめていた。 直人に応えた返事はもちろん本気の言葉で、守共々、全力で昇の盾になるつもりではいる。 だが。 『でもさ、ほんとに『お友達になりましょ』で、済むならまだしも、何か他の魂胆があるとしたらヤバイよな』 その魂胆の正体がわからないでは、手の打ちようがない。 そして、守のその言葉は、昨秋、彼自身が『大人の身勝手な魂胆』に翻弄されたことから、警戒心も並みではない様子で、悟の胸が痛んだ。 確かに、あんな辛い思いを、今度は昇が…なんて、とんでもない話だ。 『この春休み中、センセんちにでも軟禁してもらうか』 あははと笑った守にも、『昇には先生がついている』という心強さはあるのだろう。 それに、何と言っても母がいてくれる。 だからきっと、大丈夫。 そして、悟はやはり願うのだ。 できることなら、シャロンの目的が『魂胆』などではなく、昇への愛情に裏打ちされたものでありますように…と。 |
【3】へ続く |
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