Op.3
幕間 「ララバイ」
【3】
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昨夜、葵を連れて桐生家に帰った時には、すでに直人が到着していた。 葵にも、帰りの車の中でだいたいのことを説明してはおいたが、和やかな夕食の席上では、誰1人としてシャロンの事は口にしなかった。 しかも、今日は葵の誕生日。 住み込みで働いている佳代子も加わって賑やかに食卓を囲んだ。 葵は修学旅行中の珍事件の数々を披露して笑いを取り、直人は彰久のコンクールでの様子や出来映えを報告してくれて、全員が真剣な様子で聴き入り、守は買ったばかりの携帯のメモリがすでに一杯だと言って周囲を呆れさせ、悟はいつものように穏やかな笑顔で相づちを打っていたが、いつのまにか人参を自分の皿に移していた葵に教育的指導をし、戻ってきた人参を前に涙目の葵を香奈子が宥める――結局は食べさせるのだが――という、『会話の絶えない』桐生家の『日常』だった。 昇だけは、いつもより口数が少なかったのだが、それでも食欲が落ちている様子ではなかったので、一同は密かに安堵していた。 そして、食後には香奈子と佳代子の合作バースデーケーキも登場して、夜遅くまで笑い声が絶えることはなかった。 明日、葵との『合わせ』のため、シャロンがまたここを訪れる。 けれど、そんなことは忘れたかのように、みんな、笑っていた。 ☆ .。.:*・゜ 翌朝、予定通り桐生家の香奈子のレッスン室にハープが搬入され、シャロンがやってきた。 「はじめまして、シャロン・ギュームです」 にこやかに差し出された手を、葵は少し緊張しながらそっと握った。 「はじめまして、奈月葵です。この度はお世話になります。よろしくお願いいたします」 「いいえ、こちらこそ、強引に共演をお願いしてしまって申し訳なかったわ。あなたと演奏できるの、楽しみにしてきたの。よろしくね」 初めて会った、『昇を産んだ人』は、想像よりずっと可愛らしくて優しい感じの人だと葵は思った。 そして、一見にこやかに挨拶を交わす2人を、香奈子や直人、そして悟と守が見守っている。 昇は、1人でこっそりとレッスン室を抜け出していた。 本当は、みんなと一緒に練習を見るつもりでいたのだ。 今のシャロンは葵の共演者であるのだから、葵の兄としてはそれ相応の対応が必要だと自覚していたし、少なくとも自分のせいで葵がやりにくいことになったりしないようにしなくてはいけない。 けれど、我慢しなければと思えば思うほど、苛立ちが身体を締め付けて、気分まで悪くなってきて、どうしようもなくなった。 だから、こっそり抜けて自室へ戻ってしまったのだが、皆気がついていて、見逃してくれたような気がする。 ぼんやりとベッドに横たわり、窓の外に広がる青空を眺めてみる。 しかし、知らず漏れるため息が嫌で、何かをしようと思うのだけれど、何をする気も起こらない。 ヴァイオリンをケースから出してみたけれど、チューニングの段階で、あまりに気のない音が出ることに嫌気がさし、5分で片づけてしまった。 仕方ないので、携帯電話をいじくってみる。 そう言えば、TVの機能はまだ試していない。 こんな小さな画面でTVを見る気はなかったのだが、音大へ行った先輩が、『普段は見ないけど、リハーサル待ちの時間つぶしとかにはもってこいだぜ』…と言っていたから、TVのついた機種にしたのだ。 面倒くさいので、取り扱い説明書もなしに、適当に弄ってみる。 そうこうしているうちに画面に映ったのは、あまり興味のない科学番組で、なにやら『遺伝』をテーマにしているようだった。 ――つまんないの。 そう思って消そうと思ったとき。 『金髪碧眼というのは劣性遺伝なので、黒髪黒い瞳との混血の場合に現れる確率は限りなく低くなります』 少し聞き取り難かったが、画面の中の男性はそう言ったようだ。 ――……え? 『確率は限りなく低くなります』 自分は、生物学的には『黒髪黒い瞳の有色人種』と『金髪碧眼の白人』との混血だ。 だが、完璧とは言えないが、それなりに金髪で、瞳は碧い。 みんなと同じ『黒』だったらよかったのにと何度も思ったし、それが無理ならせめて守くらいに茶色くなりたい…そうも思った。 なのに、自分はよりによって、その『限りなく低い可能性』で現れたと言うのか。 しかし、続くナレーションは、昇を愕然とさせた。 『しかも、有色の側に『金髪』や『碧眼』の因子がなければ現れません。さらに、条件が揃ったとしても、『金髪』と『碧眼』の両方が現れる可能性は、限りなくゼロに近いもので…』 ――どういう…こと…? 父は髪も瞳も黒い。生粋の日本人のはずだ。 十代の前半で両親を亡くし、少ない親戚とも遠い縁だったため、あちらの血縁の話は聞いたことがないが、どちらにしろ、父は何処からみても『日本人』……広義に捉えても『東洋人』だ。『金髪』や『碧眼』の因子を有しているはずはない。 TVだけでなく、携帯の電源も落として、昇は呆然とベッドの上に座り込んでいた。 『可能性が低い』どころの話ではなく、自分は本当は黒か茶色でなくてはいけないのではないか。 どれくらい呆然としていたのか、小さなノックの音がした。 静かに開いた扉を、昇はぼんやりと見つめる。 「昇…」 入ってきたのは直人だった。 「…練習は?」 「終わったよ。彼女も帰った。次は4日後で、あとはもう現地の合わせだけだ」 「…そう」 直人が昇の隣に腰を下ろした。 「大丈夫か? 昇。顔色が悪い」 覗き込んで表情を曇らせる。 「…うん」 「暫くうちへ来い。葵の演奏会にも一緒に行こう。香奈子先生の許可ももらったから」 「…ほんとに?」 ぼんやり見上げると、『ああ』…と、優しい笑顔が返ってくる。 「ただな、これから一度学校へ顔をださなくてはいけないんだ。用が終わり次第、迎えに来るから…」 「一緒に行く!」 いきなりしがみつかれて直人が面食らった。 「昇…」 「ついてくっ、一緒に行くっ」 「けれど、かなり待たなきゃいけないぞ?」 「大丈夫だからっ」 その必死な様子に直人は、やはりかなり揺らいでいる様子を見て取り、『わかった』とまた抱き締め直した。 兄弟たちは、随分と心配そうにしていたが、それでも直人の側が一番いいだろうと送り出してくれた。 葵は、せっかく帰ってきたというのに、入れ替わりに昇がいなくなることをかなり残念そうにしていたが、それでも自分の演奏会のためにシャロンがやってきてしまったのだからと我慢をしている様子で、悟はそんな葵の肩をそっと抱き寄せた。 ☆ .。.:*・゜ 「ね、直人…」 「どうした?」 助手席で、少し俯いたまま、昇が小さく呟いた。 「学校の用事、どれくらいかかる?」 「そうだな…2時間もあれば大丈夫だと思うんだが…」 「じゃあ、ここで下ろして」 「昇?」 いきなり何を言い出すのかと慌ててみれば、昇はすでにシートベルトに手を掛けている。 「こら、昇。ちゃんと止まるまで外すんじゃない」 急ぎ直人は止められそうな場所を探し、車を路肩に寄せた。 「どうしたんだ、急に」 「もう携帯持ってるから、どこでも連絡つくし」 「あのな、そういうことじゃなくて」 「ちょっと用事を思い出したんだ」 「何の?」 「ええと、買い物」 確かに、ここから少し歩けばそこは東京でも屈指の繁華街で、大手のデパートや高級シティホテルがいくつか並び、若い子が喜びそうな流行の店も多い。 「明日ではだめなのか?」 明日ならつき合ってやれるぞ…と続けたが、昇は『今がいい』と言い張った。 それに、『直人が用事をしてる間の暇つぶしにもなるし』と言われてしまえば、それ以上引き留めることも難しいだろう。 「じゃあ、終わり次第電話するからな」 「うん」 「気をつけるんだぞ」 「うん、わかってる」 「知らないヤツについていくんじゃないぞ」 「…あのね、いくつだと思ってるの」 「昇にその気がなくても、相手が…」 「あのさ、ここ、あんまり長いこと止めてたらまずいんじゃない?」 自分が止めてと言ったことを棚に上げて、昇はシートベルトを外した。 「…ごめんね。いつも我が儘ばっかりで…」 「昇?」 いつにない物言いをした昇を不審に思った時には、昇はすでに車外へ出ていて、小さく手を振るとあっと言う間に走っていってしまった。 ここで追い掛けていれば…と、後々直人は思うのだが、後悔は、後からするから『後悔』というのだと気付くのも、また後々のことであった。 ☆ .。.:*・゜ 後ろも見ずに走った後、昇は外資系の大手ホテルの前にいた。 興味はまったくなかったのだが、香奈子の言葉のどこかに出てきたホテルの名をぼんやり覚えていたのだ。 昇は一つ深呼吸をすると、意を決してフロントに向かった。 そして、滞在しているであろうフランス人の名を告げて、取り次いでもらうように頼んだ。 不在ならば、帰ってくるのをロビーで待つつもりで。 しかし、その必要はなかった。 「お部屋にお通しするようにとのことです。ご案内いたしますので、少々お待ち下さい」 そう言われて、部屋番号を教えてもらえれば1人で行けると言ったのだが、彼女が宿泊している部屋は特別なフロアにあるらしく、案内が必要だと言われてしかたなく従った。 「昇!」 やって来た昇を、シャロンは大喜びで迎え入れた。 「来てくれたのね…」 心なしか瞳が潤んでいるようにも見えるが、錯覚かもしれないと、昇はぼんやりと考える。 とにかく確かめなくてはいけないことがあるのだ。 自分という存在の、根幹を。 「どうぞ、座って。何か飲む? あ、お腹は空いていない? ここはね、ルームサービスにないメニューでもオーダーすれば持ってきてくれるのよ。昇は何が好き?」 「…なっとー」 「…え?」 日本的スラングな発音だったため聞き取れなかったのか、聞きたくない単語だったのかはわからないが、シャロンは聞き返してきて少し首を傾げた。 「…悪いけど、お腹も空いてないし喉も渇いてない。それより聞きたいことがある」 「何…かしら?」 遊びましょ…と訪ねてきてくれたわけではないことくらいシャロンにも気付いてはいたが、昨日よりさらに数段表情の暗い昇に、シャロンの声も小さくなる。 「遺伝って知ってる?」 「…遺伝?」 予想外の言葉に思わず聞き返したが、質問の意図がつかめない。 「…血液のこと…くらいはね。あなたはB型で、私もB型よ? でも、それがどうしたの?」 血液型を引き合いに出すまでもなく、昇とシャロンには似ているところが多い。 それは色だけではなく、柔らかい顔の骨格や、どこか少女めいた表情をすることにも現れているのだが。 「黒髪黒瞳と金髪碧眼の混血には、金髪碧眼は生まれないって聞いた」 「…え?」 「僕は、完璧な金髪碧眼とは言えないけど、少なくとも、どこにも『黒』はない。これって、どう言うこと?」 「昇……」 シャロンが目を瞠った。 それは、何に驚いたからなのか。 「どうして僕の髪はこんな色してるわけ? 目の色は? 何でっ?」 「昇…それは…」 「教えてよっ」 詰め寄る昇に、シャロンが後ずさる。 そして、喘ぐように、切れ切れに、告げた。 「あ…あなたの、パパ…が、良昭では…ない、から…よ」 瞬間、頭の中が真っ白になった。 視界はブラックアウトしたような気がするが、息はしているらしく、喉から嫌な音がした。 自分の父親は、赤坂良昭ではない。 だから、自分はこんな色をしているというのか。 その時の昇に、『じゃあ、自分は誰の子なんだ』という疑問は浮かばなかった。 「……とうさんの…子、じゃ、ない……」 それはつまり、自分は彼らの兄弟ではないということだ。 片親だけで繋がった兄弟。 奇異の目で見られることなどしょっちゅうだったし、好き勝手なうわさ話を吹聴されたことも数知れない。 あからさまに苛められるのも、よくあることだった。 けれど、そんなものに負けなかったのは、いつも兄弟で力を合わせて立ち向かってきたからだ。 どんな時も一緒だった3人。 そして、葵という可愛い弟も得て、これからは4人で助け合って……。 ――…違う…もう、4人じゃないんだ。 これから『兄弟』と呼ばれるのは、また3人になるのだ。 けれどその中に、自分の姿は……ない。 「昇っ?!」 悲鳴にも似た声が聞こえたが、自分が走り出していることにすら気がついていない昇には、それが何なのかはもう、わからなかった。 |
【4】へ続く |