Op.3
幕間 「ララバイ」
【6】
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宿泊先から姿を消し、連絡の取れなくなっていたシャロンだが、葵との『合わせ』の約束には、時間通りきっちりと桐生家に現れた。 あの騒動の後、昇は改めて直人のマンションへ行こうとしたのだが、葵に『昇も先生もここにいて』とねだられ、その上香奈子にも、『直人くんにとってはここも実家になるわけだから、慣れてもらわないとね』と言われ、2人とも春休みを桐生家で過ごしていた。 だから、玄関で鉢合わせてしまい…。 「なんだ、来たの。てっきりフランスに帰ったかと思ってた」 言葉はきついが、まさか声を掛けてもらえると思っていなかったシャロンは、あからさまに狼狽を見せた。 「そんなとこに突っ立ってないで、上がれば? 合わせに来たんだろ?」 そう言うと、先に立ってリビングへと向かう。 「かあさーん、あおいー! シャロンが来たよー!」 その言葉に、シャロンが目を見開いた。 初めて名を呼ばれた。 『ママ』と呼んでもらえることなど、とっくに諦めていたけれど、名前を呼んでもらえる日がくるとも思っていなかった。 しかも、あんなことをしてしまったと言うのに。 視界がぼやけてきた。目が熱い。 「…シャロンさん?!」 葵が駆けてきて、狼狽える。 「あら、どうしたの? シャロン」 香奈子もやってきて、慌てている。 「昇が…名前を…名前を呼んでくれたの……」 泣きじゃくるシャロンを、悟と守は階段の踊り場から、そして離れたところで昇が、直人に肩を抱かれて見つめていた。 ☆ .。.:*・゜ 「本当にごめんなさい。昇にも…それからみなさんにも迷惑をかけたわ…」 シャロンが初めてやって来た日と同じように、リビングに全員が揃った。 そして、やはり同じように、ティーカップを手に、少し伏し目がちに話を始める。 昇と香奈子の関係が羨ましくて、自分がしてきたことが酷く悔やまれて、苦悩していたところへ昇に遺伝のことを問われ、咄嗟に嘘をついてしまったのだと。 「もしかしたら、私の元へ来てくれるかもしれない…って、思ってしまったの。こんな嘘、すぐばれてしまうのにね…」 香奈子か良昭、どちらか1人に知れただけで、この嘘はあっけなくばれてしまうのだから。 「本当はね、逃げて帰りたい気持ちだったの…。でもその事を良昭に言ったら、『ここで逃げ帰ったら、君は音楽家としても彼らに顔向けができなくなるんじゃないか』って言われて…」 『僕は、親としては失格だけれど、せめて音楽家としては、彼らに恥じない人間でいたいと思っているんだ』 良昭のその真摯な言葉は、シャロンの胸を打った。 自分も良昭も、ずっと逃げてきたけれど、良昭は先に向き合ったのだ。 彼らと。 ならば自分も、努力をしなくてはいけない。 シャロンの言葉に香奈子が頷いた。 良昭から連絡があったのだが、兄弟たちが自分たちで乗り切ったと聞いて、とてもホッとしていたと。 「昇だけじゃなく、兄弟みんなを傷つけたこと、本当に申し訳なくて…」 ふと、伏せられていた瞳が葵に向けられた。 「葵…。こんな私とは、もうやってくれないかしら…」 「いいえ、とんでもないです。僕の方こそ、まだまだ未熟なのに世界の第一人者とご一緒させていただけるなんて、光栄です。がんばりますので、よろしくご指導下さい」 ニコッと笑って100点満点の受け答えをする葵を、香奈子が嬉しそうに見つめている。 確かに、シャロンとの共演は葵にとって、とてもプラスになるだろう。 「一つ聞いてもいい?」 昇が口を開いた。 その口調に、親しさは感じられないが、刺々しさも、もうない。 「どうして日本語話さなかったの?」 そう。それがどうしても引っかかっていた。 他のことは、良いか悪いかは別にして、納得した。 けれど、こればかりはどうしてなのか、想像がつかない。 シャロンは、今度は昇を真っ直ぐに見つめる。 「一度だけね、あなたを抱いて、子守歌を歌ったことがあるの。 香奈子に教えてもらった日本の古い子守歌だったのだけれど、あなたは泣くばかりで全然寝てくれなくて、歌うのをやめると泣きやんで…。それから、私はあなたの前で日本語を話せなくなってしまったの」 今回、意を決して日本語で話したのは、この来日が一応『演奏会』という仕事のためで、葵や指揮者、オケとの意志疎通には、やはり通訳を介さない方がいいに決まっているからだと付け加えた。 シャロンの説明に、昇が半ば呆れている。 ――なんだ…それだけのこと…っていうか、それって単に歌がヘタクソだっただけなんじゃ…。 …と、思ってしまっては、この人が可哀相なのだろうか。 いや、でもそんなことは自分の所為では…。 「ごめんなさい。何もかも、あなたの所為ではないのに…」 急に、胸が軽くなった。 「…いいよ、もう、別に」 そのことに戸惑った所為か、ついぶっきらぼうに言ってしまった。 シャロンが寂しげに笑う。 「許して…と言ったら、やっぱり迷惑かしら…」 「許すとか許さないとか、そんなんじゃないよ」 恨んでいないのだから、『許す』という言葉は相応しくない。 自分はずっと、香奈子と兄弟の元で、幸せだったのだから。 「じゃあ…」 「もともと僕には桐生香奈子って言うお母さんしかいないってこと」 シャロンが選んだ『昇を手放す』という道は正しかったのだ。 「昇…」 「でもね、生んでくれたことには感謝してるし、あなたのことは先輩として尊敬できると思う」 シャロンが目を瞬かせた。 「僕もいずれ音楽の世界で生きていく。その時、僕はきっとあなたを尊敬すると思う。世界のトップを走ってきたあなたのことを」 言い切った昇を、直人が満足そうに見つめている。 少しずつ大人になっていく愛しい子。 できることなら、これから先も、急がずゆっくり大人になっていって欲しい。 「それにしてもさ、今回のコンチェルト、若手ハーピストの仕事ぶんどったんだろ? ちょっと可哀相なんじゃないの」 守がやはり、タメ口で言うが、こちらももう刺々しさはない。どちらかというとフレンドリーな感じすらある。 「あら、誰もただでとったわけじゃないのよ」 シャロンが笑った。控えめながら。 「へえ、どう言うこと?」 「向こう一年間のフランス留学と引き替えたのよ。学費はもちろん、往復の交通費と音楽院の寮費も込み。もちろんシャロン・ギュームのレッスン付き。泣いて喜んでたわよ、彼女」 ――そりゃそうかもしれない…。 そこにいた全員がそう思った。 「でもさ、そんなにしてまでってのも呆れるけど」 昇がちらりと見る。 「そうね。…でもね、一度でいいからあなたの側で過ごしてみたかったのよ」 素直にそう言われ、昇の口がへの字に曲がった。 ――…あ、昇ってば、照れてる。可愛い〜。 そう思って葵が悟を見上げると、悟もまた気がついていたようで、昇にわからないように、ふたりしてこっそりと笑い合った。 そして、シャロンはもうひとつ、告白をした。 自分の父――昇の祖父にあたる人間が、東洋人を嫌悪するわけを。 なんと彼は、若き日に日本の女性に恋をして、手ひどく振られたというのだ。 それ以来の東洋人嫌い…という呆れた結末に、昇は声を出して笑ってしまったのだった。 それから暫く話をして、香奈子と悟が楽章ごとに交代で練習ピアニストをつとめて、葵とシャロンの練習が始まった。 熱のこもった演奏に、昇・守はもちろん、直人も引き込まれる。 合奏の、ふとした隙間に葵は思った。 色々な人たちの、血や遺伝子だけではなく、想いまでもひっくるめて、自分たちの命はずっと昔から受け継がれてきたものなのだ…と。 それらすべてを大切にしながら、自分は生きて行くのだ…と。 |
【7】へ続く |