Op.3
幕間 「ララバイ」

【7】





 3月末日。演奏会本番がやってきた。

 前々日に現地入りして、前日に初めてのオケ合わせ。
 そして当日は朝から軽いリハーサルをこなし、あとは本番を待つばかり。

 東京からここまでは、シャロンも同行して、随分昇ともうち解けた。

 守などは、すでに『ダチ』状態だ。





「守、セシリアとはどうなの?」

 シャロンとセシリアは10代の頃からのライバル同士で、未だに仲はあまりよくないらしい。

「あのオバサンしつこくてさー。遊びに来いだとかバカンスに行かないかだとかうるさいったらないんだ。なんとかなんねーかなあ」

 あんたとつるむ気はない…と、何度はっきり告げようが、セシリアは平然とアタックしてくる。

 さすがに『アメリカオペラ界の女帝』と言われるだけのことはある…といったところか。

 本人は『あと1〜2年で世界の女帝になってみせるわ』と豪語して憚らないが。


「バカンスくらい、行ってあげればいいのに。プライス家は世界中に別荘を持っているから何処でも好きなところを選び放題よ。ただし、どの別荘も成金趣味丸出しだけど」

 言葉の端に、ちらりと『フランスの旧家vsアメリカの新興財閥』の確執が見え隠れする。

 これも、2人の仲の悪さの一因だ…というのは、最近になって父から聞いた話だ。


「やなこった。別荘にも金持ちにも興味ねえよ」

 守の言葉に、シャロンは『頼もしいわね』と笑う。

「でも、とって喰われるわけでもないのに」

「いーや、あのオバサンは絶対とって食う。自分でも言ってるぜ、若い子と遊んで精気を吸い取るんだって」

 隣から昇が茶々を入れてきた。

「守、ちょっとくらい吸い取って貰えば? 余ってんじゃん、いろいろと」

「おい。聞き捨てならないな。色々ってなんだよ」

「いろいろって言ったら、いろいろじゃん」

「なんだと〜」

 いつもの兄弟のじゃれ合いだが、慣れてないシャロンは兄弟喧嘩かと、少しオロオロしている。

「こら、あなたたち、何じゃれてるの。そろそろ客席に行きなさい」

 しっしっ…と追い払う香奈子はさすがに慣れたものだ。


「…さすがね、香奈子…」

「そりゃそうよ。3ヶ月違いの男の子3人を育てるなんて、動物園の飼育係と一緒よ? 小学校に上がるまでは猛獣使いの気分だったし、それから後は猿山で小猿を育ててるようなものだったわねえ。なまじ知恵がついてくるから大変だったわよ?」

 2人、顔を見合わせて笑う。


「…でも、3人とも素敵な男の子になったわ…」

「きっと、『種』じゃなくて、『畑』がいいのよ」

 さりげなく良昭をオチに使ってみると、シャロンは爆笑した。

 そして、ふと表情を変える。

「葵のお母さんは、どんな人だったの? 良昭に聞いても、教えてくれないのよ。もう亡くなった…というのは聞いたんだけど…」

「…そうね。あと少し早くわかっていたら…って何度も思ったわ…」

 今さら言っても詮無いことだが、1年足らずとは言え、葵を両親のない天涯孤独に追いやったことは、悔やまれてならない。


「悟がね、小学生の頃に一度だけ葵のお母さんに会っているのよ」

「…本当に?」

「ええ。写真もあるから、東京に帰ったら見せてあげるわ。とても綺麗な人よ」

 ついでにばっちり保存してある葵のCMも見せちゃおう…と、香奈子は内心で画策する。もちろん葵には内緒だが。


「それでね、悟に『どんな人だった?』って聞いたら、『こんな人をお嫁さんにしたいな…って思うような人だった』…って」

「…やっぱり、『畑』がよかったのね」

「違いないわ」

 またまた大爆笑になったのだが、そんな賑やかな楽屋の前を、笑い声に気圧されて、ノックできないままに通り過ぎた人物――別名『種まき職人』――が約1名…。



                   ☆ .。.:*・゜ 



「マエストロ…大丈夫ですか?」

 開演10分前。

 改めて『よろしくお願いします』と挨拶に指揮者の楽屋を訪れてみれば、そこいたのは青ざめた若きマエストロだった。

 大学の指揮科を出て7年目。
 漸く安定して仕事が入ってくるようになったんだ…と、初顔合わせの時に笑っていたマエストロは、人懐こくて、優しい感じのお兄さん…だったのだが。


「あ、ああ、大丈夫だよ、葵くん」

 だが、声は震えている。

 昨年暮れ、ハーピストが突然変更になったと聞き、何があったのかと思っていれば、やってくるのはなんと、世界の第一人者『シャロン・ギューム』。

 それだけでも寝られないほどの緊張をもたらしてくれていたのだが、今年になって入ってきた情報は、フルートを演奏する坊やが、あの『赤坂良昭』の息子だと言うではないか。

 国内の…いや、世界中の駆け出し指揮者の憧れとも言うべきマエストロ・赤坂は、彼にとっても一度は教えを乞いたいと切に願う存在で…。

 とんでもないプレッシャーだったが、ここで失敗するわけにいかない。

 ここで上手くやれば、自分の未来も明るいかも知れないと、若きマエストロは腹を括ったのだった。

 ところが。今からほんの少し前。

 出演者用のラウンジで、いつものように、開演前の緊張を宥める一服を燻らせている時に通りかかったのは、主催者であるジュニアコンクール事務局の事務局長だった。

「あ、マエストロ。ここにいらしたんですか」

「…何かありましたか?」

「や、実は会場に赤坂先生がお見えで…」

「…は?」

「マエストロには、後ほどご挨拶に伺います…と」

「…へ?」

 だれが、だれに、挨拶に?

「ええ…と、確か赤坂先生って、一昨日ベルギーの音楽祭で指揮を…」

 調べたのだ、偉大なるマエストロ・赤坂のスケジュールを。

 腹は括ったが、これ以上のプレッシャーは心臓に悪いから、せめて本人がここへは現れないという確証が欲しくて。

「そうなんですよ。桐生先生にも、赤坂先生がお見えになるかどうかお尋ねしてたんですが、前々日がベルギーなので、間に合わないと思う…と仰ってたんですよ。ただ、万一のために、席だけ確保はしてたんですが…」

 とんぼ返りで聞きに来られたみたいですよ。いやー、聞きしにまさる溺愛ですねー…と、事務局長は感心しきり。

 彼にしてみれば、シャロン・ギュームは来るわ、赤坂良昭は来るわ…で、コンクールに箔がついてご満悦…と言ったところなのだろうが。


 そうだった…。
 一目惚れしてしまった可愛い可愛い葵くんは、赤坂良昭の、今や業界でも有名な、溺愛の末っ子だったのだ…。

「…マエストロ? 顔色が…」



                   ☆ .。.:*・゜



「お父さん、来られたんだって?」

 やっぱりマエストロの声は震えている。

 葵はもちろん、その緊張の意味をしっかり捉えていて、『大丈夫ですよ。とって食われるわけじゃなし』と笑って見せた。

 この際、とって食われた方がマシのような気もするが、ともかくその愛らしい笑顔に見惚れ、癒されて、若きマエストロはどうにかこうにか笑顔を取り戻し、やがて予ベルが鳴り響いた。



                   ☆ .。.:*・゜



 終演後の楽屋はいつも騒がしい。
 特に今回は、オーケストラが入っているから、人数も多い。

 そんな中、どうにか及第点の指揮をおさめて、若きマエストロはホッと肩の荷を降ろしていた。

 何より嬉しかったのは、本当にあの『マエストロ・赤坂』が楽屋まで訪ねてきてくれて、『息子がお世話になりました』という礼の他に、『清々しい若さに溢れた大変頼もしい演奏でした』と誉めてくれたことだ。

 普通こういうエライ人は、評価に値しないと思えば何も言わない。
 ただ、『お疲れさま』としか。

 しかもシャロン・ギュームも、『またぜひご一緒したいわ』と言ってくれたのだ。ならばきっと本当に及第点だったのだろう。

 それに気をよくして、憧れのマエストロに思い切ってレッスンを申し込んでみれば、『事務所に連絡してもらえれば、スケジュールの調整ができますから』…と言って、事務所の名刺をくれたのだ。

 社交辞令の場合は、『連絡を下されば』というものの、その肝心の連絡先を教えてもらえないことも多いから、これは本気でアタックしてもいいということだ。



「葵くん、本当にありがとうな」

「いいえ、こちらこそ、お世話になりました」

 父親と一緒ではなく、あとから1人で――いや、いついかなる時も側に兄貴が1人張り付いているが――挨拶にやってきた葵に、『君の笑顔をおかげだよ』…と、少々クサイ事を言ってみれば、『とんでもないです』と、妙に慣れた受け答えでさらっと流された…ような気がする。


「…ええとさ」

 だがめげている場合ではない。

「携帯の番号とか、アドレスとか、教えてくれないかなあ」

 まずこれが基本だろう。

 だが。

「マエストロ」

 氷点下の声で呼びかけてきたのは、張り付いている兄貴――赤坂良昭氏の長男――だ。


「申しわけありませんが、葵の学校は携帯電話の持ち込みが禁止されていますので、葵は携帯を持っておりません。葵に何かご用でしたら、私にご連絡をお願いします」

「…え、あ、そうなの?」

 助けを求めるように葵を見れば、にっこり笑って『はい、兄にお願いします』と、ばっさり斬り落とされた。


 ――この兄貴に連絡ってか〜!


 てっきり指揮科に進学すると思っていた桐生悟。

 そうなったら最大のライバルになる…と思っていたのは、国内の若手指揮者、すべての危惧だったのだが、何故か彼はピアノ科へ進んだ。

 だからといって安心はできないが、ともかく当面の危機は回避できたわけだ。

 だが。

 違う意味で立ちはだかられてしまった。

 去年の秋に公となった、この『奈月葵』というサラブレッドは、父親が溺愛しているというだけでなく、3人の兄貴たちが鉄壁のガードで守っているというのもまた、評判になっているのだ。


 ――仕方ない…この子はまだ高校生だからな。いつか、この世界へ本格的に出てきたら、その時に…。


 と、懲りてない若きマエストロは、『また会おうね』と葵の頭を撫でて、『長男』の氷点下の視線に瞬殺されたのだった。





 その頃、主が不在の葵の楽屋では。

「先生。昇のこと、これからもよろしくお願いします」

 葵にずっと付き添っていた直人に、シャロンがやって来て声を掛けた。

「はい。もちろんです」

 直人は当然、『親と教師』の立場で受け答えしたのだが。

「そうそう、ハネムーンはどちらへ?」

「…は?」

 何のことだと思ってみれば。

「まだ行き先が未定でしたら、フランス旅行なんていかがかしら? 最高のおもてなしでお迎えいたしますわ」

 にっこり笑って直人の右手を握り、ブンブンと振り回す。


「わ、シャロン…」

 開きっぱなしのドアの向こうに、マエストロがいた。

「ま〜! 久しぶりね、良昭!」

 この前はあなたにまで迷惑かけてごめんなさいね〜…と、良昭を引きずって行ってしまう。


 ――いったい、今のは…。

 呆然の直人センセ。

「…なんでばれてるんだ…」

「ふ〜んだ。ハネムーンは温泉って決まってるのっ。だれがフランスなんていくもんかっ」

 いつの間に戻ってきていたのか、昇が背後に立っていた。

「昇は炊き立てのほかほかご飯がないところでは生きていけないもんな」

 笑って昇を抱きしめる。

「そう! しかもジャポニカ種のお米に限るんだからねっ」

「じゃあ、ちょっと暑そうだけど、夏休みのハネムーンは、温泉に決定だな」

「え? じゃあ明後日からの旅行は何?」

「そりゃあ、入籍前なんだから婚前旅行だろう」

「…そっか…」

 さらっと恥ずかしい単語を口にされて、照れる昇が堪らなく可愛い。

「じゃあ、夏はどこ? 何処に行く?」

 尋ねられ、『そうだな、北海道にでも行くか』…と言った後、直人は昇を見つめてニッと笑った。

「ま、どこであろうと露天風呂付きの部屋には違いないけれど」

「う?」

「朝から晩まで、昇を離さないでいいからな」

「も、もしかして明後日からも?」

「当然だろう?」

 ノーブルに見えて、直人センセは結構絶倫なのだ。

 嬉し恥ずかし婚前旅行が、楽しみだけれどちょっぴりコワイ、昇であった。


END

嬉し恥ずかし婚前温泉旅行はこちら〜☆


*【マエストロ】についての豆知識*

「マエストロ」が「巨匠」と言う意味なのは、みなさまよくご存じだと思いますが、
オケでは、ほとんどの場合、指揮者のことを指します。

 そして、面白いのが、どれだけ若手のペーペーでも、
どんな駆け出しでもどんなヘタレでも、
その演奏会で指揮を振る人は敬意をもって「マエストロ」と呼ばれることです。

でも、時々「敬意」ではなく「嫌み」になっちゃうこともあるんですが(笑)

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