Op.3
終幕 「薔薇の騎士」
【2】
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雲一つない快晴。 今日は午前中に悟たちの入学式があった。 僕は留守番してなきゃいけないんだと思ってたんだけど、家族は入れるから…って、一緒に連れてってもらった。 もちろん、今日から昇の家族になる、光安先生も一緒。 悟も昇も守も、まっさらのスーツ姿がすっごく格好良くて、思いっきり見惚れちゃって、佳代子さんに『葵ぼっちゃま、お口が開きっぱなしですよ』って笑われちゃった。 高校のブレザーも、スーツの親戚みたいなもんだし…って思ってたんだけど、全然違うって、悟たちを見て思った。 ブレザーはただ羽織ってるだけでも何とかなるけど、スーツはちゃんと肩で着ないとカッコつかないんだ。 その点、悟と守は申し分なし。 でも昇は華奢だからなあ…って思ってたら、そこはちゃんと香奈子先生が昇の体つきにきちんと合ったものを作ったもんだから、ほんと、どこかの国の王子さまみたいなんだ。 写真撮ったから、こっそりシャロンさんに送っちゃおうっと。 メールアドレス、交換したんだ。 こう言うとき、ほんと、デジカメとメールって便利。 お父さんも昨日の午後にはこっちに来ていて、挨拶をしに大学には行ったんだけど、入学式には出なかった。 学長室のモニターでは見ていたそうなんだけど、とりあえず、息子たちが在籍している間は目立たないようにするつもりらしい。 そんなお父さんは、なんでも『10年以上に渡り、卒業生の海外進出をサポートしてきた功績』により、今回大学から特別な学位を贈られることになったらしいんだけど、『息子たちが全員卒業するまでは…』って辞退した…と、香奈子先生に聞いた。 僕の卒業まで待ってたら、5年も先になっちゃうのに…って言ったら、香奈子先生は、『口実よ』って言うんだ。 『良昭はどのみち、もらうつもりはないのよ。葵が卒業したら、今度はきっと「香奈子が退官するまで」とか言い出すわよ』って笑ってた。 そう言うのをもらうのは、現役を退いて、隠居してからでいいんだって。 そうそう。香奈子先生に聞いてびっくりしたことがもう一つ。 お父さんは、ついに聖陵の理事になることを受けたんだそうだ。 ただし、僕が卒業してから…だけど。 少しでも、僕たち4人を育ててもらった恩返しになれば…って思ったんだって。 学校運営には明るくないので役には立てないけれど、聖陵の一大看板である『管弦楽部』の役には立てるだろうからって。 でも、悟と守が言ってたんたけど、お父さんはああ見えて実は結構やり手な人らしく、音楽祭や新作オペラのプロデュースなんかにも相当手腕を発揮してきたそうだから、案外『第3者的な目』で学校運営全般に意見が言えるんじゃないかな…って。 というわけで。 無事に入学式を終えて、午後はお祝いのパーティ。 佳代子さんの『美味しい準備』も万端だけど、僕らの準備も万端。 きっと今日は、忘れられない一日になるはず。 「葵、そっちの用意OKか?」 「うん、みてみて〜」 「お、綺麗だな」 僕がやってるのは、香奈子先生ご自慢の、薔薇園のアーチ周辺の飾り付け。 ここの大輪の薔薇は、ほとんどが5〜6月咲きの品種だから、まだ花は咲いてないけれど、葉っぱの濃い緑が凄く綺麗。 そんな緑のアーチの下に、現在満開の品種のミニ薔薇の鉢を並べて小さな道を造る。 この道は、リビングのオープンテラスから繋がっていて、ズバリ、『バージンロード』だ。 「ブーケも届いたぞ」 「うわー。綺麗〜」 悟の手には、真っ白な薔薇のブーケとブートニア。 そして、守が小さなガーデンテーブルにレースのテーブルクロスを敷いて、小さな箱を置いた。 中身は昇を飾る、大切なもの。 例の、『フリフリレース屋さん』で見つけてきたものだ。 「なあ、指輪って本当にあるんだろうなあ」 心配そうに聞いてくる守の手には、『リングピロー』という、結婚指輪を飾る小さなクッションがある。 ちなみに、これもレースのフリフリだったりして。 「うん、大丈夫。先生に頼まれて、うたた寝してる昇の指のサイズ計ったの、僕だから」 「え、葵、共犯だったのか?」 「へへっ」 「でも、先生、普段も指輪する気かなあ」 悟がちょっと心配そうに言う。 「昇が止めなきゃ、するんじゃないかなあ」 「なるほどね」 「でも、昇は止めそうだよなあ」 「かも知れないね。きっと、騒がれたくないだろうし」 それと、学校での先生の立場を気遣う意味もあるだろう。 「昇はどうかな」 「あ、あのね、一応ずっと着けてられるように、右手の薬指計った」 「なるほどね。弦楽器奏者ならではの言い訳が聞くわけだ」 「そういうこと」 人にもよるけれど、弦楽器奏者は結婚指輪を右手にする人が多い。 どうしてかというと、左手の薬指の付け根は、楽器本体の『ネック』という部分を擦ってしまうからなんだ。 つまり、楽器に傷がつくってわけ。 その点、右手は指先で弓を持つだけなので、影響は少ないってことなんだ。 そんなわけで、昇にすれば、『右手だからファッションリング』っていう言い訳もできるってことで。 「とりあえず、先生が帰ってきたら、すぐに取り上げてセッティングだな」 「うん。お願い」 そうして、また僕たちは準備に戻る。 いつもは仕切られているリビングとダイニングを広く開け放して、パーティ仕様になった大きなテーブルには佳代子さんの絶品料理が並んでる。 僕のリクエスト、『バケツプリン』はまだ冷蔵庫の中だけど。 あ。もちろん、3段重ねのケーキもある。 ケーキカットしたら、一番上の段、全部もらうんだー。 「…これはまた…」 あ、お父さんだ。大学から帰ってきたんだ。 「随分気合いが入ってるな」 庭の、急ごしらえの『式場』を見て、お父さんが目を丸くしている。 今朝、光安先生は、昇と香奈子先生と一緒にお父さんのマンションに行った。 もちろん『お嬢さんを下さい』って言うためだ。 本当に『お嬢さん』って言ったかどうかは、香奈子先生は『な・い・しょ』って教えてくれなかったんだけど、ともかく、香奈子先生が前もってそれとなくお父さんには話を通していたらしくて、よくあるTVドラマのワンシーンのようなこと――もちろん、修羅場の方――にはならなかったらしい。 でも先生は、『今までの人生で一番緊張した』って言ってた。 そう言う『レアな先生』、見たかったなあ。 「おかえりなさい!」 駆け寄ると、優しい笑顔で『ただいま』って言ってくれる。 「これ、先生と昇は知らないんだろう?」 「もちろん! 昇も先生も、報告だけして終わりにしようと思ってるみたいだけど、そうはいかないんだから」 そう言った僕に、お父さんは『そりゃそうだな』って同意してくれる。 そんなお父さんが、光安先生に一言だけ言ったのは、『先生のご両親はご承知なんでしょうか』…という言葉だった…って、香奈子先生は教えてくれた。 そう言えば、僕も、先生のご両親とか、お姉さん――つまり、涼太のお母さん――が、どう思ってるかって言うのは聞いたことがなかったから、急に心配になったんだけど…。 そのあたりも、すでに大人同士の話し合いがあったらしく、円満に事が運んだらしい。 ただ、最初、先生のお家では『息子が香奈子さんちの大事な坊やをたぶらかした!』って大騒ぎになって、先生のお姉さんが間に入って大変だったらしいんだけど。 お父さんは、昇があちらのご家族にもちゃんと認めてもらって、可愛がってもらえるようでないと困るから…って、心配したらしいんだけど、ちゃんといきさつを聞いてホッとしたみたい。 「葵、そろそろ急いだ方がいいぞ」 守がアーチの下のセッティングを終えてやってきた。 「そうだな、もう帰ってくる頃だな」 式の手順確認をしていた悟が腕時計を見た。 先生と昇は、入学式の帰りに区役所に書類を出しに行ってる。 それがすんだら、真っ直ぐ帰ってくるはずで…。 あ。玄関で音がしたような気が…。 「ただいま〜!」 晴れやかな笑顔で昇が入ってきた。 「おかえり〜!」 みんな口々に『おかえりなさい』と言ってるんだけど、昇の背後では、先生が守に拉致されて、スーツの内ポケットあたりに隠してあるだろう指輪を発見するべく、身体検査をされている。 そして、守は小さな箱を見つけると、『あったぞ!』って、声を出さないで僕たちに合図してきた。 いきなり指輪を取り上げられて慌ててる先生の胸には、悟がすかさず白薔薇のブートニアを飾り…。 やったね。これで本当に準備万端。 あとは、昇の頭にレースを載せて、ブーケを持たせればOK。 本当は、ウェディングドレスも欲しいところだったんだけど。 ちなみにこの家には、香奈子先生のウェディングドレスがちゃんと残っているらしいんだけど、先生は、『あれ、縁起悪いからダメよ』って大笑いしてた。 そうそう、例の『ミニミニ・ドロシー』の格好させようかって話も出たんだけど、守が『あのカッコの頭にレース載せたら、コスプレちっくで妙にエロ臭くならねえ?』って言い出したもんだから、ポシャった。 まあ、先生も嫌がりそうだしね。 だって、聖陵祭の時も、渋い顔してたもん。『スカートが短すぎる』って。 「…あれ、なに?」 室内のご馳走に目を輝かせていた昇が、庭に目を転じて僕に聞いてきた。 緑のアーチへ続く、ミニ薔薇の小道。 アーチの下の、飾られたミニテーブル。 「なんかあるの?」 「うん。一世一代のイベントがね」 後ろから、守が近づいてきた。 そして、昇の頭にふわっとレースのハンカチを被せる。 「…えっ? なになに?」 右手で頭を押さえて振り返った昇の左手に、悟が白薔薇のブーケを握らせる。 何事?!…って顔で手にしたものを見つめた昇が、縋るように先生と見ると、先生の胸にはお揃いの白薔薇。 きょとんとした昇がめちゃくちゃ可愛い。 「それでは、ただいまから光安直人と桐生昇の結婚式を執り行います」 悟が穏やかにそう告げると、先生は観念したようにちょっと照れ笑いを見せたんだけど…。 「え? ええええええええええ!!」 昇の絶叫に、佳代子さんが吹き出した。 「ちょ、ちょっと待ってっ、なんでいきなりっ」 まあまあ…と、僕と守に引きずられて、昇はミニ薔薇の小道の入り口に連行され、香奈子先生が引っ張ってきたお父さんと、腕を組まされる。 「え、ちょっと待った。何も聞いてないんだが」 昇と同じように慌てて、お父さんが香奈子先生を見る。 「何言ってるの。花嫁を旦那様のところまで連れていくのは父親の役目でしょう?」 にっこり笑って引導を渡されて、お父さんは観念したのか、小さな声で昇に『いいのか?』なんて聞いた。 昇はそんなお父さんをチラッと見上げて、『仕方ないじゃん』なんて、口を尖らせてるんだけど、その手はしっかりお父さんの腕を握ってる。 うん、いい感じ。 その間に、悟によって光安先生はアーチの下まで連れて行かれていた。 「やってくれたな、悟」 苦笑しながら言う先生に、悟は『僕たちのご恩返しの一部です』って笑ってみせる。 そう、たくさんの愛情を先生からもらった僕たちの、これは御礼のほんの一部。 これからは、先生も僕たちの家族の一員だから、きっともっと『ご恩返し』ができると思うんだ。 屋外って事で音響はイマイチだけど、そんなことをモノともしない守のチェロが、ワーグナーの結婚行進曲を奏でる中、お父さんと昇が薔薇に囲まれた小道を進み、アーチに到着すると、一礼をして昇を先生に託す。 先生もまた、お父さんに深く頭を下げて、そして昇の手を取った。 昇は白い頬が紅潮していて、いつもの元気印とは違う可愛らしさに溢れてる。 並んで立った2人に、悟が語りかける。 「今日から共に歩む2人に尋ねます」 その言葉に先生と昇の表情が引き締まる。 「すこやかなときも、そうでないときも 命ある限り互いを愛し、敬い、なぐさめ、助け、 ともに生きることを誓いますか」 一呼吸置いて、先生が良く通る声でしっかりと言った。 「誓います」 そして、昇を見る。 みんなも、見る。 「誓います」 昇らしい、溌剌とした、でもどこかちょっとだけ照れくさそうな声に、香奈子先生が少し涙ぐんだ。 3人の中で一番発育が良くて、お座りもハイハイも立っちも歩くのも、一番最初だったっていう昇は、その分病気も多かったそうで、小学校へ上がるくらいまでは随分気を揉んだんだそうだ。 それが、いつの間にか元気いっぱいのやんちゃ坊主に成長して…って、昨夜、香奈子先生が話してくれた。 ちなみに悟は何をするのも一番遅くて、『この子大丈夫かしら』って心配になってたそうなんだけど、その代わり、あんまり病気をしたことがなくて楽だったって。 守は本当に心配をかけない良い子だったらしく、唯一のお小言が、消灯点呼破りを学校から注意された時に言った、『やるなら見つからないようにやりなさい』って一言だったらしく、香奈子先生はそれについてはちょっと反省をしている。 何故かというと、それ以来守は『消灯点呼後』に脱走を計るようになったからだそうで。 ともかく、香奈子先生の元から昇が巣立つ。 当分はここで暮らせるけれど、でももう、昇は先生と共に生きることを誓い、自分の道を歩み始めた。 「では、指輪の交換を」 悟がそう言って、僕に目で合図をする。 僕は頷いて、ミニテーブルの上の『リングピロー』を取り上げた。 そして、悟の前に差し出す…と。 「…え? 指輪って…」 昇は目を見開いて、『リングピロー』に飾られた、シンプルなペアのリングを見つめて、そして先生を見上げ…。 先生はそんな昇に茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせる。 「こんな…いつの間に……」 昇がちょっと目を伏せた。 声が震えてる…?…と思ったら、やっぱりちょっと震えているように見えた長い睫毛の下からポツンと一つ、雫が落ちて、芝生に吸い込まれていった。 そんな昇の手を、先生がそっと、取る。 そして、悟が指輪を先生に渡し、先生はそれを、昇の白くて長い指にはめていく。 今日はちゃんと左手の薬指に。 右手のサイズに合わせたから、ほんの少し緩いみたいで、それはすんなりと納まった。 それをジッと見つめていた昇がふと顔を上げて、笑った。 それはそれは、嬉しそうに。 そして、昇も悟から指輪を受け取り、先生の左手の薬指に……って、なかなかはまらなくて、ちょっと苦労したみたいだけど、先生が昇への愛の証しにこっそりと用意したそれは、ちゃんと2人の指に納まって、キラキラと輝いている。 「では誓いのキスを」 悟が厳かに促した。 いよいよクライマックス…!と、思ったら。 「おい…それはちょっと」 先生が狼狽えた。 昇は真っ赤になって固まってる。 やだなあもう、せんせってば何を今さら…って思ったら。 そうか、僕らの前だけならともかく、ここにはお父さんも香奈子先生も、それに佳代子さんもいるから…かな? でも、お母さんは超真剣な表情で、デジカメを構えてベストショットを狙ってるし、お父さんは、心なしか赤い顔をしてちょっと目が泳いでるけど満更でもなさそうで、佳代子さんは、両手を胸の前でお祈りポーズに組んで、強烈にワクワクした目で見つめてるし。 センセがそんな様子を見て脱力した。 ここはみんなの期待に応えなきゃダメだよ、先生。 「せんせ〜。男だろ〜。いっぱつガツンと決めろよ〜」 不服そうな守が飛ばした雰囲気ぶちこわしのヤジが、先生とお父さんの妙な緊張感をちょっと取ったみたい。さすが、守。 ってわけで、僕も負けてられないから…、 「いつもやってるじゃない〜。ほら、センセの部屋でとか〜」 …って。 あら、センセとお父さんが固まっちゃった。 ええっと…。まずかったかなあ…えへ。 「いいからとにかくやっちゃえ!」 って、昇の背中をトンっと押したら、腑抜けていたらしい昇はあっさりと先生の腕の中に納まって、ほんの一瞬、唇が触れた。 もちろん、その瞬間がばっちりと香奈子先生のデジカメに納まったのは、言うまでもない。 こうして2人の結婚式は無事に(?)執り行われ、記念写真を撮りまくったあと、パーティに突入したのだった。 ☆ .。.:*・゜ 「うふふ。いいこと思いついちゃった」 香奈子先生が、ワイングラスを片手に不穏な笑いを漏らした。 「なに?」 悟が応える。 「葵の籍を動かすときにね、悟の籍に入りたかったら、ウェディングドレスを着ること…っていうのはどう?」 ………は? 僕はプリンを手にしたまま固まった。 「それが嫌なら、私の籍に入ること」 「母さん…」 「なあに?」 「それ、僕としては美味しいんだけど」 「よねえ」 ………ぼくはちっともおいしくありません………。 「あら、葵ってば、固まってるわ」 「大丈夫だよ、葵。ちゃんと似合うの作るから」 って、そういう問題じゃなくて! やだ〜! 卒業してからも女装は勘弁〜! …って、『卒業してからも』ってことは、僕ってもしかして聖陵祭とか諦めてる? いーや! 絶対諦めないんだからなっ。 ☆ .。.:*・゜ 春の夕暮れ。 僕とおとうさんは、香奈子先生の薔薇園を散歩している。 あのあと、パーティは楽しく盛り上がり、今はみんなリビングでのんびりお茶なんかしてるはず。 お父さんは、今回は2週間ほど日本にいるんだけど、『日本にいる』っていうだけで、明日は北海道、明後日は九州…みたいなスケジュールで、やっぱり猛烈に忙しい。 そして僕は、明日にはもう入寮しなくちゃいけないから、ゆっくり会う時間はもうない。 …ってことで、こうして散歩に出てきたんだ。 「僕…お父さんが、反対しなくてよかった…って思った」 闇雲に反対するような人ではないと思っていたけれど。 案の定、お父さんは穏やかな表情で僕の頭を撫でた。 「香奈子がいいと言ったんだ。私がどうこう言える立場じゃないよ。それに、光安先生は尊敬に値する人だ。音楽家としても教師としても…男としてもね」 うん、そうだね。その通り。 「それに、昇はああ見えても一途で頑固な質だからね。たとえ香奈子が反対しても、自分の想いは貫くだろう」 お父さんのその言葉に、僕は嬉しくなったんだけど、ちょっと驚きもした。 昇って、確かに一途だと思うんだけど、あんまり『頑固』って思うことはなかったから。 その事をお父さんに言うと、お父さんは昇が小さい頃の話を教えてくれた。 「見た目がほとんど『日本人の血』を感じさせない昇が、どうして3人の中でも一番『日本人らしい』んだと思う?」 うん。確かに昇は一番『日本人』だと思う。 ごはんが好きで、パンはあんまり好きじゃなくて、納豆とかお刺身とか焼き魚が大好きで、古文や漢文が得意で英語が苦手。 ケーキは好きだけれど、和菓子はもっと好き。 「昇はね、誰よりも『日本人らしくあること』にこだわったんだ」 「…それは、昇が自分の意志で、そうなった…って言うこと?」 僕の疑問にお父さんは軽く頷いた。 「幼稚園の頃、外見が違う所為で苛められたことがあったらしくてね。もちろん、悟や守がしっかりと守っていたと香奈子は言っていたが、多分それが元ではないかなと思うんだが…」 そう言う話は悟からも聞いた事がある。 もちろん昇だって、黙って苛められっぱなし…ってタマじゃないから、それなりに反撃はしてたらしいけれど、あの頃は特に、3人で力を合わせて喧嘩してたって。 「小学生の低学年の頃だ。昇と守がウィーンに来た時に、守が英語の童話を読んでいたから『偉いな』って誉めたんだ。そしたら守が、『昇はもっとすごいよ』って言うものだから、いったい何を読んでいるのかと思ったら、なんと『源氏物語』の原文を読んでいたんだよ。もちろん注釈付きではあったけれどね」 小学生が原文の源氏物語!? なんてオソロシイ…。 ってかあり得ないし。 「難しくないか?って尋ねたら、『難しいけど、日本人だったら読めなきゃいけないの』って、真剣な顔で答えてきてね。私は返す言葉をなくしてしまったんだ」 お父さんがちょっと苦しそうに笑う。 「納豆好きだってそうだ。小学生の時に、『納豆が食べられないなんて日本人じゃない』って言われたらしくてね。それから必死になったらしい」 …そうだったんだ…。 「困ったのは香奈子だったと思うよ。彼女は納豆が大の苦手だったからね。でも昇につき合ううちに食べられるようになったみたいだし、悟も守もそうだ。ただ、シャロンは克服できなかったみたいで、未だに納豆はNo Thank youみたいだけどね」 日本人でも苦手な人はたくさんいるのになあ…って、お父さんは笑い、僕には『葵はどうだ? 食べられるか?』って聞いてきた。 「もちろん、食べられるよ。僕、好き嫌いないから」 って、えっへん…と胸を張ったら…。 「人参、嫌いだろう?」 ニッと笑って突っ込まれた。 「う…」 「人参くらい食べられなくってもいいよ…って言ってあげたいところだがな、残念ながらあの野菜のパワーは凄いからな。できれば食べられるようになったほうがいいな」 「…はぁい……」 渋々の返事にも関わらず、お父さんは『いい子だね』って頭を撫でてくれた……って、僕はもう17歳なんだけどな。 でも。 「お父さんって、色んなこと、知ってたんだね」 子供たちのことは何にも知らないんだ…って、確か言ってたと思うんだけど。 「…まあね。情報収集だけはやっていたな。父親面して彼らに関わることはできないと思っていたからね。せめてそれくらい…というところだろうか。知っていたからって偉いわけでもなんでもないのにな」 それでも知らずにはいられなかった、お父さんの気持ちは、今ならわかるような気がする。 それから、僕が尋ねるままに、お父さんはその『情報収集』の一端を教えてくれた。 おねしょが治るのは悟が一番遅かったとか、守は幼稚園の頃からモテまくりで、同級生の女の子たちはもちろん、その母親たちまで、どうやって守を我が家に招こうかと躍起になったとか。 あと、3人揃って大きな栗の木に登ってしまって降りてこられなくて大騒ぎになった話とか。 それに、お父さんの体験で、赤ん坊の頃の3人は、悟と昇はいつも泣き出して抱かせてくれなかったけど、守だけは泣きそうになりながらも我慢して抱かせてくれたこととか。 悟がなかなか教えてくれない、そんな『小さい頃の話』を、お父さんはこれからも思い出すままに教えてくれる…って約束してくれた。 そして。 「葵のことは、私はまだほとんど知らないままだ。これからたくさんのことを見つけていけるといいなと思っているんだけれど、協力してくれるか?」 お父さんが知らない、お父さんと会うまでの、僕の15年。 「でも、僕のこと、色々知ってしまったら大変かもしれないよ?」 「どうして?」 「僕、とんでもない我が儘で嫌なヤツかも知れないし」 「いいよ、それでも。私は葵の望むことはなんでも叶えたいんだから」 ほんと、お父さんってば、甘いんだから。 「じゃあ、さっそくお願いしてもいい?」 「なんだ?」 嬉しそうなお父さん。 でも、どうするんだろう。本当に、我が儘な困ったお願いだったら。 「来月、香奈子先生のプレゼントを探すの、手伝ってくれる?」 「それはもちろん構わないが…香奈子の誕生日は8月だよ?」 「来月は母の日だよ、お父さん」 「葵…」 目を見開いて絶句したお父さんは、僕をギュッと抱きしめた。 母の日の次の月には父の日が来る。 その時は、香奈子先生に手伝って…ってお願いしてみよう。 僕だって、お父さんのこと、まだほとんど知らないから。 |
【3】へ続く |