君の愛を奏でて 2
『Happy Happy Strawberry』
【3】
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「わあっ」 「危ないっ」 それは、祐介が彰久を抱きしめてしまったあの日から、ほんの少し後の、ある日の練習室でのことだった。 「うわー、びっくりしたあ」 「大丈夫ですか? 奈月先輩」 「うん、ほんと、ありがと。初瀬くんのおかげで助かったよ〜」 譜面台に躓いて、ひっくり返りそうになった葵を、英彦が咄嗟に抱き上げたのだ。 「それにしても、初瀬くんってば逞しいなあ。抱かれ心地も満点〜」 挑発するように――もちろんわざと――英彦の首に腕を回すと、肝心の彰久はもちろん乗ってこなくて、代わりに中1の双子が英彦の両腕にぶら下がってはしゃぐ始末。 だが、彰久の表情をこっそりと盗み見るような祐介を、もちろん葵は見逃さなかった。 そして部活終了後。 二人きりでさらに1時間練習をして、そろそろ寮へ引き上げようかと言う時間になって、不意に英彦が、彰久に尋ねてきた。 「僕が奈月先輩を抱き上げたとき、どう思いましたか?」 「え? かっこいいなあと思ったよ?」 逞しくて優しくて、頼れる存在であることには変わりない。 そしていつも、それをどうにか恋愛感情に持っていこうと努力しているのだ。彰久は。 「それだけですか?」 「それだけ…って?」 妬いてもくれないんですね…とは、さすがに口に出来ず、英彦は言葉を飲み込む。 そして、やはりその気持ちはこちらを向いていないと、改めて悲しい確信をしてしまった。 「…どしたの?」 「…いえ、なんでもないです」 そう言って、少し寂しそうに笑ってから、英彦はギュッと彰久の身体を抱きしめ、一つ、深く息をして、離す。 「初瀬くん?」 何かあったのだろうかと問いかけてみたが、返ってきた答えは彰久にとって意味不明のものだった。 「もう、やめましょうか。先輩」 「…え…? なに…を?」 練習なら、今やめたばかりだけれど。 「僕は、先輩のことが好きです」 「あ、うん」 「先輩は僕のこと、好きですか?」 「…うん、好き、だよ」 「じゃあ、キスしてもいいですか?」 「ええっ?」 目を見開いて硬直する彰久に、英彦は苦笑するしかない。 「キスだけじゃない。もっと先まで、僕は先輩に触れたいと思っているし、離したくないと思っています」 熱い視線で真剣に語られて、彰久は言葉を失う。 そして、そんな様子に英彦は表情を曇らせ…。 「僕のどこが好きですか?」 「…ええと、全部、だよ? 優しいところも、男らしいところも…」 すべてが想定内の答え。優しいと言われても、男らしいと言われても、切ないばかり。なぜなら…。 「でも、僕より好きな人、いませんか?」 「…え……」 ぎくりと身体を強張らせる彰久に、聡い英彦はすべてを悟る。 この可愛い人は、やっぱり何一つとして自分のものになっていないのだと。 それならば、もうこの手を離すしか、ないのだろう。きっと。 「例えば、浅井先輩と奈月先輩はなんでもないとしたら…」 それを知ったら、この人はどう思うだろうか。 仮定のつもりで口にしたのだが…。 「は、初瀬くん、どうしてそれを…」 二人の間に何もないことを知っているのは自分だけだと思っていたから、彰久は思わず口を滑らせてしまった。 「…先輩? もしかして…」 目を見開く英彦に、彰久は思わず俯いた。 「知ってるんですか? 浅井先輩たちが実はつき合ってないってこと」 「…あ、ええと……うん」 「じゃあ、どうして。どうして僕を…」 常にない荒っぽい仕草で肩を揺すられて、彰久は慌てた。 「あ、あのねっ。違うんだ。僕が知ったのは、つい最近のこと、だから…っ」 だから、それとこれとは関係ないのだと言い募ろうとしたのだが。 「でも、知ったのだったら、もう諦める必要はないでしょう?」 「…諦め…る?」 「…そう、です。諦めたんですよ、あなたは…。僕を選んだのではなくて」 痛いところのど真ん中を突かれて、彰久は絶句した。 そして漸く気付いた。自分は、優しい英彦の懐へ、逃げ込んだだけだったのだと。 「…知ってしまったから、ここ暫く、ふさぎ込んでたんですね……」 英彦ももちろんずっと気にしていたのだ。口数が減り、笑わなくなっていた彰久のことを。 「…ぼく…ぼく…は、初瀬くん…に、酷いこと……」 想いを寄せてくれることを利用してしまったのだと思い至り、彰久はその大きな瞳に涙を溢れさせた。 「ごめん…ごめん…なさい」 繰り返しそう言って泣きじゃくる彰久を、英彦はいつものように優しく抱きしめて、慰める。泣かないで下さい…と。 そう、泣かせたいわけではないのだ。 彰久にはいつも笑っていて欲しい。 生きることの叶わなかった兄――弓彦の分も、幸せに笑っていて欲しいのだ。 そのためには、自分が手を離さなければならないのだとしたら…。 「いいですか、先輩。諦めちゃダメです」 後押しだって、きっとできる…はず。 「でも…」 「諦めたら、もう先はなくなるんです。でも、諦めなければ、道はずっと続いていきますから」 「初瀬くん…」 二人がきちんと向き合いさえすれば、この想いは成就するに違いないと英彦は確信して、もう一度、言った。 「諦めちゃ、ダメです」 その力強い言葉に、彰久は思わず頷いた。 けれど、もちろん今の彰久に、『祐介にアタックする』などという選択肢はまるでなく、ただ、このまま想いを持ち続けていてもいいのだと言うことに、少しばかりの安堵を覚えるだけで…。 そして。 「あ、でも初瀬くん…なんで僕が浅井先輩のこと好きだって知ってたの?」 あまりに彰久らしい、ボケた可愛い発言に、思わずまたその小さな身体を英彦は抱きしめてしまう。 「そんなの、見てればバレバレですよ」 その言葉に、彰久はまたしてもぎくりと身体を強張らせる。 確か、葵にも同じ事を言われた。 『僕は、藤原くんの気持ちにはとっくに気付いていたよ』…と。 「…そ、そんなに見ててバレバレ…だった?」 だとすれば、他の人も気付いている可能性大だ。 ――うわああああっ。ど、どうしようっ! けれど、慌てた彰久をまた抱きしめて、英彦は安心させるように笑った。 「大丈夫ですよ。僕はずっと先輩を見てきたから気付いただけですから」 「で、でも、奈月先輩にも言われたんだ」 「奈月先輩に?」 「うん…。気付いてたよって」 それはまた…と、葵の行動をざっと検証して、英彦はなるほどと頷いた。 ――奈月先輩、痺れ切らしたな…。 あちらはあちらで行動を起こしたに違いない。そうとなれば、やはりこのタイミングで彰久の手を離すのは、必然だったのだ。 思い合う二人が、結ばれるために。 「そりゃあ、藤原先輩は奈月先輩にとって、誰よりも可愛い後輩ですからね。気付いて当然でしょう?」 「…そんな、もの?」 「そんなものですよ」 素直で単純な彰久を煙に巻くなんて、簡単なことだ。 そう、この優しい人を守るためなら、何でも出来る。 だからこれからも、自分はきっと、また違う立場でこの人をずっと守って行くに違いないと、英彦は確信した。 ただし、一番欲しかったポジションを手放すのだ。 『はい、どうぞ』…なんて、あっさり恋敵の手に渡してやるつもりはない。 もちろん彰久には泣いて欲しくはないから…。 ――浅井先輩、お手並み拝見といきますよ…。 まだぐるぐると考えている彰久の柔らかい抱き心地を堪能しながら、英彦は切れ長の目をスッと細めた。 ☆ .。.:*・゜ 「なあ、葵」 「うん?」 二人がゆっくりと話せるのはやっぱり消灯前のこのひととき。 ベッドの上で仰向いたまま、祐介は葵に話しかけた。 「藤原って、初瀬とつき合ってるんだよな」 「…そう言う噂だけどね」 「……だよ、な」 そしてまた、押し黙る。 「で?」 痺れを切らしたのは葵だ。 特に3年になってから、この件に関して我慢がきかなくなってきた。 もちろん親友の幸せを願う気持ちにウソ偽りはないが、とっととまとめて楽になりたいというのも…実は本音だったりする。 「え?」 「え…じゃないよ。だからなんだっての」 「だから…って」 「藤原くんと初瀬くんがつき合ってるから、なに?」 「…いや、別に…」 「別にじゃないでしょうが」 珍しくまくし立ててくる葵に気圧されて、祐介の口からぽろりと本音がこぼれ落ちた。 「…いや、ただ…イヤだな…って」 言ってからしまったと思ったのだが、当然後の祭りで、その言葉に葵は盛大にため息をついて、わざとらしく肩を竦めた。 「やれやれ、やっと自分の気持ちに気がついたわけ?」 「葵?」 ガバッと起きあがり、ベッドに腰かけている葵と視線を合わせると、葵は意味深に笑って見せた。 「随分遠回りだったよね」 「葵、お前もしかして…」 「とーぜん。とっくの昔に気がついてたよ、僕は」 「何でだよ」 自分ですら自覚のなかったこの想いに、どうして葵が『とっくに』気がついていたのか、不思議…いや、理不尽だと祐介は葵に詰め寄った。 「何でって、僕が鋭いんじゃなくて、祐介が鈍いんだよ」 「僕が鈍い?」 「そう。祐介が、に・ぶ・い…のっ」 『切れ者生徒会長』だとか、『やり手の管弦楽部長』とか言われたことはイヤと言うほどあるけれど、『鈍い』と言われたのはこれが初めてで、驚きすぎてかえって新鮮なくらいだ。 「ま、少しは僕の所為もあるかも知れないから、これ以上は突っ込まないであげるけどね」 偉そうに言われても、なんだかピンと来ない。 ただ、葵への想いに紛れて、別の場所で密かに育っていた想いに気付くのが遅れたのは確かかも知れないと自覚する。 だから…。 「…そうか…鈍かったのか…」 ぽつりと呟いた。 「あらま、珍しく素直だね」 「珍しくってなんだよ」 「まあまあ。誉めてるんだから」 もちろん祐介には誉められているようには聞こえないが。 「で、この先の展望は?」 「……別に」 「え〜、何それっ」 今さら何っ…とか、それあり得ないしっ…とか騒ぎ出す葵に、祐介は小さく首を振って見せた。 「仕方ないだろう? あいつらは…つき合ってるんだから」 「だからってここで諦めるわけっ?」 「……」 諦めたくないと、何度も思った。けれど、返す言葉が出ない。 ややあって、葵がため息をついた。 「あのさ、遅かった…とか思ってる?」 「思ってる」 「後悔…してる?」 「してる。悔しい」 キッパリと言い切って、唇を噛みしめた祐介の横顔に、葵が厳しい声をぶつけてきた。 「悔しいんだったら、当たって砕けりゃいいじゃん」 「…葵…」 「どうせもう遅いんだったら、黙ってないで言っちゃえば? で、ばっさり振られてすっきりした方がいいよ。そうでないと、いつまでも『あの時に…』って、ウジウジ思う羽目になるからさー」 エライ言われようだが、確かに言われる通りだと思うので反撃できない。 「この先また同じ過ちを繰り返さないためにも、痛い思いをして学習しておいた方がいいんじゃない?」 容赦ない責めに、祐介が更に押し黙る。 「ま、人間諦めが肝心だから」 さらに煽るように言ってやると…。 「…諦めない」 絞り出すように、祐介が言った。 「祐介…」 「あいつの口から、はっきり振られるまで、諦めない」 本来の祐介らしい、力の籠もった瞳を見て、葵はホッと息をついた。 ☆ .。.:*・゜ ――はあ〜、疲れた〜…。 けれど、これで何とかなりそうだ。 電気は消えて、部屋の中はすっかり暗いけれど、きっと祐介はまだ眠っていない。 玉砕のシミュレーションをしているはずだ。 ――がんばれ祐介。あと一息だから……。 悶々と考え続ける祐介を残し、葵は目を閉じると、いつものように3カウントで夢の国へ旅立っていった。 |
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