君の愛を奏でて 2
『Happy Happy Strawberry』
【4】
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「好きなんだ」 頭の上のずっと高いところから、優しい…けれど寂しそうな顔で、先輩は言った。 部活が終わって少し後。 『ちょっと残ってて』…と言われて待っていれば、戻ってきた先輩に『大事な話がある』と言われて練習室に連れ込まれた。 部屋の中は二人きり。 いつになく固い雰囲気を纏った先輩に、僕は少し怯えたんだけど、先に立って背を向けていた先輩が振り返ったとき、何となく気がついた。 先輩は不機嫌なのではなく、緊張しているんじゃないかって。 もちろん、僕はそんな先輩を見たことがない。 コンサートの本番を前にしても、こんな様子の先輩を見たことはない。 ただ、オーディションの時には、それなりに固い表情だったと思うんだけれど…。 そして振り返った先輩は、僕のすぐ前に立ち、ジッと見下ろしてきた後、不意に表情を緩めて微笑むと、その表情に似合わない寂しげな声で言ったんだ。 『好きなんだ』…って。 でも、僕にはその意味がさっぱりわからなくて…。 第一、主語がない。 誰が、誰のことを好きなのか、全然わからなくて、僕がほんの少し考え込んだとき…。 先輩は、もう一度、言った。 「好きなんだ、お前のこと」 今度は『誰を』が、自分のことのようだってなんとなくわかったんだけど。 ――だから、誰…が、ですか? けれど先輩は、その『誰が』を明確に教えてくれることなく、また柔らかく微笑んだ。 「ごめんな。初瀬とつき合ってるの、わかっててこんなこと言うのはルール違反だと思ったんだけど…。でも、自分の気持ちをちゃんと伝えて、ちゃんとケリをつけようと思ったんだ。だから、巻き込んで本当に悪いと思ったんだけど、本心を聞いてもらおうと思ったんだ」 そう言われても、僕はやっぱり理解ができなくて、返す言葉もないまま見上げるしかなかったんだけれど、そんな僕に、先輩はもう一度『ごめんな』と謝って…。 「多分、もうかなり前から…僕は藤原が…好きなんだ」 「あ、あのっ、僕…っ」 主語も目的語も揃ったような気がしたんだけれど、それらを詳しくどうこう思う前に、とにかく訂正しておかないといけないことがあるって、僕は焦った。 「僕…、初瀬くんとはもう…」 「…え?」 「…もう、つきあってないんです…」 ほんの数日前のことだけれど、僕と初瀬くんは、恋人同士でいることをやめた。 それは全部、僕の所為。 僕が、浅井先輩への思いを断ち切るために、初瀬くんの懐に逃げ込んだだけのことだったんだ。 そして、そのことに先に気がついたのは、初瀬くんで…。 僕は、初瀬くんのことをどれほど傷つけてしまったんだろう。 お兄さんの代わりどころか、僕は……。 「…どうして…」 俯いてしまった僕の頭に、先輩の驚いたような声が降ってきた。 僕は、顔を上げられないままに、小さな声で答える。 「僕には、他に好きな人がいて、それを初瀬くんは知ってて…」 「……っ」 息を飲むような音がして、僕は顔を上げた。 目の前に、目を見開いて、呆然と僕を見つめる先輩。 けれど先輩は、すぐに目を伏せた。 「…そう…か。他に好きなヤツ…が……」 先輩? どうしてそんな、傷ついたような顔、するの? 僕は…先輩が、好き、だよ。 これからもずっと好きでいたいんだ。叶わないとわかっていても。 でも…。 「でも、初瀬くんに、絶対諦めちゃダメだって言われて…」 だから、思うだけだから、許して下さい。 そう思ったら、一気に視界が曇った。 その、曇った視界の先で、先輩が唇を噛みしめるのが見えた。 そして、ギュッと目を閉じる。 でも、それをまた開いたときには、先輩はニコッと笑ったんだ。 「そうだな、藤原は絶対あきらめちゃダメだ。でも僕は反対のこと、葵に言われたよ。人間諦めが肝心だって。ちゃんと告白してきっちり振られて来いって」 ――告白? 振られる? …誰、に? 「だから、お前の口から、好きな人がいるってはっきり聞けてよかった」 笑っているけれど、やっぱりそれは悲しそうな笑顔で、そのことに僕の胸がズキンと痛んだ。 「聞いてくれて、ありがとな」 大きな手が僕の頭をくちゃっとかき混ぜる。 その手の温かさに、僕の口が勝手に動いた。 「…先輩」 「…ん?」 「諦めちゃ、ダメですっ」 「…え?」 「諦めないで下さいっ、ぼ、僕も諦めないから…っ」 先輩の好きな人が誰なのかは、わからな………ええっと。 わからなかった……っけ? なんか、ついさっき、先輩が誰のことを好きなのか、聞いたような気がするんだけど…。 「藤原…お前、言ってることが矛盾してるぞ」 先輩が僕の顔を覗き込んできた。 「僕がお前を諦めなくて、お前も好きなヤツのことを諦めなかったら……いつまで経っても堂々巡りで結果は出ないぞ?」 先輩が僕を諦める? どういう意味だろうと思ったとき、不意にさっき聞いたような気がした先輩の言葉がよみがえった。 『僕は藤原が…好きなんだ』 ……僕? ………ぼ、僕っ?! 「…あ、あのっ、先輩っ」 「なんだ?」 …や、ちょっと待った。これは都合の良い聞き間違いかも…。 だって、先輩が僕のこと好きだなんて、そんなことが…。 こんがらがって、黙り込んでしまった僕の前に、先輩が膝をついた。 間近で先輩に見上げられる状態になって、僕はそれだけでドキドキしてしまうんだけど…。 「ごめんな。いきなり好きだなんて言って、混乱させてしまったな」 ……え。 「でも僕は、藤原のこと、好きになれてよかった」 ………ちょっと待った。 「恋人になることは諦めるけど、だからって、好きでなくなることはちょっと無理そうだから、それだけは許してくれるか? 迷惑…かけないようにするから」 …………やっぱり…僕? 僕の、こと……だ。 「…先輩」 「なに?」 「だからっ、諦めちゃダメですってば!」 「…藤原?」 「だって、ぼ、僕が好きなのは、先輩…っ、…浅井先輩…ですっ」 「……え?」 ………うわああああああああああああっ。言っちゃったっ! 「…そ、それって……」 あ。先輩のこんな呆けた顔見るの、初めてかも〜。 …なんて、頭の許容範囲を軽く越えてオーバーヒートしてしまった僕は、妙に落ち着いた『先輩観察』をやってから、そこで固まってしまったんだけど、どれくらいそうしてたのか、不意に抱きしめられて我に返った。 「…本当に?」 不安そうな声。 「本当に、僕のことを…好き?」 耳元で、囁くような、確かめるような、少し震えた声。 「…は、い…」 小さな声で返事をした瞬間に、先輩の腕の力は強くなった。 折れそうなほど抱きしめられて、息も出来ないくらいの中で、僕は何度も思った。 これは夢なんじゃないだろうかって。 「……最高…」 先輩がそう、耳元で言った。 小さい声だけれど、まるで感極まったみたいな響きがあって、僕の心臓は口から飛び出そうなほど、ドキドキして…。 で、しばらくそうしてたんだけど、やがて先輩は僕をそっと離して、そしてしっかり目を見ていった。 「僕と、つき合ってくれないか?」 これでもかって言うくらい、真剣な先輩の顔。 そんな先輩も、もちろんめちゃめちゃかっこよくて、僕は思わず見惚れてしまって…。 「…藤原?」 その表情が、少し曇ったことに、僕は慌てた。 「あ、あのっ、そんな、僕なんか…」 よく考えたら、とんでもないことになってるような気が…。 僕は浅井先輩が大好きで、奈月先輩が羨ましかった。 先輩の一番になりたくて、ずっと胸が苦しかった。 でも、いざこんな風になっちゃうと、急に不安になった。 だって、僕みたいなのが、浅井先輩と…なんて。 現実が目の前にぶら下がって、改めて僕は、どれほど身の程知らずな思いを抱いてたんだろうと、今さらながらに青くなっちゃったりして…。 「…だめ、か?」 少し曇った表情が、更に曇ったような気がして、僕は思わず言い募った。 「だ、だめ、とかじゃなくて、その、僕みたいなのが先輩の……」 …ええっと、先輩の……なんだろう。 なんて言っていいかわからなくなって考え込んでしまった僕を、先輩はまたギュッと抱きしめた。 「僕は、お前だから………恋人にしたいんだ」 ………こここっ、恋人っ! 「あ…ごめん、訂正」 えっ? て、訂正っ?! 「恋人に『したい』…じゃなくて、『して欲しい』…だな」 照れたように笑った先輩は、僕を丸ごと、温かく包み込んでくれた。 「…好きだ…ほんと……」 ジェットコースターみたいに乱高下していた僕の心は、先輩の優しい呟きに、ストンと落ち着いた。 まるで、あるべき場所に、戻ったかのように。 |
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